常に方法的な基礎のうへに建築された体系は、巨大な圧力を呈するもので、絶えずおびやかされてゐる架空な設計家は、直ちに模倣家と変ずるかさもなければ、自らの場所を逃れ出すであらう。だが方法的な基礎のうへに建築された体系は、若しそれが心理的な充填物を充填しない限り、激動に対して鞏固ではないものだ。即ち多少の可鍛性がないものは脆いと言はなくてはならない。(方法的制覇)

「常に方法的な基礎の基礎のうえに建築された体系」というのは、たとえばマルクスの思想体系のようなことをいうのでしょう。その思想体系は全歴史、全世界をおおって、その方法的原理は人間と自然の根源的な関係をめぐって作り上げられています。だから圧倒的な影響力をもって個人をとらえます。この世界や歴史を考えようとするかぎり、マルクスの思想を無視することはできないので、知的な過程に入ってマルクスの思想にそれなりに深刻に出会った奴は、マルクスの思想にかぶれてマルクス主義者になるか、こんな思想にかぶれたら自分の小宇宙を失うという怖さから美の世界とか文化の世界とか、要するに世界認識というものを放棄した世界に逃げ込むだろうと言っているのだと思います。
次の「心理的な充填物を充填する」というのはあいまいで、どんなふうに心理的なものを思想体系に充填するのかわかりません。しかし言いたいことはわかるような気がするので、吉本はマルクス主義者が個としての世界や個としての人生を失って、宗教の信者のように精神が同一化していくのが不愉快なんだと思います。しかし吉本には世界認識を獲得したいという熱望があるので、マルクスの思想を避けて通ることはできません。だからマルクスの思想と、それと逆立するような自分が打ち込んだ文学というもの、そして自分のまわりの庶民的世界をどう関係づけたらいいのか深刻に考え始めるのだと思います。それが吉本の世界認識と文学思想を独自のものとしていくわけです。
そんなところで吉本の「うつ」理解の解説に移らせていただきます。これはあくまで私の理解なんで、吉本の理解として間違っていたら申し訳ありません。吉本をこんなふうに誤解するバカもいるんだなと思ってください。私自身が間違っていると気づいたら率直に訂正します。さて、「うつ」にも進行の過程があって、初期のうつから末期のうつまでが考えられます。そしてそもそも「うつ」が発生する根源はどこにあるかといえば、やっぱり無意識の奥にあるんだろうと私は思います。解説のネタ本である吉本の「心的現象論」の「<うつ>という<関係>、」「<うつ>関係の拡張」の用語でいえば「内的意識」のなかにそもそもの原因が隠されてあるのだろうということです。
その「内的意識」のなかの何かが「表現的な自己」をゆがませると、私にはどうしてもそう思えます。吉本によれば「表現的な自己」のゆがみ方は、表現的自己のどこかが「順序」の固執として表れるということだと思います。つまり自分の言葉が自分で反すうしたり変更したりできない、外部からの絶対命令のようなものに硬化してしまうということです。たとえば吉本のあげた例によれば「家族に恥をかかせてはならない」という世間体を気にする農家の主婦の内的な言葉が、「順序」の固執としてその農婦を支配するわけです。固執された「順序」はそれを実現しようとする空間化である「完備」へと進むと吉本は述べています。その「順序」どおりの「完備」した現実を作りだそうと行動するわけです。「家族に恥をかかせてはならない」ために、その農婦は徹底的に常軌を逸した節約や昼夜を問わない労働をしたりしはじめる。するとそこには限界がやってきて、「完備」も「順序」も現実的に不可能だという壁にぶちあたるわけでしょう。それでも表現的な自己のなかの「順序」を反省し変更できないとすれば、持ちこたえることができないので自我が崩れてきます。
自我が崩れると言わないで、表現的自己が崩れると考えると、これを「了解」と「関係」とにわけてみれば、まず「了解」が崩れる、あるいは停滞するということから始まるのだと私には思えます。「了解」が停滞し、止まったりのろのろとしか働かない状態になれば、すなわち時間意識が停滞することになるでしょう。「了解」は「時間性」ですから。時間意識はものごとの因果を理解し、この世界や身の回りの環境を理解する土台です。これが停滞すれば表現的自己にとっては、ただ目の前の現在の空間だけが過剰にあらわれるということになってしまうと思います。「了解」が停滞しているから、目の前の現在の空間にものごとが殺到してきて、自分は受け身でわけのわからない空間に宙づりにされたように存在する感じです。突然に大災害に見舞われたら、誰でもこういう状態に一時的に陥ると類推できます。わかることができないのに、次々に理解を絶したものごとが現在に殺到する状態です。
そこでなんとか事態を考えようとすると、現在の空間におこる事象と事象を関係づけることを「了解」の代わりにするようになると吉本は書いています。時間意識が停滞するといっても過去の記憶や未来のイメージが消えてしまうのではないと思います。ただ過去から現在、現在から未来へという現在を構成する時間意識として過去や未来があるのではなく、過去も未来もすべてのっぺりとした現在のなかに「意味」を失ってただよっている。ちょうど夢でもう死んでしまった人や遠い昔に別れた人といっしょにいたりすることがありますが、あんな感じだと思います。時間というの海だとすると、海の中でそれぞれの居場所をもって存在していた過去や未来が、ぜんぶ現在という海面に浮かび上がってぷかぷか浮遊しているような感じ。それが「了解」が停滞した感覚で、そのぷかぷか浮かんだ現実のことがらや過去や未来のイメージを、短絡的に関係づけることを、停滞した「了解」の穴埋めに行ってしまうということだと思います。
吉本の述べた例だと、「うつ」病者の症例として「隣人が庭で木の葉を燃やしている」という現在のことがらが、「あれは私を毒殺しようとしているのだ」という「了解」になってしまうという患者のことをあげています。ほんとうはそんな事実はないわけですが、そんな事実はないという判断に達するための「隣人が木の葉を燃やしている」と「自分を毒殺しようとしている」という二つのことがらの個々の「了解」ができない。個々のことがらが固有もつ時間的な因果を「意味」としてつかむことができない。だから「木の葉を燃やす」と「毒殺しようとしている」というぷかぷか現在に浮かんだふたつのことがらを単に「関係づける」ことで「了解」の代わりにするわけです。
「うつ」状態がこう進行してしまえば、誰かが自分を見たということが、あれは自分の秘密を知っていて嘲笑っているのだとか、タクシーの運転手が会社と無線のやり取りをしていれば、あれは自分の居場所を自分をつけねらっている「組織」に通報しているのだとか、現在の空間にぷかぷか浮かんだ知覚や想念を勝手に「関係づけ」、短絡し、妄想し、ということを繰り返していきます。そしてその状態も現実に適合していないゆえに、やがては現実という壁にぶちあたって解体していくと考えられます。
さてそうして解体していくとどうなるか、というのが難しくてわかりにくいんですが、それまで表現的自己というものを介して向き合っていた外部の現実が、直接に内的意識とやり取りし始めるというようなことじゃないかと私は思います。
うまい喩えじゃないかもしれないけど比喩を言ってみます。私たちの都市生活は自然を加工して商品としたものに囲まれて暮らしています。衣食住という原型は原始人と同じだけれども、だからといって原生的な自然のなかで暮らすのではなく、加工し人間化し文明化したものに囲まれて暮らしているわけです。この文明化した都会生活を「表現的自己」の比喩とすると、むきだしの原生的自然は「内的意識」の比喩です。そして近未来SFによくあるように、文明が崩壊し都市が崩れてしまうと、廃墟と化した都市に植物が生い茂り、けものが歩き回るようになっていきます。この比喩のように「内的意識」が崩壊した「表現的自己」のなかに生い茂り、うろつきまわりだす状態が出現するんじゃないかと私は思います。
この状態は「夢」の状態だと吉本は述べています。眠って見る「夢」は吉本によれば知覚が閉ざされた状態で、了解の時間性と関係の空間性が逆立した表現的な自己だと述べています。ここには私にはよくわからないことがいろいろあるのですが、私にわかるような気がするのは、「夢」の状態というものは本来「時間性」で、空間化していないものが空間化する、だから逆立なんだということです。わからないことは置いておいて、分かったつもりの部分で考えます。こうして空間化したものは、現実から知覚によって空間化されたものとはまったく違っています。形なき「了解」が空間にあらわれたものです。現実にはありえないものが、了解の暗闇から形となって浮き上がってきます。それが「夢」にあらわれる空間的な形態の本質だということだと思います。また文学であらわれるイメージの本質でもあるのだと思います。
現実に目覚めていながら「夢」のなかにいるような状態は「入眠状態」あるいは白昼夢を見ているような状態です。廃墟のように解体した表現的自己は、廃墟に生い茂る原生的自然のような内的意識にまみれ、同一化していきます。そして内的意識の了解の奥から空間性に逆立してなにものかのかたちが浮上してきます。それは現実である外部には存在しないものですが、当人にとっては異様にリアルなものであると思います。私の友人はうつ状態の最悪の時に、歩いていた道の先に溶岩がぼこぼこと湧いている火口が視えたと言っていました。それも時間性が空間化した白昼夢であると考えられます。
ところでこの状態は「うつ」状態の果てとも考えることができますが、逆に考えれば「うつ」のそもそもの根源である内的意識の有り様から、表現的自己が分離する意識の初源に退行した状態だとも考えられるのではないでしょうか。それは生育史とすれば乳胎児期にあたります。だとすれば「うつ」状態の進行とみなされているものは、適合できない現実という壁にぶち当たって、ひきかえし「うつ」状態のそもそもの初源まで戻っていく過程なのかもしれないと考えることができると思います。
ここまででとりあえず吉本の「うつ」理解の解説は終りにします。とにかくやってみましたが、わからないことが多く中途半端な解説で申し訳ないと思います。解説を書きながら私は自分のなかにある「うつ」の芽のようなものに気づきました。それは若いころにはひんぱんにあって、年とともに薄れてきましたが消え去ることがないものです。それは人といっしょにいて、おしゃべりしていたり、ともに歩いていたりしてふっと心に芽生える(嫌な予感)のようなものです。自分のなかで自分のどこかが分離して、それが(嫌な予感)を訴える、そんな感じです。(嫌な予感)というのは(うまくいかなくなる)という予感のようなものです。あるいは(うそがある)という自意識のようなものです。それは深いところで心を動揺させ、おそらく私の顔を曇らせているでしょう。(嫌な予感)が的中するとは限りません。しかしそれは私の内的意識のなかから不意打ちのようにやってきます。私はこうした自分の(暗さ)と長いつきあいをもっていて、そうした(暗さ)について自分の考えを自分なりに作ってきました。もちろん吉本の著作がその大きな助けになったと思います。だからその「うつの芽」について対象的に考えることができていると思いますが、これから老いとともにボケてきたりして、これはこれ、あれはあれと分けて考えることのできる了解の時間性を失えば、どうなるかわかりません。
さてこのあとですが、次は分裂病統合失調症と名前が変わりましたがピンとこないので昔ながらの精神分裂病というものの吉本の理解を追ってみたいと思います。そのなかで「うつ」の理解が深まればそれも解説いたします。オンボロですが、ご要望があればそうする予定です。