思想は経験に勝つことはない。経験しただけが思想になるのだから。思想が経験に勝つやうに見えることはある。それは見えるだけだ。これは空想と呼ぶべきだ。(〈少年と少女へのノート〉)

「経験しただけが思想になる
というのは吉本の深部での確信だったと思います。この思想というのは個人が抱くその人の糧であり井戸であり牢獄であるようなその人固有のものを指しています。たとえば芥川龍之介のような文学者に対しては、芥川の下町のガキとして育つ生活体験を見るわけですし、丸山眞男のような政治学者にも戦中戦後の体験の部分を透視します。またマルクスのような巨大な思想家に対しても「マルクス伝」に書かれたように体験的な核を見出そうとしています。こうした作品や学問的業績の背後にその作者を見ようとし、作者のなかにその固有の体験を見ようとするというのは、つまんない人がやるとつまんない内容になっちゃいます。つまり作品と分離した作者の情報にすぎなくなるし、ひどい場合にはワイドショー的なゲスの勘繰りになることもあります。しかし吉本の批評のなかには、作者の経験と表現の結びつきを吉本自身の経験と表現の結びつきというものを踏まえて把握していく一対一の全力の格闘のようなものがあってつまらない作者論にはならないわけです。そしてもしこうした作者論の部分がなかったら、吉本の批評の、斬れば血の出るような惹きこまれる面白さもなかったと思います。
「経験しただけが思想になる
という観点を拡げれば、たとえば妄想とか幻覚という異常な症状もその病者が経験したものが病像になるということになります。また夢も起床時の経験と結びつきます。オカルト的な未来予知とか前世の記憶というものも現世的な経験と結びつきます。宗教的な教祖の言説も、芸術作品のイメージや空想という部分も個的な経験と結びつく。しかしどういう「構造」を介して結びつくか、ということが大問題で、そこを解くために吉本の理論的な労力が費やされたと思います。しかしもとを辿れば、「経験しただけが思想になるのだ
という若き日の吉本のノートに書かれた考えを生涯にわたって掘り下げ続けたと言えるのだと私は思います。
まあこんなところで初期ノートの解説は一応中締めということにさせていただいてこの後は二次会へ、という感じで「母型論」のほうへ会場を移したいと思います。赤ちゃんが言葉を話すようになる。その最初の言葉は母音としてあらわれる、ということを吉本の本をたどってヨロヨロと書いていったところでした。ところがここへきて、あろうことかアルマイト鍋か(BY東海林さだお)「ご質問
というものをいただきました。これは書いているものにとってはうれしいことです。とにかく読んで、関心をもってくれたということですからね。しかし俺なんかに質問したってあんまりメリットはないのになぁ。俺に質問するってのは、たとえてみればAKBの総選挙で「ハリセンボンのはるな
に一票入れちゃったというくらい無駄なことな気がします(/_・) しかしうれしいので調子に乗って一生懸命お答えしたいと思いました。私の役割は、いいとこ図書館の司書みたいなもので、なんか質問があると「その件はたぶん吉本隆明の○◆という本に書いてあったと思います。図書室書庫の窓際の「文学・思想」の棚の下から2番目をお探しください」みたいなことをいうだけのことです。しかしそれでも少しは役に立つかもしれませんね。どんな仕事にも意味はある。ただご質問が難しく多岐にわたっているので順繰りに対応させてもらいます。
ご質問のひとつは『「エロス核(覚?)」とは、「イメージ核」と言ったらおかしいのか?』というものでした。ここらへんから私がたぶんこれが吉本の考え方だろうと思っているものをお返事として書いていきます。「エロス覚」というのはおそらく吉本の造語だと思います。エロス覚という概念が生まれてくる基盤はフロイトです。窓際の「文学・思想」の棚の下から2番目に「心とは何か・心的現象論入門」(吉本隆明著、弓立社刊2001)という本があってそのなかの「身体論をめぐって」という章のなかに書いてあることに関連します。貸出期間は2週間です(⌒_⌒)
吉本は心的現象論を書くにあたって偉大な先達の思想家たちの身体論を勉強しました。それは主としてドイツ観念論の系譜であって、ヘーゲルから始まってフォイエルバッハマルクス、それから現象学の系譜としてのフッサールハイデッガー、メルロ・ポンティ・・・という名前を聞いただけで頭の痛くなりそうな難しい身体論を読み解いていきます。そしてまったく系統の違うところから提出された重要な身体論としてフロイトの身体論を説明しています。フロイトの身体論の根本的な特徴は「人間の内部器官は必ず性的な意味がある」ということである、と述べているわけです。例としてたとえば好きな異性に出会うと胸がドキドキする、そういう言葉の表現がありますが、この手の言葉がどうして成立するかといえば、人間の身体の内部器官のモノとしての機能、たとえば心臓は血液を送ったり集めたりしているという機能がありますが、それと同時に心臓というものにも性的な意味があるからだと言っているわけです。モノとしての機能とともに、性的な意味が帯同しているからそうした内部器官と心の関わりについての昔からの比喩や暗喩が存在するのだということです。
この性的な意味をともなう内部器官、たとえば肛門とか口とか性器という特に性的な意味の大きな器官がありますが、そうした内部器官の個所をフロイトの日本語訳の本を読むと「性感帯」という訳語を使っています。だったら「エロス覚」というものは「性感帯」とみなしていいのかということになります。ではなぜ性感帯といえばいいのに「エロス覚」という造語を作る必要があるのか。それは残念ながら図書館司書みたいな私にはまだわかりません。それはフロイトの本をちゃんと読みとおしたことがないので、フロイトの性感帯の概念を説明しきれないからです。ただおそらく吉本は三木成夫の業績を知ったことでエロス覚の概念を作ったと推測しています。
ここでご質問に戻りますと、「イメージ核(覚)と言ったらおかしいのか?」というのは指摘されている「イメージ核(覚)」というのがどういう意味なのか分からないのでお答えしにくいです。イメージ核(覚)というのはどういうことを指しているのか、もう少し詳しく説明していただくと助かります。
ほんとうを言うと、私にわからないことはエロスということ自体です。なんでしょうエロスって。あるいは性とか性の欲動と言われているものはほんとうはなんなんだ?というとよく分からないわけです。これは母から移しこまれるものとして、母はどこからそれを得たのかといえばその母からということになります。ずっと生命の流れを遡って、エロスの授受というものは続いてきたことになりますね。たとえてみれば太陽のエネルギーのようなものとして、生命は身体にともなうエロスというものを太古の昔から身体の産出を通して伝承してきたといえます。このエロスとか性と呼ばれているものがなんなのかはよく分からないのですが、それが神秘的といえばたいへん神秘的といえるし、巨大といえば実に巨大といえる不可思議なものだと思います。このエロスというものが、「存在していることが存在しなくなることもどこかに孕んでいる
という意味では死に似たものを孕んでいると考えることもできるような気がします。エロスと身体がともに絡み合っているものとしての生命、」ということがもしよくわかれば、それが人間とか人間の社会というものを透徹して見渡せる観点になると思えます。あるいはエロスと身体がどう絡み合っているのかを脳が正しく了解すれば、ということになります。分かったような分からないようなことを書いてすいません。分かんないけど頭から離れないんで。親鸞の「正定聚の位
ということがどう現代的な意味をもつのか、という吉本の考えを「母型論」につなげてみたくて考えてみましたが、せいぜいこんなことを考えたくらいです(ToT)
ご質問ありがとうございました。別の質問にも順繰りにお答えさせていただきます。