何故に僕は自分といふものを救助することが出来ないかと言へば、精神は絶えず救助の方向に反撥するからである。(断想Ⅲ)

自分を救助するというのは、自分を安心させるっていうことだと考えると、自分を安心させるためにはとりあえず何かを信じるってことだと思うんです。何かを信じてしまえば価値の秩序ってものが心に生まれましょう。信じているものが上にあって、信じられないものは下にあるわけだから。精神がたえずその方向に反発するというのは、精神は信じるっていうことをなかなか受け入れないからでしょう。ではなんで受け入れないのか、あるいは深く信じこむ人たちが一方に存在するのはなぜか、という疑問が起こります。それは戦争期に自分の将来の戦争死をどう受け入れたらいいか、何を信じれば受け入れられるかを深刻に考えた吉本の世代の課題でもあったとおもいます。そのことへの吉本の考えのひとつは下のほうの「おまけ
に引用しました。無意識は乳胎児期の母子関係から作られる。そして無意識の形成は共同体の形成に深くかかわっていく。その解明はやがて人類が自らの無意識を作り出すという課題に向かう、と吉本は考えていたと思います。それが自然に対する人間的本質の貫徹の必然だということです。吉本の考察は吉本の死を超えて、私たちの前方を照らしているとおもいます。

今日知ったんですが、吉本さんの奥さん、俳人の吉本和子さんが、後を追うように今年の10月に亡くなっていたんですね。ご冥福をお祈りいたします。

おまけです。
「ハイ・エディプス論」(1990年言叢社)より    吉本隆明

それじゃ、何が「ほんとうのこと」なのかは、なかなかむずかしくて求められない。そもそも「ほんとうのこと」と「うそのこと」とか、何が真理かみたいなことに、なぜ人はこだわるのかといえば、たいてい根源的に乳胎児期にこだわりがあるということです。それをいうかいわないか、意識するかしないかはべつにして、第一義的にそこにこだわりがある。僕にはそうおもえます。比喩的に乳胎児期は始原の星雲ですから。