直覚といふものは持続するためには速度がいるので、論理はそのために強さがいるだけである。(断想Ⅲ)

論理というのは直覚と直覚をつないでいくものだと吉本は考えていたとおもいます。直覚というのは「ひらめき
です。「直覚の持続には速度がいる」というのは、精神には自分の全経験というものを凝縮したり象徴したり暗示したりする言葉やイメージを、一瞬のうちにひらめかせる働きがあるということじゃないでしょうか。それは詩人である吉本が表現の経験のなかで体得したことでもあるという気がします。その直覚の総合力のようなものを速度といっているんじゃないでしょうか。「子供はぜーんぶわかってる」という吉本の著作もありますが、論理とか知識としてわかってるということではなく、直覚としてわかってるという観点をとれば、乳胎児期にさかのぼることができるでしょう。というようなことでなんでもかんでも「母型論」に引っ張り込もうとするのが、我ながら小ズルイと思う(´〜`ヾ)
前回、前々回と書いてきたのは、母親と乳児との関係が日本における「原始または未開またはアジア的段階の共同体」とどう関わるかという吉本の考察です。吉本は母親と乳児との関係を三つのパターンに分類し、それぞれの共同体との関係を述べています。今回は最後の母子関係のパターン、つまり母親が忙しく追い立てられるような生活を強いられているために、ゆったりとした心で授乳する時間を持つことができないというパターンを解説します。授乳している場合じゃない、母親は次々にやることがあってそれをしないと叱られたりするから、イライラしたり憂鬱になったりしながら早く授乳を終わらせなければ、という焦りの気持ちでいる。だから乳児にとって乳を吸う時間は、満たされた時間ではなく、拒まれるべき時間だったということです。
このパターンについて吉本が述べている部分は短いので全文引用します。
「極端な形でいえば、神事、政治、軍事をはじめ、共同体の公的な制度の役割のすべてが、女性によって占められ、男性は極度に温和な働き手である原始的な社会が、あるいはこれとまったく逆に祭事から政治、軍事にわたる公的な役割がすべて男性によって占められ、女性が従順で温和な働き手であるような共同体の形が、想定されてしまう。そして共同体がひび割れる線の走り方は、いままでのふたつの例にくらべいちばん明瞭になっているようにおもえる」
どうして吉本はこのように考えるのでしょうか。「共同体がひび割れる
というのは、母たちの集団と子である男たちの集団が分裂していくことをいっていると思います。パターン1(例1といってもいい)とパターン2の母親と乳児のあり方は、パターン1では露骨に、パターン2では慈母的な仮面に隠されて、という差異はあっても共通するのは乳児自身に対する直接の「うとましさ」なんだと私は考えます。だから乳児の無意識に与える傷はパターン3より深刻だといえると思います。ということは乳児の無意識の傷への固着も強いといえると思います。つまり母の像から脱することが難しい。傷のあるところに、強い愛着と押し隠された怒りや悲哀があるからです。それが共同体の特徴としてあらわれる場合には、母親の群れの強大な権威としてあらわれるでしょう。そして乳児が成長した男たちの群れは、この権威に無意識の嫌悪や怒りを感じていてもそれを表出できない。温和に従順に従うという表れ方をします。そして男たちは母へのエロスを回避して、姉妹へのエロスに向かうという傾向をもつことになります。
パターン3の場合は、乳児への直接の「うとましさ」があるというより、生活のあわただしさや貧しさからゆったりとした授乳を許されないというニュアンスであるとおもいます。だからそこには母親への無意識の嫌悪や反発は、他のふたつのパターンより表出されやすいということになるんじゃないでしょうか。それが共同体として特徴づけるときに、「ひび割れの線の走り方が明瞭になる
という形になるのだと考えます。明瞭になるがゆえに、母の群れと男の群れは分裂し、母の群れが公的な制度の役割を独占するか、あるいはなんらかの理由でそれが反転すれば、男の群れが独占するというようになると考えたのだとおもいます。
これでいちおう3つのパターンの解説をしたわけですが、なんで吉本はこのような考察をしたのでしょうか。それはアジア的段階の共同体の特性として吉本が長い間調べてきたものが、このように母子関係と対応させて理論的に考察したものと一致しているからだとおもいます。アジア的というのは世界普遍性としての歴史段階の概念と、地域的なアジアの概念とが両義的に含まれているものですが、そういうアジア的な社会というものは、乳児と母親の関係という面からも考察できる、と吉本は腑に落ちたんだとおもいます。もちろん先にベイトソンが調べたバリ島の「高原状態」という概念も、こうしたアジア的社会の特徴という概念に包括されるし、当然日本の場合も含まれるわけです。
では3つのパターンとそれが生み出すアジア的社会の共通する特徴とはなにか。それは西欧型の社会との対比のなかであきらかになってくるわけです。この問いに吉本が用意したのはイザベラ・バードの「日本奥地紀行」とかチェンバレンの「日本事物誌」という欧米人の目に映った明治十年代の日本の姿です。ベイトソンも欧米人ですから、バリ島の習俗も同様に欧米人から見たものです。そこには欧米の習俗から対比的に見ているという意味が含まれているわけです。
欧米と対比されたアジア的社会の特徴とは、西欧型に対して「温和なくぐもった親和性」としてこれらの欧米人の著者に映っている点だと吉本は述べています。西欧型の乳児と母親の関係の特徴というのはまた別個の大きな問題ですが、その極端な典型はユダヤ系の社会に伝統的にあった「割礼
だと吉本は述べています。「割礼
というのは行う時期はよく知りませんが、幼児の性器の包皮を切り取ることでしょう。このことが幼児の無意識に与える傷は重大だという問題があるわけです。その典型とそのバリエーションが西欧型の母子関係と西欧型の精神と西欧型の共同体を特徴づけていくとすると、それに対する日本もバリ島も含んだアジア的社会の特徴は、「温和なくぐもった親和性」なのだということになるわけです。
では、なんで「くぐもっている
のでしょうか。それは母親の授乳期が長く、なかなか乳離れしない、そしてその裏には母親の願望として、夫の父母や兄弟姉妹に対する気兼ねや被抑圧感から逃れる時間を延長したいという気持ちがあるんだと吉本は述べています。つまり母親がゆったりとした授乳をおこなえる心の余裕があるとはいえないことは変わらないわけです。舅姑や夫にかしずく重圧から逃れる時間として乳離れを伸ばしているということです。だからその可愛がり方にも、可愛がられ方にも、その結果うまれる親和性にもくぐもった影がつきまとうわけです。しかし西欧型に比べれば母子の愛着は強く、親は子供をかわいがる。だから子供たちは従順で親に対する反抗や仲間どうしの争いも控えめになる。子供たちはかわいがってくれるし長いことおっぱいを与えるけれども、心のなかにはゆったりした余裕のない母親からしだいに離れて、子供だけの世界(ミニ共同体)を作って遊ぶようになる。そしてミニ共同体のなかで大人の世界に似せてボスを選び、その統率の下で集団的に遊ぶ、と吉本は述べています。これは日本のひと昔まえに見られたガキ大将に率いられたガキたちの世界です。このへんは田原先生がよく体験的に知っているので聞いてください(^―^)
こうしたアジア的社会と西欧型の社会の素描からさまざまな問題が湧き上がります。しかしその前に私から吉本に質問があります。それは母親と乳児との関係の傷の与えられ方を三つのパターンに分けて、それに対応する形でアジア的社会の特徴を抽出するという論理なわけですが、そもそも母子関係の傷を前提としていいのだろうか、ということです。母子関係の傷がないということだってありうるでしょう。アジア的社会の特徴を母親と乳児の傷というところから始めるのは、乳児が母親から傷を負うということを普遍性とみなすことです。どうなの吉本さん、そこのところは?問えども吉本さんはこの世にいない。しかし著作から考えを追うことはできます。だけど時間が尽きましたので、この続きは次回にしたいとおもいます。