覚醒といふのは積極的な消費で、それは思考の体操の如きものである。(方法的制覇)

こういう文章は分かりにくいですが、若き日の吉本が化学者としての思考の方法で文化系の文学や思想の問題を扱おうとしている気がします。吉本が色紙を求められたら書く大好きな言葉は宮澤賢治の「ほんとうの考えと嘘のの考えを分けることができたら、その実験の方法さえ決まれば」という「銀河鉄道の夜」に出てくる言葉ですが、これもまた化学的な用語と思考方法で思想とか宗教を扱おうとしているって感じでしょ。化学あるいは科学の思考方法というのは吉本のなかに深く根づいているんだと思います。それはやはり誰でも辿ることのできる論理性ということと、実験によって再現可能な世界的な普遍性というものじゃないでしょうか。ある物質の性質を知ろうとしたら徹底的に細部にいたるまで分析し、そしてまた復元する。その過程が世界中の誰でもが辿れるような論理性と公開性をもっていなくてはならない。ひとつの方法で分析しきれないならば、他の方法を使って繰返し繰返し実験を重ねていく。発見されたものは誰かの功績ではあるけれど、それ以上に人類の普遍的な知的な財産という意味が大きい。誰もが分かち持てる。なんかそういう感じの科学の良さというものが吉本に根づいていて、どろどろとした青春の感情生活とか論理の通らないような文学的な感動というようなものにも、化学の方法を貫きたいという意欲を感じます。
それでこの文章の意味ですが、この前の文章があってそれは「忘却というものがなかったら精神はたえず消費を感じなければならないはずだ」という以前この解説で取り上げた文章です。だから忘却というものと覚醒というものを両端に置いて、精神の活動を消費という言葉にしているわけです。忘却したことには精神は消費されない。忘れちゃってるんだから。忘れていないさまざまなことには精神は消費される、しかしそれはいわば受動的に働いている感じ。では積極的に能動的に精神が消費されるのは覚醒と呼ばれるべきだ。覚醒とはつまり対象の能動的な把握で、化学者が物質を解析し終えたというようなものじゃないかと思います。分かった!という感じ。で、それを思考の体操のようなものだというのは価値づけしたくないんだと思います。覚醒しなくちゃいけない、覚醒は素晴らしい価値だというような知の優位や知の序列というものを遠ざけて考えたいのだという気がする。
まあそんなとこで勘弁していただいて、母型論のほうへ行かせていただきます。仕事は5時になると同時に帰って、まっすぐパチンコ屋に行くサラリーマンのように(*´ー`)
自分の人生やまわりの人の人生を考えて、精神的にきついとかちょっと普通じゃなくなっちゃったという時を考えてみると、それはその時属していた集団のあり方と関わるような気がします。悩みというのは学校であれ友達グループであれ、会社であれ家族、親族であれ集団のなかにいる自分というところから湧いてくることがやはり多い。それがちょっとヘンだということから病的だとか異常だとかまでの幅があるでしょうが、火種は集団、つまり共同体と個の精神、というより無意識を含んだ精神の関わりのなかにあるに違いないという人生的な実感があります。しかし吉本の考えでは個の精神的な病像というものは乳胎児期から始まる母子の関係の傷とか挫折とか屈折とかに発祥するわけです。そこが不思議なわけで、なぜ母と子の閉じられた世界から発症するこころの問題が、共同体のなかでの圧迫感とか疎外感とか挫折感とか、それを引きがねにした病像の獲得ということにつながるのか。ぜんぜん別のことのように思えるふたつの事柄はどのように論理性と普遍性の広場に持ち出せるのか。それで何回か吉本の考えを追ってきたわけですが、パチンコ屋に入り浸っても玉が減るいっぽうの奴のように、いっこうにチューリップは開かない。
今回は違う穴をねらってみます。母が子を育てるということが共同体とどう関わるか。吉本は「乳児期にたいしては未開の問題、原始・古代の共同体の問題が色濃く刻印しているとおもいます。それから、幼児期を終わった時から思春期にいたるまでの期間は、たぶん古代以降の、というよりも、それを一つに集約した現在のといってもいいんですけど、現在にいたる共同体の展開過程がたいへん大きな刻印をしているとおもいます」と述べています(「心とは何か」弓立社)。これは前回の解説で触れたところですけども、この母子関係と共同体の対応という問題がなぜ生じるかということを吉本は根源的なところで取り上げています。それは乳児期においては人間は他の動物と違ってすぐに立ち上がって一人歩きするということができない。一年から二年にわたって、母親か母親に代わるものによって授乳と世話を受けないと生きていけない。つまり他の動物であればそんな状態で生まれることはないので、まだまだ胎内にいるはずの時期にもう外界に出産されて出てくる。それが人間の乳児期のたいへん不可解な特徴だと吉本は考えます。
この不可解な人間だけの特徴こそは、人類だけが人類史の未開、野蛮、原始の共同体を形成する過程で刻印してきたものです。一口でいうと人間は幼児期において身体はじぶんで動くこともできない、食物も自分で補給できない。生育してくれる母親か母親に代わるひとによらないと生きていけないくせに、外界にでてきて精神を外界に触れさせて発達させはじめる。そのズレというものが人類の歴史的な共同体、未開の共同体以来の共同体の刻印が色濃く押される根源的な理由だと吉本は述べています。ここから先にも吉本が述べていることはたくさんありますし、吉本はどんどんそれを述べていきますが、しかし凡庸な読者の私としてはここで少し立ち止まって山登りで思わず開けた中腹の景色を見渡すように皆さんとともに立ち止まってみたいと思います。
ここでは乳児期から思春期にいたる時期のうち、乳児期について述べられているわけです。人類はおおざっぱにいってサルからヒトになった。そしてヒトとしての共同体を作って暮らし始めたと思います。それは血縁の集団から始まったんでしょう。血縁だけが世界のすべてであった時期が膨大に続いたのだと思います。そんな集団のなかで赤ん坊は生まれる。生まれた赤ん坊はサルからヒトになりたての時期ではどうだったんでしょうか。サルの赤ん坊のように生後まもなく自分で動くことができたのでしょうか。それは知識がないのでわかりませんが、しかし養育されなければ自らは動けないのに生まれてきたというズレは次第に拡大していったのだと推測します。それはなぜなのか。その養育期間というズレの期間はなぜ拡大しなければならないのか。そしてその遥か人類史の未開の時代に発祥したにんげんがにんげんである根拠は現在の私たちの精神にどう刻印を残しているのか。
吉本が考えたのは「母親がもっぱら未開・原始の共同体からのいきさつの体現者となって、それを全部植えつけなければ乳児は生きていけないという仕組みになっています。これが不可解なところです。不可解ですけども、これが人類といいますか、人間のたいへんな特徴だとおもいます(「心とは何か」より)
ということです。ここでまたいっぷくしましょう。思考の傾斜がきつくて、吉本のようにぐいぐい登っていくのにとうていついて登れないから。
これまで母子関係の問題ということで語られてきたのは、母親が虐待した子が精神をおかしくしたというような観点に限られてきたと思います。もちろん吉本もそうした個としての母親と個としての子の問題について考えています。母親が父親、つまり夫婦間の性的なあり方というものを胎乳児期の子との関係に写し替える、あるいは擦り込むという問題があります。ダンナが浮気をするから子供を育てるなかで不安定な気持ちを持たざるをえないというような。しかし母子関係の問題はそこに留まるものではないという観点を吉本は提出しています。人類史という歴史的な観点を導入した場合、こうした個としての母子関係の問題は現在的な問題と呼ぶことができます。母は子に現在的な問題としてさまざまな心的なものを擦り込んでしまう。しかしまた歴史的な問題における擦り込みもあるのだということです。母親が乳児期に赤ん坊に与えるものは栄養であり排泄などの世話でありというのとともに、未開・野蛮以来の共同体の、にんげんがにんげんとして動物と別の道を歩き始めた理由を擦り込むのだという観点を吉本は提出したわけです。
今回は時間もないしもっと先まで書くつもりでしたが、もうムリ。しかし母子関係における共同体との対応という理論的でもあり、また切実な私たちのこころの悩みにもつながるこの問題についての吉本の考察はさらに深く続きます。だんだんそれを追ってよちよちながら進んでいきたいと思います。まどろっこしいと苛立つアナタは、吉本の本自体を読んでいくのが一番いいと思います。そのきっかけにでもなれば、この解説を書いたオイラとすればもって瞑すべきだと思います。