僕は次の精神の段階において僕を待つものが疾風怒濤であることを予感する。僕はそれを自らの精神によって、同時に肉体によつて行ふだらう。(断想Ⅳ)

この初期ノートを書いている時期の吉本は、いわば「ひきこもり」の時期だったといえましょう。敗戦の衝撃を受け止め、新しく思想の構えを立て直すためにうつうつとして考えつづけている、外から見たらひきこもっていた時期ではないかと思います。吉本に言わせれば「ひきこもり」と言われている時期は重要です。それは自分自身との対話をしている時期だからでしょう。活動的でなくても、社交的でなくても、前向きでなくても、リア充でなくても、おたくっぽくても、友だち100人できなくても、自分自身との対話を深めてなにかをつかむことが重要だということです。
そしてその自分自身との対話こそが「関係づけ」と「了解」とに心的現象を本質区分したときの「了解」を深めるのだと思います。「関係づけ」の豊かさをある時期犠牲にしても、深められた「了解」が行く道を見つけさせます。それが孤立無援の道であるとしてもです。
そしてその「了解」が時代や社会と強烈に関わるならば、いつかは時代や社会と激突することが予想されます。それが「疾風怒濤」の段階だということでしょう。実際、60年安保闘争にいたる過程で、吉本は文筆業者として文壇、論壇に新人として登場し、「文学者の戦争責任論」を書いて、対立、論争の渦のなかに入っていきます。そして安保闘争では一市民という立場で「精神によって同時に肉体によって」政治闘争に参加していきました。
この過程は詩作としては「固有時のためのノート」と「転位のための十篇」という詩集にまとめられています。「固有時」が「ひきこもり」で、「転位」が「疾風怒濤」です。とはいえ、これは書いた時期が「固有時」の詩編が先で「転位」の詩編が後だということではないようです。しかし内面の過程としての「了解」の順序としてはそう考えた方が考えやすいですね。
そんなところで吉本の精神分裂病あるいは統合失調症の捉え方の解説に移らせていただきます。
どうとっかかったらいいか迷ったので、とりあえず森山公夫との対談本「異形の心的現象」(2003批評社)を再読してみました。森山公夫という人は精神科医です。今は院長を変わったようですけど陽和病院という精神病院の院長をやっていました。森山公夫は東大闘争や精神科医療の改革闘争などの政治闘争をやった人です。その過程で吉本隆明の思想に非常に影響を受けています。また吉本も森山公夫を高く評価しているという関係です。
それでですね、「異形の心的現象」の対談を読み直したら森山公夫が「統合失調症」という本のなかで、それまでの分裂病概念を根底から作り直すようなことを書いていて、それを吉本がたいへん高く評価していることが分かりました。前に読んだときは読み流しちゃったんで覚えていなかったんですが、やっぱ読むといってもモチーフがあって読むのと、ただ読むのとは違うんですね。たくさん読んだなんて、それだけじゃ自慢にもならないということです。
私には森山公夫の学説を評価する力はありませんが、吉本が絶賛していることを信用して、森山公夫の統合失調症概念をしばらく解説してみたいと思います。そうしないと吉本の対談中の発言の意味もたどれないからです。ありがたいことに森山自身が自分の統合失調症概念を簡潔にまとめて対談のなかで発言しています。
なお統合失調症といっても精神分裂病といっても同じ精神病を指しているわけですが、なんで「統合失調症と」いう新しい呼び名を作ったかということを、この呼び名を変えた日本精神病学会の一員である森山自身が説明しています。それは「精神分裂病」という呼び名は「もう治らない病気だ」とか「一生荒廃にいたる病いだ」というイメージがこびりついている。しかし現在ではかなり良く治るという方向に逆転している。だからこびりついた嫌なイメージ、家族に伝えると絶望させるようなイメージをぬぐいとるために統合失調症という呼び名に変えたということだそうです。私のような部外者からすると、呼び名だけ変えたってしかたがないとも思いますし、精神分裂病なら分裂病と略せるけど統合失調症は略しにくいからめんどくさいというような感想になります。だからこの解説では統合失調症をときどき分裂病と書くかもしれませんが、そのへんはテキトーだなと思ってください。
さて森山公夫の統合失調症概念は「異形の心的現象」のなかで森山自身が簡潔に述べています。ただそのまえに重要なので解説しておきたいのですが、森山の「統合失調症」という著作を読むと、統合失調症だけではなく、すべての精神病についての普遍的な理論を森山が目指しているのがわかります。そもそも「統合失調症」とか「躁鬱病」だとか「てんかん」とかと精神病あるいは精神疾患は分類されるのが通常ですが、この分類はほんとうに絶対的なものなのか、ということです。森山はここから疑う問題意識をもってスタートしています。結論からいえば、すべての精神病、精神疾患は一つのものだと認識できると森山は考えたということです。躁うつ病統合失調症、それにてんかんを加えて3大精神病というようですが、これらの精神病は根底は同じだと森山はみなしているということです。なにが同じかということを森山自身の文章で解説します。
 すべての精神疾患は、精神的危機のきわみ、孤立という人間的苦悩の極北で、社会的疎外とその身体化である生のリズム障害との悪循環が生ずることに始まります。そこには連続的な飛躍があり、共同性(自明性)のゆらぎが構造化されます。その悪循環が進行することで神経症状態から精神病状態へ、そしてさらに夢幻様状態への道行きが示されることになります。一方この悪循環では、気分失調・了解の失調・欲動の失調が同時に生じますが、個人的資質や発病状況のあり方により、そのいずれが前景化するかで、病気のタイプが異なってきます。その意味で精神疾患とは一つで、型の違いがあるだけです。この立場をわたしは「汎精神疾患論」と呼びます。
            (森山公夫「統合失調症」第三章「汎精神疾患論の提起」より)
ここには「その概念はなんですか」と質問したいさまざまな概念が書かれています。「共同性のゆらぎ」ってなんですか。「夢幻様状態」ってなんですか、というようにです。しかしこれ以上ほじくるのはちょっと置いておきます。いろいろ棚に上げておかないとひととおりの把握ってものができないからです。
また「汎精神疾患論」というものは森山公夫が創始したわけではないそうです。「汎精神疾患論」の経緯というものもちょっと置いておいて、森山の統合失調症概念に戻ります。
精神疾患というのは本当はひとつのもので、タイプが違うだけだという問題ではないだろうか、という根底的な問題意識をもって森山は統合失調症概念も根底から考え直そうとしています。その出発点として統合失調症と呼ばれている病態、つまり精神病の外にあらわれる症状のなかから、普遍的でかつ特異性をもつものと思われる病態を抽出したということです。それが当初は「迫害妄想」でした。
「迫害妄想」というのは「ある組織に自分は狙われている」という妄想です。この組織というのは妄想としてヤクザ組織だったり新左翼の組織だったり秘密結社みたいな組織だったりするわけですが、森山はこの「組織」というのはその患者にとっての直接的社会の象徴である、と考えたそうです。またいろいろ質問したいことが生じますがどんどん棚にあげて進みます。森山によれば「迫害妄想」というのは、その患者が社会から阻害され、迫害されていることの表現だということになります。本質として「社会との関係」だ、ということです。
ところで「迫害妄想」はその裏返しとして「支配妄想」という「誇大妄想」をもっていると森山は考えます。「支配妄想」とは「ある組織を自分は支配している」という妄想です。しかし本来「誇大妄想」というのは「躁病」の妄想とされていたので、同じようなものですが区別のために統合失調症の誇大妄想を「支配妄想」と森山が名づけたということです。すると「迫害妄想」と「支配妄想」は裏表の関係になります。躁鬱のようにセットであるわけです。そこで「迫害妄想」と「支配妄想」を複合した概念として「関係妄想」という概念を森山は作っています。(なお「異形の心的現象」では「関連妄想」という用語になっていますが、森山の「統合失調症」では「関係妄想」と記されているのでこっちにしました)
なにが重要かといいますと、この「関係妄想」(「迫害妄想」と「支配妄想」)こそが「統合失調症」の本態であると森山が断言していることです。森山は精神科医であり精神病の学者としてのすべてを賭けて、この考察を提出していると思います。吉本が評価しているのも、この森山の姿勢と成果なのだと私は思います。
「関係妄想」はそれまでの学説史では「統合失調症のひとつの重要な症状だ」という位置づけだったそうです。それをコロンブスの卵のように概念を転倒させて「関係妄想こそが統合失調症の本態である」とみなしたということです。
この転倒とともに森山がおこなったのは、「関係妄想」の病態の展開過程を確定することでした。森山は統合失調症のタイプをさらに迫害妄想型・支配妄想型・迫害支配妄想型の三型にわけ、いちばん典型的な「迫害妄想型」についてこの病態の展開・深化の過程を追いました。
ここからが面白いわけです。わたしのような素人にはですが。これは「統合失調症」の「迫害妄想」の病態の進行過程であると同時に、森山の考える汎精神疾患の病態進行論ともいえる考え方が貫かれていると私は考えます。根底にそういう汎精神疾患論の構想があって、その普遍性と特異性の表現として「迫害妄想」の病態進行が描かれていると思うんですよ。
森山によれば「迫害妄想」の第一段階は、「前関係妄想段階」ともいうべき「対人恐怖段階」として始まります。これは「神経症段階」ということもでき、患者はまだ一般人と現実を半分共有していると森山は述べています。そしてこの「対人恐怖段階」も細分化すれば①赤面恐怖②表情恐怖③視線恐怖というふうに深化していくということです。
第二段階は「妄想・幻覚段階」です。ここではすでに一般人からの弧絶生じている。これもはじめは①妄想だけの段階②幻覚(幻声)が加わり③「させられ体験」へ移行する。ハイなんでしょう、質問ですか?とりあえず棚に上げましょう。
そして第三段階が「夢幻様段階」です。ここでは弧絶はきわまり、体験の舞台はいっきに全宇宙に広がって、これも①錯乱②もうろう③せん妄というように進行すると森山は述べています。
以上が森山公夫自身が述べる「統合失調症」概念のおおづかみな概要です。
森山はこの統合失調症の全過程は、ここに述べた順番ですべての患者が進むというわけではないと書いています。赤面恐怖に終始とどまるひともいれば、視線恐怖だけが主たる訴えの中心だという人もいるというようにです。ある人は妄想段階にずっといつづけるし、ある人は「させられ体験」の世界にいつづける。さらにある人は「夢幻様体験」にいたる、というように。
ではなぜ森山はこの進行過程を示したかというと、今まで並列的に、あれもあればこれもあるというように症状の列記として示されていただけのものに、自分の論理で本質論としての因果関係を確定したということだと思います。
もうひとつ森山が述べていることは、こうした統合失調症の病態の深化をもたらす要因を煮詰めると、究極的には「孤立の進行」と同時に「生リズム(睡眠・覚醒リズム)の崩壊」という二つの要因になるということです。
森山によれば現在の精神医学界の統合失調症への見解の主流は、「脳内伝達物質の異常によりもたらされた病気」という脳生理的なものであって森山の見解はその中では異端であり受け入れられるかどうかわからないもんだということです。
ここまでは森山公夫の統合失調症概念の解説ですが、もういちど汎精神疾患論に戻って、森山の論の根底をみてみます。森山公夫は精神病は一つのもので躁うつ病統合失調症はその一つの精神病のタイプにすぎないという汎精神疾患論の土台を吉本の幻想論に置いています。
●「共同幻想」にこだわるタイプ・・・統合失調症(迫害妄想症)・対人恐怖(強迫神経症
●「対幻想」にこだわるタイプ・・・てんかん・ヒステリー(多重人格))
●「個的幻想」にこだわるタイプ・・・躁うつ病・不安神経症パニック障害
このように森山はまとめています。実に面白い(BY福山雅治