僕は冷酷な孤独を知つた。それについて今は何事も語らうとは思はない。その時から僕は笑ひを失つて理論と思考とに没入した。僕は均衡を得ようとした。しかも充たされた均衡を。敗残のほうへ傾いてゆく僕の精神は何と留めるにつらいものであつたらう。僕は急に老いたと思つた。青春の意味は僕から跡形もなく四散したと言ふべきだつたらう。(原理の照明)

これは「母型論」とも関連することですが、にんげんが育てられる主として母親との関係というものと、その育てられた者の共同体に対する感覚ということには対応性が考えられるというのが吉本の思想です。つまりどう育ったかということと、そいつが社会や集団をどう感じるかということは関係があるということです。吉本も吉本の育てられ方をもち、それが吉本の共同体への感覚や感情に影響を与えているといえます。戦争中に日本軍部の戦争遂行のイデオロギーとそれに従う日本社会に吉本は同調していた。戦争を徹底的にやってやがて訪れるだろう戦争死を受け入れようとしていた。それが敗戦によって切断された時、吉本の内部でもなにかが切断された。それは多くの知識人が主張したような単に日本軍国主義にだまされていたとか、これからは平和と民主主義を守ろうというような意識の表層の知の転換ということではおさまりがつかなかった。もっと内部の、乳胎児期からの育ち方に関わる無意識の奥でなにかが切断されたのだと思います。それは吉本だけの問題ではないわけですが、鋭敏にそのことにこだわり考え詰めたのが吉本だということになります。冷酷な孤独を知ったというのは、共同体との無意識のきずなが切断されたということだと思います。しかし共同体とのきずなを失ったままでは、身体は生き続けても精神が生きることはできない。受け身で感じ取れる共同体の感覚が切断された時以来、吉本は理論と思考によって自我と共同体とを結ぶものを自力で見出すしか道がなかった。そして共同体というものの意味は、吉本の生涯の思考の旅のなかで次第に個の乳胎児期にまで遡行していきます。というようなことでまた母型論的な話につなげてしまいますが何か問題でも?
にんげんの乳胎児期から幼児期、児童期(学童期)を経て思春期まで。その各発達段階はどのように共同体の歴史段階と対応づけられると吉本は考えたか。ここのところを吉本の「心とは何か」(2001 弓立社)から引き抜いて書いてみます。ただそこに書いてあることを要約して書くだけだから、ぶっちゃけその本を読んだ方が分かりやすいんですよ。そっちをお勧めしますが、まあ買いに行くのも面倒だという人にはいいか・・。でもここを説明しないと話が進まないし、まあやりましょう。
にんげんの発達段階と歴史段階の対応ということを吉本は共同体のなかの個人の性的な、つまりエロス的なものを軸にして考えています。エロスを軸にした共同体というもの。つまりその共同体のなかでセックスの関係や婚姻はどのようになっていたかということを軸にして考えます。すると共同体のなかの個人がエロスとしてどのように振舞うかということに段階が想定できると考えます。そして歴史的に段階を経るたびに、共同体のなかの個人は自身のエロス的な行動を共同体の掟や規範から分離させていくことになります。やがて共同体の掟や規範から十分に分離がなされるようになると、今度は共同体に代わって親とか親族とかが個人のエロスに対して規制したり支配したりする存在となります。これは私たちオッサン世代にはまだ身におぼえがあって分かることであって、親が許すとか許さないとか、親族が集まって反対するとかということが個人の結婚や恋愛に影響力が強く残っているということです。それはアジア的社会の特質だと吉本はいいます。それは抑圧ではあるんだけど、歴史的にいえば共同体が個人のエロスを規制するアジア的以前の段階が終わって登場した親や親族の規制の段階の名残りだということです。
おおざっぱにいうとそういうエロスを軸として見たとき、個人の共同体からの分離ということがあります。もう少し段階にそってみると、まず乳胎児期があってそこでは内コミュニケーションによって母子の関係が全世界のように存在します。そして誕生したばかりの時は、自我が未形成だと吉本は考えています。じぶんというものはあまり外界と区別がついていない。「ところが授乳期は、母親のお乳を飲みながら、じぶんとじぶん以外の外部のものがあるんだということを、朧気ながらだんだんじぶんのなかでかためてゆく時期です(原文)」この誕生から授乳期、つまり乳児期がどのような歴史段階に対応づけられるかというと、未開の共同体以前からほんのちょっとだけ進んでいるところを想定すればいいと吉本はいいます。それは個人の側から共同体に対して違和感を持つことがない段階だということです。これは前回解説した原始共同体と古代的共同体の半ば頃の氏族内婚制という段階だということです。氏族内婚制というのは氏族、つまり同一の祖先をもつと信じられている血縁の集団の内部でしか婚姻が認められないという共同体からの個人のエロス的行動への規制、掟があるということです。逆にいえば氏族内婚制の共同体の内部では、近親婚の禁制がまだ半分くらいしか通用しない段階だということになります。この掟を破らざるをえなかった者によって神婚神話が生み出されます。この対応関係がどのように精神病の問題と関わるかは大変重要ですが、とにかくひととおり段階を追っていこうと思いますのでちょいとその件は棚にあげときます。
次に乳児期を過ぎて幼児期に至るところと共同体の段階はどのように吉本に考えられているか。幼児期の特色は言語の獲得ということになります。しかしいわゆる分節化された言葉で形成される言語というものが獲得される前に乳児期からの(前)言語というべき段階があって、それは「アワワ」言葉の段階だと吉本はいいます。「アワワ」言葉は母親が乳児に向かって「アワワ」とか「アババ」といった意味をつくらない音声を発する。すると乳児は笑ったりなにか声を出したりしてそれに応ずるということがあります。これは笑いについての内コミュニケーションが母親と乳児の間に成り立ったことを意味すると吉本は考えます。次に幼な言葉、耳言葉と呼ばれる言葉を母親が乳児に向かって語る段階がある。これを幼児言語と呼んでいます。なじみのあるところでは怪我をして痛がっている子供に母親が「チチンプイプイ」というような声をかける。こうした幼児言語も意味の伝授ではなく母子の内コミュニケーションだと吉本は捉えます。つまりそうした(前)言語の段階を経て母音から始まる言語の分節化の獲得という段階へ進むわけです。これは吉本の言語論との母型論的な追及の通路になっているわけです。
雑ですいませんが、後でじっくりやりますからとにかく「アワワ」とか「チチンプイプイ」とか母親が子供に語りかけてることが言語の獲得の準備をなしているわけで、そのことも含めて幼児期の言語獲得を考える必要があるということです。そして幼児期はどのように共同体の段階と対応づけられるか。それは共同体の意思と個人の意思とは別々の問題なんだということが萌し始めたという段階と対応づけられると吉本は述べています。すると分離を開始した個人の意思と共同体の意思の違いをどこで掟によって合致させるかという問題が起こるということになります。これが共同幻想の法の歴史の段階の問題です。そのことはエロスを軸としてみると、氏族内婚制が崩れはじめ外の氏族の異性と結婚できる氏族外婚制が成立しはじめるということになります。
そしてここが重要だと思いますが、共同体とその個々のメンバーの意思の分離が生じるところでその意思を担うのが言語だということです。言語が個人の共同体に対する意思の表示として重要になってくる。あるいは言語がなければ個人は共同体から分離することができなかった。エロスを軸として個人が共同体の規制から分離していくその重要な時期に、分節化された言語という、三木成夫の考えからいえば極度に息を詰めた死にそうな緊張と集中を強いる言語の表出が関わるということになると思います。そしてこの歴史的な段階と乳児から幼児へ移り、「アワワ」言葉や幼児言語を経て言語を獲得する幼児期が対応付けられると吉本はみなしています。ここから吉本の生涯かけて追及したさまざまな問題が群雲のごとく沸き上がるわけですが、とにかくひととおりやんなきゃならないからそれもこっちの棚に上げておこう。
それで次は学齢期・児童期です。この学童期、つまり小学校に行って初めて学校というものに叩き込まれる時期はどのような歴史段階に対応するか。それは共同体が進化して、男たちは男組を作って狩りに行くとか漁に行くとかして、女組は浜辺で海草をとるとかというような共同体の中で小さなそれなりの自立した集団を作るようになる歴史段階に対応づけられるだろうと吉本は述べています。その男組、女組とは共同体の絆からいっさい解き放たれて、男組だけ女組だけの意思決定で共通の行動をやる初めての歴史段階だと吉本はいっています。これは体験的にわかります。小学校に行くころになって初めて体験するのはこうした男の子だけのグループが大人の世界と別のところで独自の価値観を作って存在し、そのなかに自分が入っていくという体験です。この共同体の段階になじめるかなじめないかということには、それに対応する母子関係が築けたのか、それともそこに至る前に母子関係で傷や苦しみがあってそれ以前の母子関係に固執して学童期の課題に飛び移ることができないかったのかということが問題になります。それがいじめとか登校拒否とかの問題の根にあるものだと吉本は述べています。これも重要ですが棚にあげておきます。
次に学童期を過ぎて思春期に入ります。この思春期の初期は社会的な行動とじぶんの中にある母親から無意識のうちに習い覚えた性についての行動とが分離される時期だと吉本は述べています。これは逆にいうと社会的行動のほうがじぶんにとって重要なんだということにはじめて気がついていく時期で、同時に自分の性的な行為・心情というものがはっきり分離できる時期にあたると吉本は述べています。この時に、異性とどう出会うかという出会い方がわかる。同時に共同社会と個人の性愛とは別の次元なんだということを、初めて判然とした形でじぶんが獲得する時期にあたると吉本はいいます。この発達段階と対応づけられる歴史段階は、共同体の段階では、血縁的な氏族共同体を統合してその上の共同体、部族の共同体に移る段階にきたということになります。また部族の共同体に移るということは吉本の考えでは幻想の共同体である国家の最初の形を作る可能性の段階にきたということを意味しています。それは個々の家族あるいは家族の集団、親族の集団と共同体とは次元がちがうんだとはっきりさせられる時期だと吉本は述べます。
この時期に至ると最初に書いたように個々の人間の性愛の行動を決定する規制と抑圧は共同体ではなくなり家族や家族の家父長になると吉本はいいます。そしてやがてこの家族・親族の意思をも分離して個人間の性愛、つまりエロスの行動は貫かれる段階に向かうことになります。
では、その次はつまり思春期の次はどうなるのかという問題があります。そこで母型論的な課題が吉本の現在論、つまり高度資本主義社会としての現在の追求につながっていきます。しかしとにかく乳胎児期から思春期までの発達段階と氏族内婚制の段階から部族共同体までという歴史段階の対応づけをザッと、えらくザッとですが概観してみました。どうしてもここは触れとかないと先に進めないんで長ったらしくてすいません。