現実は膜を隔てて僕の精神に反映する。この膜は曲者だ。言はばそれは僕の精神と現実との間にある断層の象徴としてあるわけだが……。この断層は僕の生理に由因するかどうか。(断想Ⅵ)

ここで「膜」といっている概念はあいまいです。「現実」というのも「精神」というのもあいまいだと思います。「生理」というのもあいまい。それはその後の吉本の思想から逆に照らしてあいまいだと感じるわけです。ここには共同幻想、自己幻想、対幻想という「現実」を構成している幻想の区分もみられないし、表現的自己と内的意識というような精神の区分もみられない。また生理と観念の区分についての母型論につながる観念の起源の考察もみられません。それはまだ若い吉本の考察だからしかたないので、こうした考察を倦まずたゆまず続けていって生涯を終わった人物のすごさというものを感じればいいだろうと思います。
この文章の鋭いところは現実と自分を隔てる「膜」というものに気づいていることだと思います。それがなにかはまだよくわからないとしても。その「膜」は精神障害の症候のひとつだと考えるとしても、では精神障害というものはどのように人間の精神と生理の起源に関連付けることができるかというように考え続ける。そういうどこまでも与えられている流通している概念と、自分の内的意識の異和感に論理を与えたいと考え続ける姿が吉本なんだと思います。それはいいかえれば「文学」的である資質に、徹底した論理化あるいは普遍化という「科学」の資質が重ね合った姿ともいえます。
そんなところで若い吉本から成熟した吉本の考察である「うつ」理解の解説に移らせていただきたいと思います。いきなりおっさん的な通俗理解から入ることになって申し訳ありませんが、たとえばとても疲れているときにテレビを見ようとしても複雑な人間関係や歴史を描いたドラマとか、現実を掘り下げたドキュメンタリー番組とかを見るのがめんどくさくて、バラエティとか旅とかグルメとかの番組をつけてまんぜんと見るということがありますよね。バラエティ的な番組というものはただ現在にあらわれているものを見ればそれで済んでしまう番組です。だから見ていて楽ですね。短い持続だけを追っていればそれで完結してしまって、また違う場面に移っていくわけです。いっぽう長い複雑なドラマとかドキュメンタリーとかは時間の経過を緻密に追っていかないとなにがなんだかすぐに分からなくなってしまいます。
こうした違いが「了解の時間性」と「関係づけの空間性」という吉本の心的現象の区分につなげて考えると、「了解の時間性」の停滞ということにあたると思います。自分の日常から心的異常の世界を類推しようとしておっさん的な体験をあげてみました。
もうひとつおっさん的な解釈をあげさせてもらうと、私の父親が突然死したときの体験があります。私の父は地下鉄のなかでくも膜下出血で死んだのですが、そういう場合は警察の管轄になって警察から亡くなりましたという電話がきます。ついさっきの朝まで普通に家を出て行った父が死んだと言われてショックを受けたわけですが、その時についていたテレビ番組や窓の外を行きかう人や車の見慣れた光景が、映画の撮影時のカメラの引きのようにスーッと遠ざかったような感覚に襲われました。そしてしばらくの間、そこにいつものような光景があるのに、それがまるで知らない国の光景のような異和感に包まれる感じがしました。大きなショックを受けたことのある人は思い当たる感覚だと思います。これもまた了解の時間性が停滞する体験のひとつだと思います。
要するに時間の経過をたどってものごとの因果関係、原因と結果の関係を網の目のようにとらえ、しかもそれを抽象化することによって大きく理屈づけて理解しようとする。それが私たちが起こる事件や事象のニュースや、仕事や家事や、あるいは複雑なドラマや表現を辿るときに行っていることですが、それが停滞することもまた日常のいたるところで体験することができます。
その了解がとどこおって、目の前の出来事や情報や表現がわからなくなってしまうことが常態化されたら、次はどうなってしまうのか。そこでは十分に了解することを奪われて、「関係づけの空間性」が過剰になるしかありません。いいかえれば現在の目の前の空間に、次から次にあらわれる出来事しか心の世界がなくなるということだと思います。とはいえまったく了解性がなくなるわけではなく、その空間に起きる出来事に対して時間としての因果関係をたどって了解しようとはするわけですが、とても疲れたり酔っていたり怯えていたりする状態に似て、了解がのろのろと追いつかないということになるのだと思います。
たとえば東北地方の大地震、大津波、そして原発事故と立て続けに起こった体験のときが類推のひとつとなりえると思います。それはパニックに襲われるという状態です。
そのパニックから自分を取り戻すことができずに、もしパニックが常態化したとすれば、現在の空間に起こることの個々の事象の時間的な因果関係を複雑に辿ることができなって、現在の空間に起こったことと、もう一つの起こったことを空間的に関係づけて、その関係づけを了解の代わりとみなして判断してしまうということになると思います。時間的に因果を辿って了解するのではなく、ただ現在の空間のなかで起こったということを無理やり了解の代わりにします。いわばデタラメに因果づけるということです。あっちでああいうことがあった。こっちでこういうことがあったそうだ。ああいうことがあったから、こういうことが起こったのではないだろうか、という感じです。それは違う。ふたつの出来事にはそれぞれ別の固有の時間的な経過である意味性があるじゃないか、それをわからなければ短絡できないぞ。そう言ってももう聞いてくれない状態です。
「ものごとは分けて考えなければならない」というのは、つまり一つ一つの事象には固有の時間性があって、その因果関係を腑分けしていくということです。それには大変な労力を要しますが、それができなくなるとただ起きたことと起きたことを単純に結び付けてしまいます。それがパニックに襲われたときに陥りがちな了解の時間性の停滞と関係づけの空間性の過剰ということです。
ところで空間的な関係づけが過剰になって、なんでも現在の出来事をでたらめに意味づけてしまうようになると、それはだんだん被害妄想的になると思います。了解の時間性を取り戻すということは、いわばよく言う「自分を取り戻す」ことですが、空間的なことは知覚をとおして外部からやってきますから、空間的なことがあるいは現在だけが過剰にこころを支配する状態は「世界全体から襲われる状態」と感じられると思います。
こうして「表現的自己」の了解性が後退し、空間性の過剰な関係づけが横溢するようになったこころは、その苦しみのなかで「内的意識」が「表現的意識」に混ざっていくというか、突き出していくというか、そういう混沌状態へ進むのだと思います。内的意識から表現的自己が作られていく構造が壊れて、内的意識の内容がむきだしのまま表現的自己のなかに滲み込んでいくような感じだと思います。すると内的意識のなかの不安とか願望とか嫌悪だとかのいわばナマの情動が、いきなり空間性として現在のものとして登場するということになるのだと思います。
ここからできるならおっさん的な類推を働かせながら、吉本の「うつ」理解の最後の姿を描きたいと思っていたのですが、今日は申し訳ありませんが時間がなくて中途半端なところで終わります。中身が半端ですいません。