批評における判断力の表象は言ふまでもなく批評家の宿命である。この言ひかたが唐突に感じられない者にとつては、主観的客観的といふ分類は意味をなさない。批評家は常に主体的であるのみである。(〈批評の原則についての註〉)

言葉使いが難しいですが、批評家が批評をするときにその判断力は批評家自身の宿命によて行使されると言っていると思います。また批評家は批評をするときに、対象である作家の宿命を作品のなかから取り出す。それが批評だということになります。これは小林秀雄という批評家が独力で日本の近代批評を築きあげたときに、自分の批評の方法としたものです。宿命というのは何かというと、その人の無意識にあるもので、どう意識的に振舞おうといつのまにかその人の生涯や表現を決定づけてしまう傾向のようなものです。たとえば夏目漱石は「坊っちゃん」のような明るい悪童小説のようなものも書いたし、「吾輩は猫である」のようなユーモアを漂わせようとした小説も書きました。しかし漱石は次第に重く暗い三角関係を題材にとった小説群を書くようになります。そういう漱石の作家としての軌跡において漱石の表現を次第に煮詰め、漱石という高度な教養と海外経験と豊かな感受性をもった大河を引きずりこんで滝となって落下させる滝壺の底のようなもの、それを宿命と呼ぶのだと思います。たとえば太宰治を心中死にまで至らせたもの、三島由紀夫を割腹自殺にまで導いたもの、その無意識の導きを宿命といっていいと思います。作家は自らの宿命に自覚的であるとは限らないし、むしろ自らの宿命から逃れようとあるいは超え出ようと作品をつくる場合もあります。そうした作品から作者の宿命を抽出することが批評の第一の課題だという小林秀雄の方法を若い吉本も共感しているのだと思います。
そして作者の宿命はどのように判断されるか、それは批評家自身の宿命の自覚によってだといっているのだと思います。逆にいえば自らの宿命に自覚的でないとか、自覚的であろうとしない批評家は批評家とはいえないということだと思います。批評とは自らの宿命を知ることによって、作家の宿命を判断することなのだということです。その次に書かれている批評は主観的客観的という分類は意味がないので、批評家は常に主体的であるのみだというのは、宿命というものに自覚的であることを主体的と考えると、その宿命の根源は自らの生命が環境と一体であった時期から分離して意識が生まれるところまで遡るところに求められるからだと思います。主観的客観的という分離が生まれる以前の根源にまで遡っていき、そこから戻ってくることを批評と呼ぶならばそれは主体的であるのみだということになるんじゃないでしょうか。
では宿命の根源とは何かという話題が出たところで「母型論」のほうへ話を移させていただきます。前回あろうことかアルマイト鍋か(また言っちゃった(・_・)BY東海林さだお)ご質問をいただきまして、それは「エロス覚とはイメージ覚といってはおかしいのか」というもので、そのイメージ覚というのをもう少し説明してくださいとお願いしたところ次のような返事をいただきました。それは「イメージ覚と言ったのは、例えば赤ちゃんがお母さんのお乳を飲む時に、1日24時間1年365日それをやっていたら、いくら好きであっても『もういいです』と言いたくなると思う。お乳を飲んでいない時、距離があってこそのエロスではないか。つまりエロスとはイメージのことなのではないかと思いました」というものです。このお返事に対してわたしの分かる範囲の吉本の考えを述べてみます。まず距離とか距離感の発生について「母型論」の「大洋論」のなかに書かれていることがあります。それは乳児が母親のおっぱいを吸うときに、顔をおっぱいに押しつけて吸うわけですが、その時に赤ちゃんの顔の表面と舌や唇と手触りのすべてが触覚を形成します。そしてその触覚の薄れの度合いが距離感として視覚と協働していると吉本は述べています。
これと同じことを三木成夫も「海・呼吸・古代形象」のなかで述べています。それによると幼児は最初はおっぱいを、また次第におっぱいに限らずあらゆるものを口を使って舐めまわすようになる。顔というのは発生学的にいえば内蔵がめくりかえったように露出したものだ。だから乳児は口を使って舐めまわすことによって内臓にその舐めたものの感受を伝えている。三木成夫によるとこの幼児のあらゆる周囲の物の舐めまわしを細菌があって汚いからという理由で禁止しようとすることは、「まさにそのために天から授かった腸管リンパ系をなしくずしに骨抜きにする、おそろしい去勢の行為」ということになります。
そして三木成夫によると幼児は口を使った舐めまわしを卒業すると、もはや内臓とは関係のない「手と目」の両者だけで満足しようとするになっていきます。そして最後には目によって眺めるだけで満足するようになると述べています。しかし大切なのはこの眺めるといういわば目玉による舐めまわしの奥底には、舌でえんえんと舐めまわしをした内臓記憶が礎石になって視感覚を支えているということです。
また吉本はさきほどの「母型論」の個所で「嗅覚の薄れの度合いもまた距離感や空間の拡がりの認知に無意識のうちに加担していることになる。おなじことを心の動きについていえば、この内臓系の感受性の薄れの度合いは、記憶という作用に連合しているとみなせる。感受性の薄れの極限で、心の動きは記憶として認知されるといっていい」と述べています。
そうしますと乳児期つまり「大洋期」において、乳児はおっぱいをはじめとして周囲のあらゆるものをなめまわすことで内臓感覚としての周囲の世界の感受を作り上げていき、次第にそこから離れて手によって触れ、眼によって眺め、さらに目によって眺めるだけで対象を知覚できるようになるということになります。その過程で距離とか空間の認知というものが形成されていくということでしょう。また記憶というものもこうした直接的な接触から離れていく過程で形成されるということになりましょう。
するとそれ以前のつまり舐めまわしの始まりのあたりの乳児の無意識がすべてである心のなかには距離とか空間とかはまだないわけです。すべてはひとつのもののようであり、もちろん自我もないですから自分と相手というものはない。対象世界が分離されていないわけです。対象というものが自分というものを見出させていきます。その対象というものを心的に分離して感受し認知する過程として、口による舐めまわしの内臓感受や手や顔全体を使った触覚と目の視覚というものへの移り行きが人類の普遍性として考えられます。そして距離感とか空間把握とか記憶というものが形成されて対象が認知されるようになるとともに、イメージつまり心像の形成も行われていくのだと私は思います。
ここでご質問に戻りますと「エロスとはイメージのことなのではないか」というのは愛する対象の心像を描く、それがエロスではないかということだと思います。しかしそれは、愛する対象の心像を思い描くのはエロスの発現ではあると思いますが、エロスというものの本質ではないと私は考えています。なぜならばイメージというものの形成はやはり対象というものが次第に認知される過程で生じるものと考えられるからです。口による舐めまわしの段階の乳児には対象というものはまだない、このおっぱいを吸わせてくれるのはお母さんだという認知はまだないはずです。ではこの段階の乳児にはエロスはないのかというとそれはエロスの本質から考えてありえないことです。エロスというのはなんなのか私にもほんとは分からないわけですが、それが人間に限らず生物一般が備えている繁殖の本能的なエネルギーであろうということはなんとなく考えます。人間にとってはそれが繁殖という種の保存というところからさらに高度になったのかスケベになったのか知りませんが、それこそ365日ひたっても飽きない業のようなものに発展していると思います。エロスというものはよく分からない。目に見えないし、計量もできない。性としての体内物質や脳内の個所は特定できていますが、それが心として授受されるそのことは依然としてよくわからないことだと私は思います。しかし性本能と呼んでも性衝動と呼んでもエロスと呼んでもいいわけですが、なにかが母親から注ぎ込まれて生命が誕生するのは確かだとかんがえざるをえません。
だからエロスは対象が心的に分離する以前では、自分自身の身体に対して発現するとフロイドは述べています。それは自体愛というエロスの発現です。そして対象が見出されてからも対象愛から撤退したかたちで向かうエロスの形は自己愛でしょう。また自己愛と不可分のかたちで発現されるものが同性愛であると思います。いわゆる健常と呼ばれるエロスは異性愛に向かうと考えるのだと思います。だとすればイメージあるいは心像が形成される以前にもエロスは自体愛という形で発現しているわけですし、そのエロスはエロス覚と吉本が名付けた身体の個所で段階的に発言していくと思います。赤ちゃんがおっぱいを口でうぐうぐ吸う行為にも、うんちを出す肛門の感覚にも指しゃぶりにも舐めまわしにも自体愛としてのエロス覚が感受されているのだと考えます。エロスというのはそのような盲目の暗闇から私たちのなかに目覚める。だから宿命なのだと言えるのだと思います。こんなところで粗雑で申し訳ありませんがお答えとさせてください。吉本の書物を読めば百倍もいい答えが探せると思います。すいません。