注意深く演習することによつて僕が期待する唯一の効果は、一つの段階が終つて他の段階に移るといふことが果して可能であるか、(一般にそれは同時に行はれるから)を検討し得るといふことにある。(断想Ⅱ)

これは思考ということ自体に凝って、思考の跳躍というものがなぜどのように行われるのかを注視しているにんげんの記述です。やはりこれも幻想論につながるものだと思います。思考の跳躍は幻想と幻想の間の跳躍だとも考えられるからです。 おまけありません。

忘却はひとつの選択に外ならない。最も忘却をまぬがれるものは嫌悪である。悲しみも愛憎も決して永続することはない。何故ならそれはたまることはないから。愛憎の思ひ出といふものは総じて在り得べきものではない。これらは過ぎてゆく季節に外ならない。(忘却の価値について)

これは若い時に読んだときにわかったようなわからないような印象でしたが、今読んでもわかったようなわからないような感じになります。確かに激しい愛憎とか悲しみはやがて薄れていくものだと思います。その理由はわたしが思うには、嫌悪というのは対象への…

悲しみは無数の体操の形式をもつてゐる。喜びは単に上下運動とか単純な性質の体操。いかりは全身の緊張で、それは体操の終局。愉しみは小さな緩急律動。(忘却の価値について)

これもいかにも吉本らしい記述です。面白いと思いますが、だからどうということも特にありません。これは自分の思考とか感情とかを自分の論理で押さえたいという執念のある人が書くことです。 おまけありません。

若し自由といふものを現実的に規定するならば、それは本能に帰着する。斯かる規定は形而上的ではなく、形而下的となる。即ち社会学乃至は経済学に帰着される。(形而上学ニツイテノNOTE)

自由というものを人間にとっての自由と考えれば、それは人間の人間的な欲求を充たすものということになりましょう。人間的な欲求を人間の本能と言い直せば、自由は人間的な本能が規定するわけです。人間的な本能は動物的な本能を基底にして、そこに人間的な…

社会学乃至経済学を原理的に規定するものは、生理学乃至は生物学である。(形而上学ニツイテノNOTE)

人間の人間的な本能に社会が規定されるならば、生理学とか生物学が人間の本能を追求するのだから、社会学も経済学も生理学、生物学に規定されるということを言っているわけです。こうした学問の枠を超えた追求の姿勢が、人類の歴史を胎児期の人間のあり方に…

静寂のうちに用意されたひとつの悲しみ。精神は空の色のなかに昔々秘されたひとつの予望を堀り出さうとしてゐた。僕は沢山のことをしようとは思はず、唯ひとつのことをしようと思つてゐた。赦された者は幸ひであるかな。(忘却の価値について)

これだけ読んでもなんのことやらわかりませんよね。わからなくて当然だと思いま す。ひとつの悲しみとは何なのか。ひとつの予望って何なのか。唯ひとつのことって 何なのか。赦された者ってどういうことか、「さっぱりわからない」(BY福山雅 治)吉本らし…

もう何の危惧もなくなつてゐる。残されたものは唯ひとつの可能だけだ。(忘却の価値について)

唯ひとつの可能って何?それは言わないわけですよ。ああアレだろうな、と思えばつ まりたぶんソレだろうねということです。なんでも言えば済むわけじゃない。言わな い言葉、言えない言葉を聞くという、それが大衆の無言のことばを聴くということで もあるん…

実践はいつも動機だけに関与されてゐる。そして人間史は無数の動機の、しかも悲哀ある動機の連鎖のようなものだ……と。これだけは僕の心情が、政治史や経済史から保存しておくべきだと思ふ唯一の痕跡だ。それで僕は虚無の歴史の如きものを僕の精神史のなかにも持つてゐると言はう。(夕ぐれと夜との独白(一九五○年Ⅰ))

動機、つまりこうしたいとかこう生きたいというような動機があって人は行動する。つまり実践する。しかし現実とぶつかって最初にこうしたいと思ったような結果にはならないものだと吉本は述べています。現実のほうから働きかけてくる力があって、その力と動…

神への信仰と従属。それはやがて権力と貪らんへの奉仕を人に教へるのではなからうか。(エリアンの感想の断片)

このたった一つのことを信じ込むということの怖ろしさは、キリスト教だけでなくマルクス主義でも同様だということが初期ノート以降の歴史でも証明されたのだと思います。権力と貪らん、あるいはスケベとか不倫とかいじめとか、男女とか集団内での愛憎のすさ…

且て個性の運命を社会学的に解析し得たものはない。否これは解析することは不可能だ。だが解決した者は在る。如何にして?それは行為といふ単純で重たいものによつて。ここでも人は現実といふ魔物に出会ふ。(原理の照明)

あけましておめでとうございます。今年もつたない解説をしていきますので、よろしくお願いいたします。さてこの初期ノートの文章ですが、あなたならあなたの個人としての運命を社会的な面からだけ確定することはできないということを言っていると思います。…

批評家は論理が個性と出遭ふまで待つてゐるべきだ。それ以前に表現されることはすべて生のままの素材にすぎない。如何に多いことか。市場は彼ら似非批評家で黒山だ。(原理の照明)

こうした考え方の出どころはたぶん小林秀雄の宿命論だと思います。個人にはすべて自己資質という根深い「宿命」があり、それを見出すのが批評なので、それには批評家自身の自己資質または「宿命」の発見が前提とされるという考察です。吉本はさらにその宿命…

僕は僕の現実についての判断と、信ずべき正当な方向とが、次第に潜行せざるを得なくなつてゐるのを感じる。しかもこの距離感は増々巨きくなりつつあるようだ。(断想Ⅰ)

現実に対する判断と、信ずるべき正当な方向、つまり理想とする社会の将来のあり方が「潜行せざるをえない」というのは、たぶん吉本の考えが孤立して、主張しても賛同を得られないようになっていくということだと思います。「ぼくが真実を口にするとほとんど…

僕は実験する。だが恐らく僕は実証するひまを持たない。実証とは言はばひとつ

実験と実証というのはどう違うんでしょうか。またそれで吉本は何を言いたいのか。化学の実験が吉本の当時の職業だったとはいえ、化学のことを書いているわけではないでしょう。これは思想のことを言っているんだと思います。実験というのは実験室で行われる…

良く企画された歌を唱ふことが批評である。それ故批評は計量詩である。(原理の照明)

「良く企画された」という意味を社会に対して歴史に対して、また自分の意識や無意識に対してよく把握されているということだとすると、戦後の荒地派の詩というのは良く企画された詩といえるのだと思います。だから計量詩ともいえるし、批評を内包した詩だと…

今日資本家の所得と労働者の所得とを比較すること。賃銀の余剰価値部分率を、資本家の所得との対比において論ずるのは余り意味がない。固定資本量の生態と労働者所得の生態の関係こそ、ヒユーマニズムの経済学的考察の対象であらねばならぬ。(原理の照明)

正直言ってこれは良く分かりません。前段の言っていることはなんとなくわかりますが、「固定資本量の生態と労働所得の生態」というのがさっぱりわからない。固定資本というのは流動資本じゃないもの、つまり工場とか建物とかのことだと思います。しかしその…

批評における判断力の強弱は、単元的な判断の連鎖の持続度の強弱としてあらはれる。(〈批評の原則についての註〉)

吉本がどこで書いていたのか思い出せませんが、マルクスについて、普通の人なら数分とか数十分とかしか持続することに耐えられない思考を、何時間も何日も持続して考えに考えることができる、それがマルクスだというようなことを書いていたと思います。プロ…

〈出来るだけ易しい言葉を用ひること。〉(断想Ⅲ)

「できるだけやさしい言葉を用いること」というのは、吉本がひそかに苦闘した大きな課題だったと思います。そこ奥には、吉本が人と、特に女性とコミュニケーションが取りにくいという生涯の体験があったと思います。そんな吉本家に吉本以外は女性と猫しかい…

それで人間は虚無のうちにのみ存在すると言ふことが出来る。(下町)

「それで」というのはどういうことかというと、私の考えでは信じるということができないということだと思います。吉本は敗戦によって信じるものがなくなったということじゃないでしょうか。あるいは信じるということ自体に疑問が湧いたということです。現実…

〈おまへは自分を信ずるのだよ。あんまり痛ましい程自分がなさすぎる。〉(下町)

この「おまへ」は吉本のことでしょう。では誰が吉本に「自分がなさすぎる」と言っているのかといえば、それはこれは創作だと思いますから自分が自分に言っているといってもいいわけですが、私が想像するにはたぶん吉本の物語詩に出てくるイザベル・オト先生…

僕は次の精神の段階において僕を待つものが疾風怒濤であることを予感する。僕はそれを自らの精神によって、同時に肉体によつて行ふだらう。(断想Ⅳ)

この初期ノートを書いている時期の吉本は、いわば「ひきこもり」の時期だったといえましょう。敗戦の衝撃を受け止め、新しく思想の構えを立て直すためにうつうつとして考えつづけている、外から見たらひきこもっていた時期ではないかと思います。吉本に言わ…

精神は余りに抵抗しすぎて疲れてゐる。(断想Ⅲ)

そうなんでしょうね。ご苦労様です。おまけ。 ありません。

常に方法的な基礎のうへに建築された体系は、巨大な圧力を呈するもので、絶えずおびやかされてゐる架空な設計家は、直ちに模倣家と変ずるかさもなければ、自らの場所を逃れ出すであらう。だが方法的な基礎のうへに建築された体系は、若しそれが心理的な充填物を充填しない限り、激動に対して鞏固ではないものだ。即ち多少の可鍛性がないものは脆いと言はなくてはならない。(方法的制覇)

「常に方法的な基礎の基礎のうえに建築された体系」というのは、たとえばマルクスの思想体系のようなことをいうのでしょう。その思想体系は全歴史、全世界をおおって、その方法的原理は人間と自然の根源的な関係をめぐって作り上げられています。だから圧倒…

方法性は決して浸透作用を持つものではない。それは膜平衡の原理には適用されず、多くの結節をもつた脊髄の如きものであらう。(方法的制覇)

化学の人だなあという感じの用語ですが、方法とか原理というものの性質を述べているのだと思います。しかし吉本が亡くなって感じることですが、吉本が方法的に原理的に考察してくれているおかげで、吉本の考察がもっているわけです。その時の情況にみあった…

常に方法的な基礎のうへに建築された体系は、巨大な圧力を呈するもので、絶えずおびやかされてゐる架空な設計家は、直ちに模倣家と変ずるかさもなければ、自らの場所を逃れ出すであらう。だが方法的な基礎のうへに建築された体系は、若しそれが心理的な充填物を充填しない限り、激動に対して鞏固ではないものだ。即ち多少の可鍛性がないものは脆いと言はなくてはならない。(方法的制覇)

「常に方法的な基礎の基礎のうえに建築された体系」というのは、たとえばマルクスの思想体系のようなことをいうのでしょう。その思想体系は全歴史、全世界をおおって、その方法的原理は人間と自然の根源的な関係をめぐって作り上げられています。だから圧倒…

方法性は決して浸透作用を持つものではない。それは膜平衡の原理には適用されず、多くの結節をもつた脊髄の如きものであらう。(方法的制覇)

化学の人だなあという感じの用語ですが、方法とか原理というものの性質を述べているのだと思います。しかし吉本が亡くなって感じることですが、吉本が方法的に原理的に考察してくれているおかげで、吉本の考察がもっているわけです。その時の情況にみあった…

現実は膜を隔てて僕の精神に反映する。この膜は曲者だ。言はばそれは僕の精神と現実との間にある断層の象徴としてあるわけだが……。この断層は僕の生理に由因するかどうか。(断想Ⅵ)

ここで「膜」といっている概念はあいまいです。「現実」というのも「精神」というのもあいまいだと思います。「生理」というのもあいまい。それはその後の吉本の思想から逆に照らしてあいまいだと感じるわけです。ここには共同幻想、自己幻想、対幻想という…

人が何かをする事さへ確かなら、少し位待つたつて何でもない。〈オーギユスト・ロダン〉(断想Ⅵ)

吉本の「心的現象論」の「序説」が「試行」誌上で始まったのが1965年、「本論」が「試行」の終刊とともに終わったのが1997年。なんと32年間の歳月を費やして「心的現象論」は書かれ続けてきたわけです。「少しくらい待ったって」という言葉の重さというもの…

文字にうつされた思想……そこにはもう生理はなくなつてゐる。(風の章)

生理がないというのは、なまなましい情動が文字にしてしまうと失われるというようなことだと思います。それでも同時代の読者が読む場合は、同じ時代の空気や事件や風俗を共有していますから文字の背後のなまなましい内面も推測がしやすい面があります。これ…

あまたの海鳥が海の上で演じてゐる嬉戯――それは幼年の日から僕の意識の中に固定した像を結んだ。港 船舶 三角浮標 それからクレエンの響き いまも残つてゐるのはその響きである。(風の章)

これは吉本が幼少期をすごした佃島のあたりの光景でしょう。吉本は自分の出生とか生い立ちとか人生の経路とかを隠したり美化したりすることのない人です。失敗は失敗として挫折は挫折として貧しさは貧しさとしてそのまま表現できる人です。なんとか自分じゃ…

批評家にとつて対象となりうるものは、批評家の宿命と同じ構造をもつた、しかも異つた素材からなる対象のみである。これ以外に対する場合、批評家は自分の宿命を稀薄にするか、または対象をその環境(ミリュ)と同じ程度に稀薄にするか、何れかを撰ばねばならない。(〈批評の原則についての註〉)

たとえば漱石は吉本にとって自分の宿命と同じ構造をもった作家だとみなしたと思います。しかし鴎外は吉本の宿命とは違う構造をもっていたとみなしたと思います。宿命というのは、自分の無意識の構造のことでしょう。意識して行うこととは別の次元で自分の人…