僕は一九四五年までの大戦争に反戦的であつたと自称する人たちを信じない。彼らは傍観した。真実の名の下に。僕らは己れを苦しめた。虚偽に惑はされて。何れが賢者であるかは自明かも知れぬ。だが僕はそう明な傍観者を好まない。(風の章)

吉本は戦後、戦争責任論を提起して論壇にデビューしました。その戦争責任論を詳しく述べる余裕はありませんが、戦争中に反戦的であったという人を信じないと言っています。戦争中に公的に戦争否定を述べたり行動することはありえなかった。ただ心のなかで戦争を否定し厭戦的であった人たちはいたということです。それはつまり戦争否定のこころを抱きながら面従腹背の態度で沈黙していた。つまり戦争を傍観していたということです。吉本がそういう戦中戦後の知識人の振る舞いを見てきてこころの戒律としたことは、自分はどんなに孤立しても、弾圧を受けても、またそうすることがおっくうでも怖くても自分の社会的な主張は公言していく、というものだったと思います。そして時代が思想の分かれ道を用意するようなきわどい分岐点で、吉本は孤立を支払い、主流のメディアからの追放を支払い、政治集団やその手下の物書きからの誹謗中傷に耐えてその戒律を貫いてきたと思います。60年安保の時も、新左翼運動の時も、連合赤軍の時も、オウムの時も、原発事故の時もです。その主張の内容は間違いを含むこともありえますが、なによりもその内部の戒律に従う社会的な責任をとる姿勢が吉本の姿勢なのだと思います。私はその姿勢を好みます。

おまけです。これは柳田国男の「軒遊び」という概念について自分の経験をもとに書いている部分です。とても重要なことが書かれている気がします。部分的な引用でよく内容が分からないかもしれませんが、興味のある方はぜひ原典のほうを読んでみてください。

 「幼年論」の「まえがき」から             吉本隆明
まだ遊び自体が生活なのだという自在さも持てず、兄や姉に遊びに引きまわされもせず、日頃いそがしそうに動きまわっている母親も稀に針つくろいをしている。この稀な年齢と時間がわたしには「軒遊び」に当たるような気がする。生涯のうちこんな時が無かったら、と良きにつけ悪しきにつけ、誰でも思い起こす時があるにちがいない。わたしにとってこの時期が最初の「それ」であった。意味をつけようにもつけようがない。中味がなにも無いからだ。でもこれが無かったら人間の生涯は発達心理学のいう意味だらけになってしまう。
ほんとうをいえば、幼児期の内働きの主役であった母親の授乳と排泄から学童期にいたる間に、とくに「軒遊び」の時期を設定してみせた柳田国男の考え方は、たんに民俗学や人類学の概念の基礎を与えただけではない。存在論の倫理としていえば、母親による保育とやがて学童期の優勝劣敗の世界への入り口の中間に弱肉強食に馴染まない世界が可能かも知れないことを暗示しようとしているともいえる。そして誰もが意識するか無意識であるかは別として、この中間をもつことは人間力の特性につながっていると思える。