方法なき芸術は発展なき芸術である。(〈方法について〉)

うまく説明できるかわかんないんですが、たとえば戦後詩ってものがあるでしょ。たとえば「荒地派」っていう詩の集団があって吉本もそこに属していたわけです。荒地派の総帥っていうか、代表的な詩人はまあ鮎川信夫だってことになります。鮎川と吉本は三浦和義の裁判の問題あたりで決別していきますが、それまでは盟友といってもいい関係で多くの対談もあるわけです。その荒地派の詩の方法っていえば、自分自身の戦争体験というものがあって、自分自身の資質というものがあるわけですが、世界認識というものを自身の体験と資質を潜り抜けさせたところで詩が成り立つっていうか、そういう方法なんだと思います。その典型を作り出した詩人はやっぱり鮎川信夫だと思います。鮎川は天才的な詩人でそれは見事な作品を作ります。鮎川と吉本の対談では詩の問題だけでなく、この世界のさまざまな問題を語り合っています。それはやっぱり詩の問題として語り合っているのだと思います。世界をどう認識するかということが詩の問題であるという水準を日本で初めて試したというのが戦後詩の意義なんだと思います。そこでは認識が深まり世界が変化すれば詩も変わっていくわけです。それは発展していくのだといえばいえます。そして世界をどう認識するかという一点で決別していくこともあるわけです。表現者というのはさまざまな職業人と比べて特に厳しいかどうかわかりませんが、あらゆる人と決別して単独になるという覚悟においては本当は厳しいものだと思います。お仲間を大事にして挨拶を表現に優先させるようじゃ表現者としては死んでしまう。吉本の表現者としての人生はその厳しさを生きた苦しい人生だったと思います。さよならだけが人生さか。
というようなことで毎度おなじみの「母型論」的な解説のほうに移らせていただきます。今の解説の成り行きとしては、共同体のあり方と乳胎児期から始まる母子関係との絡み合いということを問題にしています。吉本は母親が乳児に与える傷というものを三つのパターンに分類しました。①は乳児に対する授乳などの保育がうとましいということを露骨にあらわす。②は表面ではうとましさを抑圧して慈母を演じているパターン。③は忙しさや精神的な余裕のなさで落ち着きのない授乳をせざるをえないパターンです。このうち①について前回解説したので、今回は②と③のパターンと共同体の絡み合いについての解説になります。ね、めんどくさいでしょ。あんまり読みたくないなって思うでしょ。わかりますよ。でもね、にんげん諦めがかんじんですよ。
さて①②③のパターンといってもすべて共通点は母親が子供への授乳などを内心でうとましく思っているということです。そのうとましさの理由や表し方がパターンの違いになっています。うとましく思っていない母親もいるわけでしょうが、ここではうとましさを前提として共同体のあり方との絡みを考えているわけです。では②のパターンを取り上げると、ここでは母親は表面上は申し分のない優しい母親として幼児に接しているわけです。こういう母子関係が作り出す共同体を考えると、表面上は母親が強大な権威であり、子供はその意向をうかがい、大人しくしながら、姉妹との絆を強めて生活すると吉本は考えます。
エロスとかリビドーというものはよくわかりませんが、胎内からにんげんに注ぎ込まれる性のそして生命のエネルギーのようなもので、その性質は対象を見出して注ぎ込もうとするものなのだと私は思います。その対象にむけて注ぎ込もうとするということがエロスにとっては死活の問題なんだと思うんですよ。ひらたくいえば、愛する、惚れる、選ぶというようなことです。そこに生命の、精神の死活の問題がかかってる。母親が外面如菩薩、内面如夜叉というような存在であるなら、子供の無意識は母親をうとむでしょうが、意識はそれを意識することができない。そこで母親(たち)は神聖なる領域に祭り上げ、閉じ込めて、ほんとうに注ぎ込むエロスの対象には姉妹を選ぶということになると吉本は考えているのだと私は思います。
するとそういう共同体、原始未開から少し離脱した共同体ですが、そこでは神聖化された母親たちの群れと、大人しく実務的な仕事をして従いながら次第に実務的な熟練と力強さと経験とを次第に蓄積していく息子たちの群れを想定するわけです。そして息子たちの群れは実際の性行為に及ぶことはあまりないかもしれないけれども、エロスとしては絆がありしかも永続的な性質をもつエロスの対象を姉妹の群れに対してもっている。するとそこでは最初にうとましさを隠して存在した母子関係のひび割れというものがあるわけですが、その隠蔽されたひび割れが次第に拡大して共同体のなかにひび割れを作っていくと吉本は考えていると思います。そしてそのひび割れから逃れて愛する対象を探し求めるエロスの死活性が姉妹や姉妹的なエロスを求め始める。それがもしかしたら族内婚の掟、つまり同じ氏族の内部でしか結婚してはいけないという氏族内婚制が壊れる契機になっていくのかもしれないと吉本は述べています。つまり母へのエロスの通路が詰まって、姉妹へのあるいは姉妹的な女性へのエロスの通路を男たちが進むってことです。どうすか?それほどつまんなくはないでしょ。母より姉妹(てき)なエロスへ。共同体の族内婚の禁忌を破って共同体の枠外へ、他の共同体へ放浪の旅に出かける男たちの存在、その内在的な根拠としての母子関係の傷のあり方ということになります。
すると共同体のなかに走り始めたひび割れは、吉本の言い方では二重の共同体を作り出す。表面の共同体は母系的な原則で動いているが、その下層に影のもうひとつの共同体ができる。表の共同体は戦争のような緊急のときは女首長が神の託宣を受けて先頭に立ち、現実的な戦いや運営は影の共同体である男たちが担当する。二重になるという意味では①のパターンと同様だが、①と違うのは表面的な共同体が母子関係における表面的な慈母のおもかげを残していることと絡み合っているために、母系的な表面の権威が強固だということだと思います。そこで表の共同体と影の共同体が矛盾する場面が生じて極度の混乱をまねく事態が起こると、その共同体の二重性を個々の共同体のメンバーが個として同時に受け入れざるをおえなくなると吉本は述べています。共同体の矛盾がそのまま個の矛盾としてのしかかる強固さがあるということです。そして追い詰められた結果、その共同体の性格が全く変更されるよりほかどうしようもなくなり、やがて表面的な母系的なものと、姉妹とのエロスにかかわるものとを場所的に分離することで一応の落着をみるというように吉本は考えたと思います。
ここで吉本は興味深いことを書き加えています。それはこの②のパターンの共同体のあり方、すなわち母系的な表面の母親たちの共同体と影の姉妹に対するエロスを秘めながら表の共同体に従っていくあり方が極端な混乱に落ち込んだ時の矛盾と葛藤のあり方は、その共同体の矛盾や葛藤を家族内部的に、あるいは母と子の関係として解決されようとした場合に、強大な母親の像とそれに依存し専従して現実の細部を失った男の子供という関係になる。そうした母子のあり方というのは、共同体のあり方を家族内部的に移し替えた極端な原型であるといっています。これがなんで興味深いかというと、強大な母親とおとなしいいい子である男の子供、というのは今でも存在するわけですが、その関係には共同体の矛盾や葛藤のあり方が集約されている。共同体の矛盾や葛藤を共同体の問題として分離できないで、個として背負い込み、家族内部的に背負い込むということに②のパターンの母子関係が絡んでいるということになると思います。母親の像が巨大で息子が自分を卑小化させる以外に解決できないとすれば、それは外面如菩薩、内面如夜叉といった母親のあり方が覆いかぶさっているということになります。
まあこう解説しても疑問百出ということになると思います。それは私がそうだからです。しかもまだ③のパターンの解説が残っています。それはもう書く時間がないというありさま。
そこでまだ我慢していただいて、この母子関係と太古の共同体の絡み合いというテーマにつきあっていただきたいと思います。だんだんにわかりやすく問題点が明瞭になるようにしていきたいと思います。