我々は生存せんがために生存そのものを持つてゐる。これ以外のあらゆる生存の意味附けは観念にすぎない。観念なるものは一切虚偽である。(断想Ⅴ)

これは吉本の根底にある考え方のひとつです。ひらたくいえば、人はなんのために生きるのかというような問いかけに対する反発です。ひとはなんのために生きるのか、という問いかけ以前にすでに生きているわけです。なんのために生きるかというような言葉による思考が生じる前に、言葉のない乳胎児期をもっているわけでしょう。だからすでに生きてしまっているんだよという事実に対して、後づけで生きる理由を与えるのはおかしいのではないかと吉本は考えるのだと思います。
これは戦中の天皇制の思想や戦後のマルクス主義の思想やさまざまな宗教やイデオロギーのもつ「生きる理由」に対するおしつけに対して抵抗し、それらにけして触れさせない「生存」という領域を保存しようということです。
私が体験的に知っているのは高校時代や大学時代の新左翼運動です。私は新左翼の党派に入ったことはありません。しかし周囲には党派の活動家やシンパがいました。新左翼の活動家やシンパと接して私が感じたのは、「生きる理由」というところまでずかずかと入り込んでくる押しつけがましさ、あるいはイデオロギーが宗教的に迫ってくる力でした。つまりたとえば学費が高いから反対しようじゃないかとか、校則が厳しいからもっと自由にしようじゃないかとか、授業がつまんねんからもっと学生と教師が相談してカリキュラムを考えようじゃないかとか、そういう具体的なことならよくわかるし、それは限定された要求だから自分で理性的に判別できる問題です。
しかしそうした具体的な校内の反発から始まっても、すぐに若い人間の考え方は上昇しようとするわけです。そして世界的な矛盾に対する世界的な同時革命しかありえないというようなマルクス主義の大風呂敷と一体化しようとするわけです。そしてその大風呂敷となった観念から、ひるがえって自分たちの卑小な、学生という世間から浮かんだ生活に戻ってきたときに、その卑小な生活を丸ごと大風呂敷の観念にやみくもに吸収しようとします。つまり「おまえはなんのために生きているのか。おまえが慣れ親しんだ今までの生活のなかにほんとうにおまえの生きる理由があるのか。もっと大きく高いところにおまえの本当の目的はあるのではないのか。それを感じながら行動にでないのは臆病ではないか。おまえは世界の悪に加担するのか、世界の善に加担するのか今すぐ決断しなければならない。いま行動しないものは永遠に行動しないのだ」だからデモに参加してわれらが党派に加入しろみたいな勧誘になるわけです。
こうした「生きる理由」に踏み込まれ、もっと拡大すれば生きる前後である生と死に踏み込まれ、それまでの無意識に過ごしてきた家族生活や学校や会社という制度に否定的に踏み込まれ、もっと押し詰めれば日常の一挙一投足にまで神経症的に踏み込まれ、そして今まで考えたこともなかった世界普遍性としての高邁な目的をおしつけられていっきに動揺する、というのが私たちの新左翼体験のなかにあったと思います。それは世界的な理論が宗教的なものと一体化して個人におそいかかる迫力です。それはおそらく戦時中の軍国主義にも宗教団体のあり方にも通じるものだと思います。
そうした政治的な宗教的な理念の迫力というものは吉本がしこたま体験してきたものだと思います。それに対して、それらがいかに緻密で抜け道のない、そしてにんげんのあらゆる観念を覆い尽くすような徹底した体系性をもっていても、また率直にいってそこに抗しがたい世界を体系的に見渡せる魅力があったとしても「いや、おれは気がついたらもう生きていたんだよ」という「生存」の先験性というか、そうしたあらゆる観念的な意味づけはウソ(虚偽)じゃないかという疑いにこだわるのだと思います。それは重要なものです。そしてそれはまた「生存」自体ということの解明をあらたに要求するものです。ああやっと「母型論」につなげられたよ(´・ω・`)いや、もうちょっと言わせて(-m-)” 
「生存」をも取り込もうとする超越的な組織理念は信じられない。だから、おれたちは結局「生存」するために生きればいいのさ、というのがあらゆる観念的な普遍性を装う党派的な政治組織や国家や宗教団体の惨憺たる末路を、遠目に見てきた現在の私たちの意識のありようだと思います。やっぱ生きることを楽しむのがいちばんいいんじゃね?ということです。それをいま石原慎太郎橋下徹安倍晋三が、アメリカの命令下にもういちど引き締めて、日本を軍国というものに再統合しようとしているのだと思います。しかし「生存」の領域というもの自体がかっての戦争中の軍国主義時代とは変容しているわけです。吉本が追求してきたところでは各世帯における衣食住の必要経費である生活費のなかの必需消費というものを、衣食住以外の教育費であるとか娯楽費であるとか知識教養のための経費であるとかの選択消費が凌駕したとき、資本制の社会はさらに変容して高度資本制とか超資本主義とか消費資本主義とかいうべき未知の段階に入ったということになります。
「我々は生存せんがために生存そのものを持つてゐる」。しかしそれはとにかく生きるためには働かなきゃならないという意味としては、すでに変容している。必需消費が半分以下のパーセンテージになるということは、「若僧、コノヤロー、生きるためには働かなきゃなんねえんだぞ
というかっての父親の世代の説教の意味が半分以下になったということです。それじゃ半分以上になった選択消費の生存とは何か。それはその消費部分が無くたって、生存がなくなるわけじゃない。その金使わなくたって生きちゃいけるよ、ということになります。ではその浮遊したような根の生えていな生存のありようって何よ?それが新たなる、あるいは死に向かう資本制の段階の「生存」のありようです。それは「生存」が労働から解放されて、「生存」自体として大衆的に受け止められる新たな歴史段階です。それがなにを生み出すかまだ誰にもわからない。しかし、亡き吉本の考察では「生存」自体が大衆のなかに浮上するこれからの時代は、「生存」自体であった人類の始原であるアフリカ的段階の解明のなかでしかあきらかにならないというものだということになると思います。
そしてアフリカ的段階の解明は、にんげんの始原である乳胎児期の解明とリンクしているものです。だからさて「母型論」へ(^▽^喜)といいたいけど、今回前置きが長すぎね?
しょうがないから短いけど「母型論」に関することを書きます。前回わたしの疑問として、母親から受けた乳児の傷というものを普遍的に設定していいものか、ということを書きました。吉本は母親から受けた乳児のこころの傷というものを三つのパターンに分類して、それに対応する未開、原始、あるいはアジア的段階の共同体のあり方を推論しているわけです。いったいでは乳児が受けるこころの傷というものを人類史の土台にしていいものだろうか、ということが疑問に思うわけですよ。あなたどう思いますか?
吉本は私が知る限り直接にその問いに答えていないんですが、近いことを語っているところがあります。それは「ハイ・エディプス論」(1990言叢社刊)という本にありますが、吉本がここで述べていることのなかに要するににんげんはなぜ家族を作るのか。どうして男女が恋愛して同棲して、それが一生かどうかは分からないとしても長続きさせようとするのか、それは乳胎児期の欠如があるからだと言っています。欠如というのは傷といってもいいわけです。そんでじゃあもし乳胎児期の欠如がなかったらどうなるのか。「充たされた乳胎児期を理想的に100パーセント過ごして、しかも母親の環境、母親の母親の環境、三代くらいみんな理想的だったと仮定して、その男女が大きくなって男女ともにそうだったとしたら、永続的に同棲することは無くなるんじゃないでしょうか(原文)」と吉本は述べています。にんげんはなぜ結婚するのか、なぜ同棲するのかといえば欠如がにんげんにあって、どこかで男女両性ともそれを充たそうとするからだ。「そして欠如が深刻なため、すぐにそして繰り返し離婚することになります(原文)」ということですよ。
おそらく吉本は乳胎児期の傷あるいは欠如というものを人類史の普遍的な土台としてみなしていいんだと考えていたと思います。そしてこれが重要だと思うんだけど、その傷とか欠如とかを倫理的には考えていないと思うんですよ。つまり欠如があるからよくないとか、欠如のないようにするべきだというふうにたぶん考えていない。倫理的な判断を棚に上げたところで、欠如とはなにか、にんげんや人類史にとってなにかを解明しようとしていたと思います。それはこれからの歴史の段階は、無意識を作る、それは乳胎児期を作るということですが、そういう課題がやってくる。その将来的にやってくる課題に対応することでもあるんだと思います。前置きが長すぎて本題がちょびっとでしたが、これから伊豆の下田に遊びに行くので、今日はこれで失礼します。踊り子号、何時発?