芸術は閉ぢられてはならない。何故ならそれは滅亡であるから。(〈方法について〉)

日本の戦争期にもたくさん優れた芸術家はいたわけです。優れた知識人もいた。その人たちがすべて戦争翼賛に吸収されていった。芸術的才能も国際的な知識も国家の推し進める戦争に腹の底から掬い取られていった。それを吉本は嫌というほど知っているわけです。それは芸術、知識、思想の滅亡であるということをです。
それは今でも同じ状況なので、戦後に平和の大事さが行き渡ったとか、自分は個人として芸術も分かるし知識もあるから大丈夫なんて思っても、国家が周到に強烈に戦争へと国民を駆り立てていく時に腹の底から掬い取られない保証はありません。つまり私たちの個人としての思想も知識も表現も滅亡する危険は十分にあるわけです。戦争で滅亡する前に国民の精神が滅亡しているわけです。滅亡しないためには閉じられてはならない、ということは国家というものを原理的にも現状分析としても対象化できるということだと思う。なぜ人間は共同体というものに腹の底から掬い取られてしまうのか。当代一流といわれる才能も知識も太刀打ちできないほどに、共同体というものがなぜ個々のにんげんを根こそぎ奪っていくことができるのか。その秘密はにんげんの思考と感情の起源にさかのぼって胎乳幼児期のこころの問題にあるかもしれない。母と子の物語のなかに、共同体と個人との物語の秘密があるのかもしれない。そんなわけで毎度のことですが「母型論」のお話でご機嫌をうかがいます。
生れた赤ちゃんがだんだん大きくなって言葉を話すようになる。このほほえましい、カワイイ現象のなかになにがあるのか。ほかの全生物は話さないのに、なぜにんげんだけが言葉を獲得するのか。これは逆の言い方もできます。にんげんが言葉を獲得するなら、ほかの全生物はなにを獲得していることになるのか。あるいは言葉を獲得する道というものがあるなら、そこから分かれて言葉を獲得しない道がある。言葉を獲得することがえらいんだと考えずに、どちらも等価であると考えるとすると、言葉を獲得しない全生物の生命というもののなかにはなにがあるのだろうという疑問が起こると思います。なにもそんな大それた言い方をしないでも、私たちが飼っているわんちゃんやねこちゃん、あるいは庭先や玄関口に植えている花や草に対しての思いにもつながるでしょう。こいつらはなんなんだ、こころがあるのか、あるとしたらどういうこころなんだろう。こういう疑問は宗教に接している。あるいは宗教の発生した古代の時間に接している。言葉というものが現代のわたしたちのように満ち溢れ、言葉のなかに生活し、生き死にしている歴史段階の遥かな昔、言葉がまだ生まれたばかりの言葉の胎乳幼児期にさかのぼるとすれば、それは言葉に行きつかない全生物のこころのざわめきに接した、自分たちの獲得した目新しい言葉というものへの違和感と恐ろしさと神聖視とが渦をまいたような段階があったのかもしれないと思います。
言葉はどのように獲得されるか、それはひとつひとつ獲得される。そして言葉は架空の場所にある。こころのなかにまたこころを作るような架空の場所にしか言葉はやってこない。吉本が述べていることはエロス核というもののある対象にむけての極度の集中なしに言葉は獲得されないだろうということです。エロス核というものは赤ちゃんがおっぱいを飲む時期に、おっぱいという命を養う「食」と、こころを宇宙的な恐怖から救う「性」あるいはエロスというものが区分できないで内臓に流し込まれ受け入れるその根源性のなかで、外壁系の感覚のなかにも内臓系の感覚のなかにも植えつけられるものと考えられています。そういう意味ではこのエロス核というものは全生物に想定できるものなのかもしれない。エロス核というものから生物を視れば、生物は外部と内部に口を開いたエロスの仄明るさを身体の各所に点在させてホタルイカのようにぽっぽぽっぽと光ってうごめいているとみなすこともできるかもしれない。このエロス、あるいは性というものを極度に集中するとすれば、ひとつはその性の対象となるものは何かということです。また三木成夫の考えにしたがって精神の集中が必ず「息をつめる」ことをともなうとすれば、このエロス核の極度の集中は命からがらのような息も絶え絶えのような自然に反した、断崖絶壁を登りきるようならくだが針の穴を通るような苦行だったのだと想像します。そこまでしてなおかつ命がけでエロスとしてのにんげんを駆り立てることは異性のただ一人のおんな、あるいはおとこへの想いしかない。それで吉本はサルの仲間から言葉を獲得するサルが現れることを、サルがメス猿ならなんでもいい、じゃなくただ一匹のサルを求める気持ちに想定しているわけです。言葉がサルの仲間であった人類の始祖にとって獲得されるのは、成熟したエロス核の、ただ一匹のメス(あるいはオス)への極度の集中によってある目にみえない断崖がよじ登られた時である。あるいはらくだが針の穴を通るように、大洋期の内実が概念という針の穴をくぐる時である。
そのように原始に獲得された言語はやがてにんげんの共同体の習俗となり、そのなかで生まれ育つ乳幼児は第二の自然のように大洋期の喫水線に浮かぶ言語にやがて出会い、その中に大洋期の言葉なきこころを移しいれることになる。つまり赤ちゃんがなんかしゃべるようになる。だったらそれは赤ちゃんにとっても人類の始祖のサルと同じように極度の集中を必要とすることではなかろうか。すべてのエロス核をその概念に集中させるような天下分け目の合戦のような大きなできごとが心的に経験されているはずだ。だとすれば、そこにこそ精神がその後、健常とみなされるか異常とみなされるか病的とみなされるかの境目も、その天下分け目の合戦の段階に兆ししているのではないかと考える。それが吉本の着想だと思います。
少し話を飛ばしますが、そうして獲得される言語の最初の表出は母音であると吉本は考えます。(あー)とか(うー)とかいう母音。しかしそれは言語とみなしていいのか。なぜなら母音はそのままでは意味を持たないからです。それは「い」が「胃」と読まれたり、「う」が「鵜」と読まれたりするじゃないか、ということとは違います。「胃」や「鵜」は言語がもっと複雑化したあとの概念であって、最初に表出される「あ」とか「い」には意味はつけようがないのです。しかしでは「あー」とか「いー」とか「うー」とかいう意味のつけようのない母音自体になにかを感じてしまうのはなぜだろうか。「あー」という母音を聴くだけでなにか感情のような情緒のような情動のようなものが伝わってくる。それはなんだろう。
その疑問に答えてくれるのは角田忠信の脳の研究です。角田忠信によれば旧日本語族(縄文語族)とポリネシア語族だけが母音を左脳(言語脳)優位の側で聴き、それ以外の語族では右脳(非言語脳)優位の側で聴いています。なぜそのような母音の聴き方の差が世界的に起こるのか。吉本の考えでは、旧日本語族とポリネシア語族は自然現象をすべて擬人(神)化して固有名をつけて呼ぶことができる素因があり、また自然現象の音を言葉として聴く習俗のなかにあったことが、母音の波の拡がりを言語野に近いイメージにしている根拠だということです。
つまり吉本は旧日本語族、それは今の日本人にも受け継がれているのですが、それとポリネシア語族だけが母音を言葉のように聴く、ということはそれより以前の段階として自然現象、つまり雨の音、風の音、海鳴り、川のせせらぎというようなものをただの音ではなく、まるで言葉をしゃべっているように命あるものがなにかを訴えているように聴く習俗があったと言っています。
これはなんとなくわかるでしょう。風の音が意味のある言葉ではないが、しかしただの音でもなく、なにかの声のように訴えかけてくるということは。雨のそぼ降る音も、波の音も。滝の音。風になる森の音。風にざわめく草の音。だから日本の古代では神々は自然の個々の現象とともにあるかのように想定される。
ではそれ以外の語族にとって自然とはなんなのか。書くときりがないので、私が忘れられない角田忠信の指摘をあげれば、西洋画のたとえば大聖堂のうえに拡がる天空の絵なんかの空の表現は、日本人の感じる空とあきらかに違うというのです。西洋の絵の空は、日本人の感じる空のように同類のようにまといつくように自分のこころに連なる空ではない。それはじぶんのこころの外に拡がる、宇宙のような異質のまさに「空間
であって、ひとのこころとは隔絶した天空である。そういわれるとなんとなくわかるでしょう。確かにそんな感じだ。それは音の聞こえ方の違い、さかのぼれば自然の音に対する感受性、脳の受け止め方の違いに根拠づけられる。
これは面白い観点であって、ここからいろいろな考えが展開できます。吉本は美空ひばりの唄に触れて、ひばりの唄の特色はたとえば「りんご追分」という唄で、「りんごの花びらが〜」「風に散ったよな〜」というのがあるでしょ。この「が〜」とか「な〜」という最後の音がのばされると「あ〜」という母音になりますが、その母音をのばしていく歌い方のなかで、もはや歌詞を超えてただ母音だけが波のようにゆらいでいくというふうになって、そこに込められていくなんともいえない情緒がひばりの唄の特色であり、美空ひばりの世界に出してもなんら遜色のない力量なんだと述べています。これもまた角田忠信の研究の開いた文化論のひとつとみなせます。
吉本によればなぜ母音が言語のように聴こえるのか、というとそれ以前の段階に自然音が言語のように聴こえるという習俗があったということになります。それが母音も言語のように聴こえるという素因をなしているのではないかと考えているわけです。ではなぜ自然音が言語のように聴こえる語族と、聞こえない語族に分かれるのでしょうか。それは今はお手上げです。分かりません。しかしとにかく生まれた赤ん坊は、自分を取り巻く共同体の習俗と観念の体系のなかに自分の大洋期の心的内容を封じ込めるようにして言語を獲得し、成長していくわけです。ではもし獲得しそこなったらどうなるのか。途中で落ちた矢のように、言語というものに「大洋期」を込め損なったらどうなってしまうのか。その時、的である完備した概念に到達し損なった言語はどうなるのか。共通性としての共同性としての言語に到達できないで、たとえてみれば水棲動物から陸上動物に「上陸」できないで、なかばは海になかばは陸にいるような両棲の生物のようになるのだろうか。そこでまた、上陸したからえらいのだと考えることをやめて等価とみなすとすれば、この両棲類のような言葉とそれを担うにんげんは精神病者と呼ばれようとなんと呼ばれようと、ある独自のこころの世界を拓いているとみなすこともできる。現実にはそんな悠長なことも言ってられない状況は満ち溢れているんだけど、だがしかし等価とみなすということは吉本の思想の核心であり、そうそう捨て去ってしまうわけにはいかないんだよ。