寂しさと呼ばれてゐる状態は、やはりひとつの止つた状態であつて、僕は速度によつてそれを消すことがいちばん易しい方法であると思ふ。(断想Ⅲ)

無意識のなかの受け身の感受性が共同体の強いてくる秩序の感性に合致している状態を「明るさ」とみなすことができます。明るく健康的という感性にはそうした無意識と共同体との合致がある。しかしその合致に疑いが生じ、あるいは容赦なく切断されたらどうなるのか。それは暗く退廃的な「暗さ」の状態に陥ることになるんでしょう。私たちは明るさに惹かれることもあるし、暗さに惹きつけられることもある。それは私たちのなかのあるべき共同体への憧れと、現にある共同体への疑念をあらわしているともいえると思います。寂しさとここで言われている感性も共同体と切断された「暗さ」を取り巻く雰囲気であると思います。吉本は要するにそういう寂しさを振り切るには勉強するしかない、自分で考えるしかないといいたいのだと思います。

おまけです。

吉本が敬愛した太宰治の作品から。
 「右大臣実朝」より           太宰治

平家ハ、アカルイ。

アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ、人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。