批評家にとつて対象となりうるものは、批評家の宿命と同じ構造をもつた、しかも異つた素材からなる対象のみである。これ以外に対する場合、批評家は自分の宿命を稀薄にするか、または対象をその環境(ミリュ)と同じ程度に稀薄にするか、何れかを撰ばねばならない。(〈批評の原則についての註〉)

たとえば漱石は吉本にとって自分の宿命と同じ構造をもった作家だとみなしたと思います。しかし鴎外は吉本の宿命とは違う構造をもっていたとみなしたと思います。宿命というのは、自分の無意識の構造のことでしょう。意識して行うこととは別の次元で自分の人生を決定してしまうもの。たとえばそうしようと意図したり意識したりしていないのに、振り返ると同じパターンの恋愛とか失敗とかを繰り返している。おなじような女に惚れて、おなじような失恋を繰り返している。そういうことの奥にある自分を突き動かしているものが宿命です。
吉本は漱石については多くの文章を書いていますが、鴎外については少ない。それはやっぱり宿命が違う人のことはよくわからないからだと思います。それでも無理やり書くとすれば、自分の宿命の構造を棚にあげて論じるか、対象の作家や作品を宿命の構造の追求というところまで届かせることは断念して客観的な記述で終始させるしかない、そういうことをいっているのだと思います。
要するに吉本は批評家はなんでも批評できるわけではないといっています。しかしそれはあくまで作家に収斂する批評というものの場合だと思います。後年、吉本の批評の方法は独創的な広がりを創り出し、作家性に収斂する批評概念を超えていきます。言語の表現という原理的な立場からなされる文芸批評、社会構造から逆に照射される文芸批評、そうした拡大した批評の方法からは、この作品は批評できるがこっちはできないという選り好みは成り立たないので、あらゆる作品が批評のまな板に乗ることになります。それは吉本の拡大した批評の方法の必然が生み出すものであって、批評の対象を希薄にしたということとは違います。もっと積極的な方法的意義をもっています。そうした批評のありかたは、まだ初期ノートを書いていた時期の吉本、小林秀雄の批評概念の枠のなかにあった若き吉本には考えの及ばなかったのものだと私は考えます。
そんなところでいつものように吉本の「うつ」理解の解説に移ります。吉本の「うつ」理解は内的意識と表現的自己の関係の異常ということに「うつ」の本質をみるということです。そこから疑問はわたしにはふたつあらわれます。ひとつはではなぜ内的意識と表現的自己の関係が異常になるのかということです。もうひとつは、この「うつ」の本質はほかの精神病、なにより分裂病統合失調症)などとはどう違うのかということです。吉本の「うつ」理解が自分なりにある程度わかったところで、この疑問のほうに解説をすすめたいと思います。
あなたでも私にもあてはまることとして、自分が内的意識と表現的自己とに分けられるということがどうわかるか、ということがこの「うつ」理解の最初にあるでしょう。わたしは知的でも鋭くもないオッサン的な理解しかないわけですが、これは俺のこころと呼んでいるもやもやしたものと、言葉によってできあがっているそれなりに秩序だった「自分」という意識の違いなんだと考えています。言葉でできた「自分」はもやもやした「こころ」と交流というか交感というか、やりとりをしています。「自分」は「こころ」と食い違っていないか、裏切っていないか、ときどきそんな内省をもったりします。その言葉でできた「自分」が、つまり「表現的自己」が「こころ」である、仏教的にいえばより大きな自己、ここでいう「内的意識」との関係が異常に陥ったということを吉本の「うつ」理解だと私は考えます。
異常になった「表現的自己」は吉本の用語では「順序」と「完備」への固執に陥ります。前回解説したように、「順序」は「表現的自己」の言葉の語順(順序)へのカチンコチンの融通の利かない墨守としてあらわれます。一言一句の変更もできないような絶対命令のようなものに、自分の言葉がなってしまうことです。その絶対命令と化した自分の言葉を現実に実行しようとすれば、無理に決まっている絶対的な行動としてあらわされようとします。その現実に達成しようとする意図が「完備」への固執ということになります。つまり完備というのは挫折するしかない、自分の内部の絶対命令の実現のための行動です。
これを吉本の言語分析の根本的な方法である「時間性≒了解」と「空間性≒関係づけ」という概念であとづければ、「順序」は時間性、つまり了解の異常であり、「完備」は空間性、つまり関係づけの異常だということになります。いわばこの「順序」と「完備」とは「うつ」というもののスタート地点にあるものです。そしてこの固執はかならず挫折するものだとすれば、つまり現実というものの構造にぶちあたって、「うつ」の人のこだわりを現実化することが不可能になってしまうとすれば、このスタート地点の原型は解体してしまうことになります。
どう解体、あるいは崩壊していくかということを吉本はさまざまな「うつ」の症例を分析することで論理づけようとしています。症例は臨床的な精神科医の記録から借りていますが、それを独自な理論構成で意味づけようとしているのは吉本です。
吉本の「うつ」 の原型の解体の理論づけを大きくみてみると、吉本自身がまとめている記述があります。それは三つの態様を典型的に想定しています。
1 表現的な自己における了解の時間性の停滞のため意味構成が不可能にされる
吉本は「表現的な自己」も「内的意識」も了解の時間性と関係の空間性に分けて考えています。双方に時間性と空間性が想定されています。そして「表現的な自己」の了解の時間性が停滞するというのは、たとえば吉本は「うつ」の女性が夫の食事をしている姿をみて、夫が食べ物を取ったり、噛んだりしている姿を見ているのに(彼はひとつも動いていないように感じる)、という症例をあげています。動いているのを見ているのに、見ている知覚はあるのに、(動いていないように感じる)のは何故か。それは「表現的自己」の、この場合(夫が食事をしている)という了解の時間性が異常に陥っているから、あるいは停滞しているからだということです。しかしそれは「内的意識」が停滞しているわけではないと吉本は述べています。内的意識には確かな知覚がある、ということは内的意識の時間性や空間性はまだ異常とはいえない。ただ「表現的意識」のことろだけで異常とか停滞とかが発生しているということになります。
2 表現的な自己における関係づけの空間性が異常に強調されるために、幻視、幻聴、関係妄想などのように強い関係づけが失われないのに時間構成(表現的自己の)ができない表出をともなうもの。
この②の態様は、①が表現的自己の了解の時間性の異常をあげているのに対して、表現的自己の関係づけの空間性の異常をとりあげています。しかし、了解の時間性は正常で、関係づけの空間性だけが異常になっているということではないと思います。ここには了解性と空間性の関係についての吉本の根本的な理解があって、それを解説するべきでしょうが、それはまた長い長い解説になってしまうので、ここでは置いておきます。
吉本があげている症例では、たとえばある夫人は「うつ」病になって全世界が非現実的に見えた。幻聴となって自分のいったことが、あとから繰り返されて聞こえてきた。さらに偶然に聞いた他人の会話が、じぶんの思っていることを話題にしているようにおもえてきた。また誰もいないはずの車のなかに人がいるようにおもえたり、目にうつる対象が極彩色であらわれるような幻視があらわれたりした。これらの症状を吉本は非現実感のなかから「過剰な関係づけの世界」への移り行きがあらわれたと述べています。
吉本は、これは表現的自己における関係づけの空間性の強さが、自己の内部意識と表現的意識とのあいだの関係の強さを超えて拡大したものとかんがえられると述べています。了解の時間性が停滞しているために、関係づけされたもの、つまり見たもの聞いたことなどを(わかる)ことができない。つまり時間構成ができないわけです。どういう原因でどういう経過で、という時間構成の因果関係がわからない状態で、関係づけだけが異常に強調される。わけが(わからない)のに、見たこと聞いたことが押しつぶすようにこころにのしかかってくる。それが幻聴になったり幻覚になったりするということだと思います。こうした幻覚、幻聴、考想化声、関係妄想などの症状は分裂病統合失調症)ときわめて似ています。しかしそれは違うのだと吉本は考えています。では分裂病とは何か、ということになりますが、それも置いておきます。
3 表現的な自己における了解の時間性と関係づけの空間性とが逆立される。そのために覚醒時においても入眠時においても夢遊状態が実現される。すべての表現的な行為は無意味化することは決してないが、脈絡ある構成をもつことができない。
これが三つ目の態様です。表現的な自己の了解の時間性が停滞するということ。停滞という言い方は、過去から未来へ流れる時間を了解できないこと、現在にだけ時間意識が停滞しているという感じをあらわしているわけです。現在しかない状態です。だから現在にあらゆるものが流れ込んできます。時間が過去から未来へ流れず、現在にあふれかえる感じです。だから現在において見たり聞いたりしたことが強調されてきます。それがつまり現在の空間にあるものとの関係づけが強調されるということです。その果てにおこることが態様の③です。
「了解の時間性と関係づけの空間性が逆立する」というのは何のことか。これは解説せずにすませることはできませんが、やる以上はちゃんとやらなければなりません。今日は無理すね。
吉本は了解と関係は逆立することができると考えている。吉本の考察ではこの逆立が可能になるのは「夢」のなかです。では吉本の「夢」理解とは何かということになりましょう。それは「心的現象論序説」に述べられている考察です。その解説は今は置いておいて、とりあえずその「逆立」という態様があって、それは「夢」の特徴だから、「うつ」の人はこの態様のなかでは夢遊状態にあるのだということでガマンしといてください。
もう少し吉本の「うつ」理解の解説は残っていますので、それをやりおえたら、解説しきれなかった部分であり、また最初に書いたように湧いてくる疑問を追求するためにも、吉本の分裂病の理解へと進んでみたいと思います。分裂病は精神病のなかの精神病ですから、そこに踏み込むことは結局吉本の心的現象に対する原理的考察そのものに踏み込むことです。当然「夢」理解もそのなかに入ってきます。わたしごときにわかるかどうかわかりませんが、ただ吉本を読んだというだけでなく自分の言葉で解説できるかを試すためにやってみようと思います。