方法は純化せられたる選択である。(〈方法について〉)

純化されたというのは自分のなかで抽象化されたということじゃないかと思います。選択というのは言葉の選択であれ対象の選択であれ選択の連続として表現は行われます。なぜここでこの言葉を使うのか、この場面を描くのはなぜか、なぜあの場面ではないのか。そういう選択は無意識に行ってもいい作品ができることはあります。いわゆる「バカでもいい作品はできる」ということです。ここで方法といっているのは選択における自意識の問題なんだと思います。無意識の領域のなかから降ってくる言葉を、自意識の光にあてることができるかどうか。できるならそれは方法というものの端緒になるんでしょう。それがいい作品ができる保証にはならないとしても。
そこでもっと拡大して考えれば表現なんかしない生活者の領域でも同様のことが考えられるのではないかということになります。人生は選択の連続であるとすれば、それが自意識として捉えられる範囲では生活の方法が生まれてくると考えられます。それは生活の手段とは違うので、いわば生活の思想です。生活の思想は表現の世界にナマで登場することはほとんどありません。しかしそれが目には視えないこの世界の本体だと思います。それが歴史の内在史という概念を作り出します。それは、そうか・・・吉本さんは死んでしまったんだよなあ。

おまけです
「アフリカ的段階について」(1998試行社刊)より   吉本隆明

自力で文明化したのではなく、欧米の先進文明の洪水によって水浸しになって溺れかかった固有アフリカの問題は、ほかのアフリカ的な段階にある地域とおなじように、欧米の先進文明の植民地になるか、欧米の文明史の洪水をうけいれて、知識的なエリート層からはじまって欧米化してゆくほかに道はないのか。もちろん文明化を歴史の生理としてみるかぎり、自然のまま成り行きにまかせるほか方途はありえない。それが現在のアフリカ問題の根本にひそんでいる。この根本にある課題は文明的な環境が早く進んだ地域と遅く後を追っている地域とが、いずれにせよ均等化するところへ集約されることで解決にはならない。なぜならアフリカ的な段階には人類の原型的な課題がすべて含まれていることを掘り起しえなければ、たんに進みと遅れ、進歩と停滞、先進と後進の問題に歴史は単純化されてしまうからだ。人類は文明の進展やエリート層への従属のために存在しているのではない。人類が何であるかの課題はそんなところには存在しない。