文字にうつされた思想……そこにはもう生理はなくなつてゐる。(風の章)

生理がないというのは、なまなましい情動が文字にしてしまうと失われるというようなことだと思います。それでも同時代の読者が読む場合は、同じ時代の空気や事件や風俗を共有していますから文字の背後のなまなましい内面も推測がしやすい面があります。これが古典となるともう共有できる時代がないので、文字面からしかうけとれない。そこで読者が勝手に解釈するという各人各様の古典解釈がまかりとおることになります。たとえば吉本が書いていたことでは、源氏物語のような世界を豪華絢爛な世界だと思いがちでそうみなす評論が多いけれど、実際の当時の宮廷の生活というのはそんな豪華なものではないし、当時の民衆は土人のような暮らしをしていたはずだから、そんなきらびやかなイメージを持つと古典解釈を間違えるんだということです。
そんななかで吉本が古典をなまなましくよみがえらせたと感じたのは小林秀雄の古典論でした。西行とか実朝といった古典歌人小林秀雄が描くと、なまなましい内面をもった人物として読者に感じられる。それが本当の西行や実朝の人物像なのかということよりも、とにかくなまなましくよみがえらせる方法を小林が体得しているということに驚いたと吉本は述べていたと思います。それは古典の知識からくるものではなく、小林秀雄が自らの自意識をとことん掘り返したところからくる人間理解の深さによるということでしょう。
そんなところでいつも通り吉本の「うつ」理解の解説に移らせていただきます。吉本の「うつ」理解の核心である表現的自己と内的意識の関係の異常というものを、もっとわかりやすいイメージでとらえるために吉本の著作のなかでそういう関係を具体的に述べた文章がなかったかとずいぶん考えたんですが、思い出せないんですね。あまりそういう文章というのはないんじゃないかと思います。しかし直接に「うつ」理解の具体化として書いているわけではないけれど、そこに関連するとはいえるという文章はいろいろあります。むしろそういう人間理解を積み重ねてきて、それを理論化したら表現的自己と内的意識という理解になったということかもしれません。
たとえば吉本に「ひきこもれ」という著作があります。これは誤解されやすいですが、ひきこもって病的になってもいいんだということを言っているわけではありません。原発の問題でもなんでもそうですが、本質論として「ひきこもり」という現象を考えているわけです。吉本はひきこもるということを人間の精神的な本質とみなしています。人間の生み出す言語を意味と価値という両極をもつものとみなすと、「ひきこもる」ということは言語の価値を生み出す過程だということです。そして価値は三木成夫の思想とつなげて考えると、内臓から湧いてくるものを言語に汲み入れたものです。それは言語の意味が作り出すコミュニケーションの作用とは別個のもので、孤独に自分をみつめることからしか汲みとることのできないものだということになります。だとすれば、ひきこもりという時期が人生のなかにあるとか、ひきこもりがちな資質をもった人がいるとかということには人間の精神の普遍性があるわけで、なにがなんでもコミュニケーションの場に「ひき出す」ことが正しいというのは間違った考えだということです。それでひきこもりが病的な領域にまで入ってしまったら、それは精神科医とかカウンセラーといった専門家に相談するべきことであって、専門家でもない人たちが「ひき出そう」として関わるのはよけいなおせっかいだという見解です。
また別の文章をあげると、吉本はどこかで精神を病んで書けなくなった詩人が回復してまた作品を発表したということをあげて、その病後の作品には言語の価値としてみると空虚というか浅いというかそういうところがあって、まだ十分に回復したとはいえないんじゃないかということを書いていました。
こういう吉本の考察は「うつ」理解にひきよせて考えると、言語の価値というものが表現的自己のなかで途絶えていたり、あるいは異常な汲みとりかたをしていたりということになるんじゃないかと私は考えます。いわばまっとうにひきこもることのできない表現的自己の問題なんじゃないかということです。沈黙のもつ内臓のことばを失ってしまった表現的自己ということのような気がします。
吉本の「うつ」理解をたどると、「うつ」のスタートは「順序」であり、そして「完備」への固執に移っていくわけです。「順序」はその人の表現的自己である言語が、その文章の語順まで一字一句の変更もできないというほどその人を縛りつける状態です。「完備」はその絶対命令のようになってしまった「順序」を現実のなかで行動に移さざるをえない状態です。そしてそれは必ず挫折する。けして思うようにいかないし、しかし思うようにいかなかったという結果をふたたび表現的自己と内的意識のやりとりとして再構築することはできないのだと思います。絶対命令だったものを、もっと現実を汲み取ったものに変更することができない。すると絶対命令とそれを実現できないということのストレスだけがその人を押しつぶすということになるでしょう。そのストレスはやがてスタートにある「順序」という「了解の時間性」を停滞させ解体させていくことになります。まず「了解の時間性」が崩れて、それが「関係づけの空間性」の歪みに移っていくのだと私には思えます。まず「了解」がおかしくなって、そして「関係づけ」がおかしくなると思うんです。
このあたりのことをオッサン的に自分にわかりやすく考えてみます。「了解の時間性」がおかしくなる、ということは時間的な構成がおかしくなっていくことだと思います。了解するということは「分かる」ということだと考えますと、なにかを了解する(分かる)ということには、その現象の因果関係がたどれるということになります。たとえば目の前にある灰皿は、それをいつ買ってきて、なんで気に入ったとか、汚れたから今朝洗ったとか、そういう時間的な過去から現在、未来へとたどれる意識があって「了解」する、分かるということになるでしょう。これがおかしくなっちゃうということは、たとえば疲れ果てたときとか、かなり酔っぱらったときとかだといつもは分かるものが分からなくなってしまうということがあります。なんかただぼーっとしちゃっているわけですね。あるいは非常におびえてパニクっているような状態だとちょっとした影なんかの動きにビクッとしてしまう。こうした状態だと「うつ」病ではなくても、了解の時間性の異常に似たものを体験していると思います。こうした状態ではものごとをとらえる時間的な意識、過去から未来への時間的な構成がおかしくなっちゃってるわけです。
そういう時にはものごとを考えて分かるということができないから、過去からたどるということができないために、すべてが現在の空間に意識が集中してしまいます。するとお化け屋敷をおびえて歩いている人のように、現在の空間から届いてくる知覚が、物音だの影だの匂いなんかが過剰に関係づけられる、つまり幻聴や幻視に近い状態になります。「うつ」という状態はそういう一時的な異常が常態化したものだと考えると、自分がときとしておちいる状態とつながりがつけられると思います。常態化してしまうということは、この世界が出口のないお化け屋敷になることであり、年中疲れ果ててぼーっとしているようなことだと喩えることもできます。それは知覚に振り回されている状態、知覚と「腹」つまり内臓感覚のあいだに了解という構造がおかしくなって、内臓感覚からわいてくるものと知覚とが恣意的に結びついてありえないものやありえないことを現実だと思ってしまうお化け屋敷の世界です。
これを他人とのかかわりということから考えると、他者というものが家族であれ友人であれ他人であれ、影のようになってしまうでしょう。自分が自分とつながっていないのだから、他者がその他者自身とつながっていることがわかるわけがないわけです。すると他者はただ他者からの知覚や他者の発する言葉としてだけ存在することになると思います。他者の言葉も、その言葉から他者の内的意識、いわばハートとかソウルとか心とかいうものを汲みとることはできないので、言葉の表面的で断片的な意味がそれだけが聞き取れるということになると思います。どういうつもりで、どういう想いで、どういう脈絡で、どういう思想をもって他者が言葉を使ったのかは了解できないために、他者の言葉はただ自分に衝撃を与えた部分だけを受け取るということになるんじゃないでしょうか。それは不毛な他者との会話を生むしかないわけです。いわば他者もお化け屋敷のお化けとなって、自分を表面的に振り回すだけの存在になってしまいます。
こんなところがオッサン的な理解です。さてこうした了解性の異常が関係づけの異常につながったものがさらに進むと、「了解の時間性」と「関係づけの空間性」が逆立されると吉本は述べています。この了解と関係づけの、あるいは時間性と空間性の逆立は「夢」の特徴だというのが吉本の理論です。したがってこの逆立の状態にある「うつ」の人は、眼が醒めていても夢のなかにある状態、いいかえれば夢遊状態にあるということになります。逆立するとはどういうことかと考えますと、眠っている状態では知覚は途切れるわけです。空間からの知覚が届かない眠りのなかにいます。そこでは知覚が空間性を関係づけるということができません。
では夢のなかに出てくる形象はどこからやってくるかといえば、それは「了解の時間性」からやってくるしかないことになります。だから夢のなかの形象は了解の時間性が空間性としての形象に「変容」したものだというのが吉本の夢の理解なんだと思います。これ以上の吉本の夢の理論は書きだすと大変なので置いておきます。すると了解と関係づけの逆立した「うつ」の人は眼が醒めているにもかかわらず、夢を見ているのと同じ形象を見ることがありえます。つまりそこにありえないものを見ることがありえます。たしかに見たんだからそれは現実だと「うつ」の人は主張する。しかしそれは現実の空間の知覚からやってきたものではなく、「うつ」の人の了解の時間性が変容して形象となったもの、夢をみているのと同じだということです。
この状態は「表現的自己」の解体ということになります。しかし吉本は「表現的自己」の解体ということは、表現的自己がこわれて消えてしまうということとは違うと述べています。ただ表現的自己を形成している了解と関係づけという要素がつながりを失って浮遊し、恣意的に結びついてしまう状態にあるということになります。吉本は「じぶんはたえず何者かに追跡されている」とか「盗聴されている」とか「ここに書かれていることはじぶんのことを書いているのだ」といった被害や被盗の妄想について述べています。そんな「何者か」はどこにも存在しないのに、なぜそのような確信をもってしまうのか。この心的な状態は本質的にのみいえば、「空間的な体験が<了解>し、時間的な体験が<関係>づけられるという矛盾への志向性である」と吉本は述べます。現実の世界で縁もゆかりもない人がたまたま自分のほうを向いていたとします。「正常」な心的状態であれば、それはたまたまだよなということを「了解」して終わりです。誰かがこちらを見ていた、という空間的な知覚は、たまたま見ていただけだろうという了解と結びつき、そのたまたま見ていた人への関係づけはそこで終わります。しかし「異常」な状態では、「こちらを見ていた人がいた」から了解するというのではなく、不安とか恐怖とか誰かが見つめているのではないかという危惧が知覚を呼び込むんだと思います。時間的な因果関係をたどりものごとを理解する了解の時間性は壊れた時計のように停滞しているわけだから、内的意識にある不安感とかが構造とか媒介とかを失って空間にある対象に結びつくということです。こういうことを「時間的な体験が<関係>づけられる」と言っていると私は思います。そして「空間的な体験が<了解>するというのは、ただそこにあるとか、たまたまこっちを見ていたという空間的な知覚の体験が、そのまま内的意識の不安などに結びつくことをいっているのだと思います。おびえてお化け屋敷や暗闇のなかを歩いているときのように、こころのなかの恐怖はすぐに空間のなかのなにかの近くに関係づけられるし、また知覚に飛び込んできた物音や映像はすぐに恐怖にみちた何者かだと了解されるという感じでしょう。
こうした了解と関係づけの逆立という夢遊状態の常態化ということは、「うつ」のどんづまりのあり方だと吉本はみなしていると思います。たとえば自分の頭のなかで、本を読んでいると「その頁をめくれ」という声が聴こえ、服を着ようとすると「手を通せ」というような声が聴こえるというような幻聴の症状について吉本は、その命令してくる何者かは自分の表現的自己であるにもかかわらず、それが自己の外に表出されたものと述べています。つまり命令してくる何者かはやっぱり自分が作り出した者です。そして特徴的なのはそれが命令してくるということです。命令される自分は罰せられたがっている自分です。その願望が内的意識の深層にあるならば、その深層から「せよ」という命令の言葉が作られるでしょう。しかしそれが「正常」な心的状態なら深層の願望と表現的な自己の関係が意識されるわけですが、「異常」な状態では内的意識の深層と表現的な自己の明瞭な区分はついていない。それは夢遊状態にあるからです。だから誰かに見られているという不安が、見ている人物を作りだすように、罰されたい願望が「せよ」と命じる言葉そのものを自分の外に作りだすという感じでしょう。
するとこの命令するもの、罰するもの、追跡してくるもの、監視するものとはすべて内的意識の深層にあるなんかなんだということになりましょう。それは要するに母親との関係なんだと思いますが、それがどのようにして形成されるかは胎児、乳幼児と母親との関係すなわち「母型論」のテーマにつながります。