静寂のうちに用意されたひとつの悲しみ。精神は空の色のなかに昔々秘されたひとつの予望を堀り出さうとしてゐた。僕は沢山のことをしようとは思はず、唯ひとつのことをしようと思つてゐた。赦された者は幸ひであるかな。(忘却の価値について)

これだけ読んでもなんのことやらわかりませんよね。わからなくて当然だと思いま
す。ひとつの悲しみとは何なのか。ひとつの予望って何なのか。唯ひとつのことって
何なのか。赦された者ってどういうことか、「さっぱりわからない」(BY福山雅
治)

吉本らしさを感じるのは、言わないこと大事だということです。言葉でいうと胸のな
かにあるものと微妙に違ってきてしまうというようなことに吉本は敏感です。「言葉
でいってもしかたがない」とか「これからあとは胸のなかでいう」とか「もう言葉に
ならない」とかその手のことを書き込むことがあります。つまり言葉と言葉以前のと
ころにあるものとを分けることに鋭敏です。だから解説とはいえ、なんでも言葉に置
き換えたらニュアンスが消え去ってしまうということもあるでしょう。だから解説し
たくないことも時にはあります。逃げてるわけじゃないんですよ。だから、ひとつの
悲しみというのはあれなんだろうし、ひとつの予望とはああいうことなんだろうと感
じればいいとしておきます。そのほうが楽でいいしね。

あとは吉本には二面性があって、それが魅力なんですが、静かに煩わされずに研究者
のようにずーっとひとりで何かの追求に打ち込みたいという面と、外界のことに興味
があって、無視できないで振り回されてまあ吉本は一種の癇癪もちみたいな人だか
ら、外界に向かって闘いに出ていくという面とがあるわけです。その静かなほうの研
究者的な面、あるいはそうありたいという願望がこの文章の奥にある気がします。

そんなところで吉本の分裂病理解の解説に移らせていただきます。「異形の心的現象
批評社)」という森山公夫との対談本を取り上げています。さてそれで前回も書い
たように、森山が提起している「汎精神疾患論」は、吉本の幻想論と3大精神病の関
連を土台にしているわけです。ところが対談ではその部分に両者とも全く触れない。
これはどういうことだろう、ここは素通りしたくないと思います。それで考えてみた
ことを書いてみたいんですが、まず吉本は精神病というものをどういうふうに考えて
いるかということを、吉本の文章をそのまま写します。

「多分、病気のばあいでも、専門家の先生は、分裂病あり、躁鬱病あり、鬱病もあ
り、それから癲癇もあると分類し、もっとさまざまな境界線、精神障害とか、異常か
正常かわからんみたいなところまで、たくさんの分類とたくさんの病名とを持ってお
られるでしょう。しかし大別して、大雑把なところでいってしまえば、躁鬱病とか鬱
病というのは、多分、内臓器官の動きとそれにまつわる神経の問題から主に起こって
くる病気だというふうになるとおもいます。分裂病といわれているものは、多分、感
覚器官にまつわる神経の病気というところが、根本にあるように、強寄せて(ヨダ注
記:こう印刷されていますが意味が不明。誤植じゃないか?しかしわからなくてもた
いした問題ではない)かんがえることができそうにおもいます。そこらへんのところ
で、たくさんの問題が生じてくるとおもいます。

ぼくらの関心と、それからぼくらのできうる範囲でいえば、だいたいそこらへんまで
のところです。それ以上踏み込んでいくと、病気自体の問題になったり、精神異常自
体の問題になって、それは先生がたの問題だとおもいます」(「心とは何か」2001年
弓立社

これが吉本の精神病理解の当時の到達点だったと思います。「先生がた」というのを
森山公夫たち精神科医精神病理学者として、「ぼくら」というのを吉本たち文学の
人間と置き換えればいいんだと思います。ちなみに昔から吉本は「ぼく」とか「わた
し」と書くところで「ぼくら」とか「わたしたち」とか複数で書きます。なんでだか
よくわかりませんが、吉本の昔からのこだわりですね。

ここで重要なことが言われています。吉本は躁うつ病を内臓器官の動きとそれにまつ
わる神経の問題に関連づけ、精神分裂病を感覚器官にまつわる神経の病気と関連づけ
ているわけです。これは三木成夫に出会って以降の吉本の思考の発展だと考えられま
す。

これは心というものが根源的に内臓系の感覚と外壁系の感覚器官の感覚の織物として
できているという心自体の吉本の把握からきているわけです。そういう意味では吉本
も「汎精神疾患論」といえると思います。精神病や精神疾患のさまざまな分類を精神
病理学者や精神科医はおこなうが、それよりも根源的なところで精神の病気を定義す
ることは可能ではないかということです。

するとこの吉本の精神病の根源的な把握と、森山の「汎精神疾患論」として提起され
た吉本の幻想論を根底にした3大精神病の関連性という論議はどうかみあうか、とい
う問題が生じます。

これはどちらが正しいか、という問題にはならないと私は考えます。おそらくそこに
は線が引かれています。その線について吉本自身が先ほどの引用文で述べています。
「ぼくらのできる範囲はそこまでで、これ以上踏み込んでいくと精神病自体の問題や
精神異常自体の問題になる。それは精神病理学精神科医の問題だ」という意味のこ
とを言っています。

吉本は森山の「統合失調症」(ちくま新書)やその他の著作で提起した「汎精神疾患
論」を最大限に評価していると思います。つまり線の向こう側の「先生がたの問題」
の追求としては、これは最大限の評価に値する、「やったな」という業績だと考えて
いるということです。しかしそれよりも根源にも問題があるんじゃないでしょうか、
というのが吉本の線のこちら側からの言い分ではないかと私は考えます。

ということは吉本と森山の相互の思想が十分の意味をもっているとすれば、この両者
の対談は精神病の総合的な把握という展望を拓くものになるはずです。しかしたぶ
ん、森山は吉本の提起した部分について十分に対応する準備がまだなく、吉本は精神
病の専門家の領域には踏み込まないという立場をもっていたと思います。だからこの
対談はお互いがすごい力量をもった同士でありながら、けんけんがくがくの対談とい
うふうにはならないで、吉本は森山に教わり、森山は吉本に学ぶというような互いの
講義のような対談になったのだと思います。もちろんそれでも十分な価値はある対談
です。吉本はすでに亡くなってしまいましたが、森山公夫には吉本の心の根源的な把
握という思想を取り入れたより凄みのある「汎精神疾患論」の展開を切に期待したい
と思います。この人はたいした人ですよ。

ところで吉本と森山のそれぞれの追求の関連というのを、もう少しおっさんにもわか
るように平べったく解説できないかと思ってやってみます。森山の精神病の把握は健
常者の世界の普遍性を土台にしています。誰にでも当てはまる心のあり方から、病気
の人のあり方を地続きで説明していきます。精神分裂病統合失調症)であれば、そ
れは誰でも悩むことがありうる集団のなかの自己のあり方が土台になります。集団に
迫害されるという想いや苦しみは誰にでもありうるものですが、それが病的になって
いくと統合失調症に至るということです。それは吉本の共同幻想という幻想論の領域
に関わる問題となります。同様に躁うつ病は自己幻想に、てんかん・解離は対幻想に
関連づけられるわけです。

統合失調症でいえば、だれもが集団のなかで悩むことがありえます。しかし誰もが統
合失調症になるわけではありません。集団のなかで悩む、つまり言葉を吉本の概念に
近づければ共同幻想にこだわる状態から、統合失調症に突き進む道とそこから引き返
す道の分かれ目には「柵」があると考えると考えやすいし、吉本もその「柵」とか
「壁」という表現をしています。目に見えない「柵」あるいは「壁」があって、その
高い低いが人によって違いがあるのだと。その「柵」の高低を決めるのは、胎児期乳
児期の母親との関係、もっと根本的には母親と父親の性的関係が影響する母子の関係
だと吉本は述べています。

森山はなぜその「柵」ができるのか。つまり精神病になる人と、そこから戻る人はな
ぜ違うのかについて考えていないわけではありませんが、決定的なことはまだ言えて
いないと思います。吉本は言ってしまっているわけです。その「柵」を越えるという
ことのなかに、内臓系と感覚系にわかれる心の根源的なあり方の問題が関わります。
その「柵」が低く、それを越えてしまう人がいるということのなかに「そこらへんの
ところからたくさんの問題が生じてくる」と吉本が書いたことが該当するんだと私は
考えます。これがおっさん流の平べったい理解です。

強い剣豪同士が切りあわず、それぞれの剣筋を「ほぉ〜」と感嘆して受け止めるよう
な「異形の精神現象」の対談ですが、以上のようなことを踏まえて要点を解説してい
きたいと思います。次回ですね。