忘れるといふのは美しい獲取であつて、若しそれが精神にとつて無かつたとしたならば、人間は絶えず消費を感じてゐなくてはならない筈だ。(方法的制覇)

初期ノートを書いている若い吉本にとって忘却は美しい獲取と感じられるかもしれないけど、老いぼれてきて物忘れがひどくなってくるとあんまり美しいとは思えないですね。とはいえ脳の老化による物忘れと、無意識に送り込んでいく忘却には違いがあるのでしょう。
さて文章ばかり書いていても芸がないのでここらで一曲歌わせていただきます。散文ばかり読んだり書いたりしているとやっぱり詩はいいなあと思います。詩は内臓系の感覚を解放してくれる。うまくは言えないけどコレなんだよなあっていう感じで、はらわたに響く。歌は中島みゆきの「傾斜」。これは坂を登る老婆のことを歌っています。時間がないので2番だけ。

息が苦しいのは きっと彼女が
出がけにしめた帯がきつすぎたのだろう
息子が彼女に邪険にするのは
きっと彼女が女房に似ているからだろう
あの子にどれだけやさしくしたかと
思い出すほど あの子は他人でもない
みせつけがましいと言われて
抜きすぎた白髪の残りはあと少し

誰かの娘が坂を降り 誰かの女が坂を降り
愛から夜へと人づたい
のぼりの傾斜はけわしくなるばかり

としをとるのはステキなことです そうじゃないですか
忘れっぽいのはステキなことです そうじゃないですか
悲しい記憶の数ばかり
飽和の量より増えたなら
忘れるよりほかないじゃありませんか

おまけです。

石川啄木」より                   吉本隆明
批評家としての啄木は、近代文学史のなかでかけねなしに第一級だが、その批評が、かれの乏しい語学でよみかじった社会主義文献の知識から噴き出したものだと考えるのは、馬鹿気たことだとおもう。その源泉は、かれの阿呆のようにちぢこまってみえる生活の詩のなかにかくされている。むかし、十七歳の戦闘的な少年であったとき、わたしは、「起きるな」という啄木の詩が好きであった。いまも好きで
ある。

 起きるな、起きるな、日の暮れるまで。
 そなたの一生に涼しい静かな夕ぐれの来るまで。
 
何処かで艶いた女の笑ひ声。