批評における判断力はまた、肯定または否定としてあらはれるとは限らない。現実の構造がそうであるように、感性の構造は元来倫理的なものではない。(〈批評の原則についての註〉)

倫理、つまり何が正しくて何が正しくないとか、これは善でこれは悪とか、そういう区分は文学という立場のなかでは、そして文学である批評のなかで溶けていくというか不分明になっていく。それはなぜか。それはたぶん倫理というものが宿命という概念を超えることができないからだと思います。こうなってしまったという性格の悲劇がありますが、いいわるいを言ってみたところでどうしようもない。そう思いませんか?もちろんそのことで被害を受けた人がいれば、その人や家族の言い分はあり、その調整として法律があり罪や罰はあるわけです。しかし本質としての宿命の悲劇とか性格悲劇というそのものを誰が裁けるのか。あるいはその性格悲劇が犯罪のようなことを起こす契機ということ自体をを誰が裁くことができるでしょうか。それは親鸞の考えによれば、弥陀仏に預けるしかない事柄ということになります。吉本的に言い換えれば、それはにんげんの永遠の課題に属することで、その本質論を緊急の法的な対処と一緒に裁いてはならないということになると思います。ほんとにいっそこの現実の数々を弥陀の本願に頼りたいよ。南無阿弥陀仏

おまけです。 たまには三木成夫先生の言葉から。三木成夫さんの本は楽しい。比喩が素晴らしくて、この人は大学教授なんかにしとくにはもったいないくらいの感受性の持ち主だと思う。

「海・呼吸・古代形象」から     三木成夫

古生物学の教えるところによれば、古生代の終わりに、私たちの祖先は、それまでの長い波打ち際の生活を捨て、上陸を敢行したといわれます。この一億年におよぶ上陸のドラマが、受胎一か月後の一週間に、子宮の檜舞台で演じられる。胎児のからだはその間、小豆粒大からソラ豆大に成長しますが、その時、首すじに刻み込まれた鰓の裂け目は耳の穴を残して消え、その魚類を思わせる顔かたちはまたたく間に、両生・爬虫類のそれをへて、哺乳類獅子頭の相貌にまで、まさに劇的な変身をとげるのです。