一つの決定的な宿命といふものが、如何にして一つの可能性をあらはすかと言へば、それが多様な構造によつて支へられてゐるからである。この構造の多様性といふものは僕らの否定といふもののもたらす効果とも言ふべきものであつて、僕らが離脱しようとする意志によつて生成せしめてゐる。(断想Ⅱ)

言葉使いが難しくて分かりにくいですね。そこで宿命という言葉を必然性という言葉に置き換えてみます。ある個人の生き方のなかに他にどんな道も辿ることができなかったという必然の道筋があるとすると、その必然の道筋というものはその人の内面と外部の現実とがぶつかったところに生じるものであるわけです。頭のなかだけで観念的に考えている限りは様々な生き方ができるように思われますが、実際に現実にぶつかってみるとただ一つの細い道を辿るようにしか生きることはできない。ただそのことが視えるというか、これが宿命というものだと意識できるためには自分の内面というものが充分に意識化されていなければならないと吉本は考えていると思います。ぼんやりとした内面で現実にぶつかれば、ただ現実に流されていくだけだ。自分にとっての宿命、必然性が自分にとって明瞭に感じられるのは、自分の内面も現実の構造も精一杯意識化されている場合だけだということなんだと思います。それで意識化しようとすると、内面世界も現実世界も多様な構造に支えられていることが分かるという意味じゃないでしょうか。
そんでもってですね、あと「否定」とか「離脱しようとする意志」というのは何を言いたいのかというとたぶん人間というものはたえず現状に対して超えていこうとする存在で、それは言い換えれば離脱しようとする意志を持つ存在だということなんだと思います。それは言い換えればたえず現状に対する否定というものを繰返す存在だということになるでしょう。そういうことでなんとなく意味がつながるんじゃないでしょうか。なんか落語の「千早振る」みたいにこじつけてる気もしますが私にはそういうふうに読めるということで参考にしていただければさいわいです。おあとがよろしいようで。
さて私ごときの書いたものにご質問をいただいていますので、分かる限りお答えしてみたいと思います。ひとつは『人間の始祖は、「猿」だったのか?』というご質問です。
これはたぶん以前の私の解説で、吉本がサルから人間の始祖がなぜ分かれていくのかという問題で、ただ一匹の異性のサルを求めるようになったサルが人間の始祖となっていったのではないかと述べていると書いたことに関連するのではないでしょうか。それで人間の始祖は本当に猿なのかという質問ですが、私は人類学者でもないし本格的なことは答えられませんが、日本のサル学の泰斗である今西錦司と吉本が対談した「ダーウィンを超えて」という本を読みなおしてみました。今西錦司は人間の祖先がサルだということは今では疑う人はいないんじゃないか、ということを言っています。もちろんこの場合のサルというのは現在のサルとは違うわけです。現在生息しているサル族は何百万年も前に人類の始祖となるものと枝分かれして進化した連中です。ではどうして人間の始祖がサル(の祖先)から枝分かれしたと考えるかというと、それは一つには化石を掘り出すことで検証するんでしょう。あとは遺伝子の研究が進んでそういう面からも明らかになっているんじゃないでしょうか。とはいえ何百年も前の化石というものは都合よく系統的に出土してくれるわけでもないし、そのぽつりぽつりと発見される化石をもとにここまではまだサルであるとか、この化石は直立歩行していることをしめしているとか道具が一緒に掘り出されたからここらへんからは人類へと枝分かれしたとか、そういうことで判断していくんじゃないかと。ど素人なんでそんなことしか分かりません。
このご質問はこのへんで勘弁していただいて次のご質問は、『「習俗」とは、どういうものか?人間が自然との関わりの中で自然発生的につくられたものか?(一般的には、社会の習わし、風習、風俗、生活様式といわれています。)』というものです。これもたぶん私が解説のなかで吉本の考えを書いたなかのどこかに関連しているんだと思います。それで前に書いたものを少し読み直してみまして習俗について書いてあるものを探してみました。たとえば以前書いた解説のなかで吉本が、角田忠信という学者が発見した旧日本語族とポリネシア語族だけが自然音や母音を言語脳である左脳で聴くことができるという現象について触れているところがあります。そこで吉本は旧日本語族とポリネシア語族は自然現象をすべて擬人(神)化して固有名をつけて呼ぶことができる素因があり、また自然現象の音を言葉として聴く習俗のなかにあったことが母音の波の拡がりを言語野に近いイメージにしている根拠だと考えていると私が書きました。そういうところからこの質問がきているのかもしれません。
まあそうだとしてお答えしますが、そうだとするとこの質問者が言いたいのは「あなたは吉本が旧日本語族とポリネシア語族とそれ以外の語族の聴音における脳の部位が違う原因を習俗に帰しているというけど、だったらその習俗の違いは何によって決定されるの?脳の部位の聞き分けより以前に習俗の違いがあるというならその習俗というのはいったいどういうものなのか」というようなことではないかと思います。この疑問はもっともな疑問であると思います。質問の意図ともしかしたら違うかもしれませんが、とりあえずこういう疑問だとしてお答えしてみます。
この疑問はつまり人類の言語の共通性が母音だけで、あとは各民族・種族で別々になるのはなぜか。また角田忠信が発見した旧日本語族とポリネシア語族とその他の語族との聴音における脳の部位の違いは、そうした言語の分化とどういう関係にあるのかという問題だと思います。この問題は「母型論」の解説がもう少し先に進んだ時にちゃんと書こうとしていた問題です。
この問題のポイントは旧日本語族とポリネシア語族だけが左脳の言語脳で自然音や母音を聴くということを、単に地域の違いの問題と吉本は考えないということです。この聴音の違いを発見したのは角田忠信ですが、その違いがなぜ起こるのかということについては角田忠信は解明していないわけです。吉本は彼の思想の方法によってこの謎に挑みます。それはこの聴音の違いを地域の違いであると同時に言語の普遍的な発達段階の違いでもあると考えることです。ここでいう「段階」というのはヘーゲルがアジア的とか古代的とか歴史の発展段階を時間的な経過であると同時に空間的なあるいは地理的なものに置き換えられるとみなした、そういう意味の「段階」です。アジア的という歴史の段階がアジアという空間的な地域に置きなおして考えることができるように、言語が母音のみを共通性として、それから各民族・種族の様々な言語に枝分かれしていくことにも「段階」という考え方を導入します。
詳しくは今後「母型論」自体の解説でやっていきますのでここでは簡潔に解説させていただきますが、言語が母音の共通性から発達していく過程を「段階」として区分していくことができると考えます。そしてまたその言語発達の歴史的段階と乳幼児の言語発達とは関連をつけることができるとみなします。そして乳幼児の言語の発達を分析しながら吉本が考えていく込み入った思考の過程は今後の「母型論」の解説で書きますが、要するに旧日本語族とポリネシア語族は言語の古い発達段階の言語の特徴を保存しているとみなしているのです。くどいようですが、この発達段階という時間的な概念が日本やポリネシアという空間的な概念と通底するということが重要です。そうでないと単に地域的な差異が言語の違いを生み出すという考えになってしまい、もっと退廃すれば要するに劣等種族だから発達が停滞しているんだと考えてしまうからです。そうではなく、空間的な発達段階の差異は同時に時間的な発達段階の差異に関連付けうると考えるなら、より高度な言語の発達段階にあるインドーヨーロッパ語族でも、ヘーゲルの歴史概念ではかってはアジア的段階を通過したとみなせるというのと同じ意味で、インドーヨーロッパ語族もかっては旧日本語族やポリネシア語族の保存している言語の発達段階を通過したであろうと考えるわけです。
そしてじゃあなぜ旧日本語族とポリネシア語族が古い発達段階の言語の特徴を保存しているか、あるいは古い発達段階のまま停滞したのかというと、それは自然に対する未開の習俗が、インドーヨーロッパ語族の環境と極端に違っていたからではなかろうかと吉本は考えます。ここで習俗の違いが登場します。つまり旧日本語族とポリネシア語族、そしてさらにそれらと類縁関係にある言語発達の地域として東南アジア、アセアニア、北アジア南アメリカ、アフリカという地域にまで拡大して考えることもできますが、こうした地域とそこに住む民族・種族においては、「自然そのものが生命の存続にとって本質的に温和で好ましい食糧、住居、着衣の条件を持ち、したがって身体(器官)を自然のなかにおき、自然を身体のなかにおくだけでよい環境で永続する世代体験をくりかえしたため、食糧、住居、着衣に天然を加工し、価値化しなければ適合できぬ理由をみつけだすことができなかった(母型論より)」と考えているわけです。つまり熱帯や温帯という自然環境の違いがまず存在し、それによって形成される食糧、住居、着衣というつまり習俗の違いが生じるわけですが、それが言語発達における長期の停滞を作り出し、その長期の停滞が特に旧日本語族とポリネシア語族においては聴音における脳の部位の違いの特徴として現れていると考えていると思います。ここからさらに言語音と自然音をどうして同じように聞き取るのかという問題に吉本の母型論は進むわけですが、それはここでは長くなるので省略します。吉本が述べる習俗というものと言語における聴音の差異との関係というものをとりあえず解説させていただいたので、このへんで勘弁していただくことにします。