神への信仰と従属。それはやがて権力と貪らんへの奉仕を人に教へるのではなからうか。(エリアンの感想の断片)

このたった一つのことを信じ込むということの怖ろしさは、キリスト教だけでなくマルクス主義でも同様だということが初期ノート以降の歴史でも証明されたのだと思います。権力と貪らん、あるいはスケベとか不倫とかいじめとか、男女とか集団内での愛憎のすさまじさ。そういう人間のもつドロドロしたもの。最後には殺し合いにまで突き進む人間の業のようなもの。

そういう人間の裏が最後に登場してくるんだと思いますね。市民主義的運動のようなものや、わたしの仕事である介護や福祉の世界とか、宗教的な運動家のいうことのきれいごとのウソっぽさというのがあるでしょう。あんたのいう「人々」だの「大衆」だののなかに、たとえばヤクザものとか、体を売ってるオンナとか、ゴミ屋敷に住んで近所の人に暴言を吐いている奴とか、ひきこもってゲームばっかりやってる奴とかは入っているんですか、ということですよ。そういう人間の裏を含みこんでいない人間や社会についての理念は信じるに足りないと思います。たぶん世界思想となるような思想の教祖というか、最初の思想を作った人はたぶん人間の裏についても十分に考察していたと思います。それが組織化されていくに従ってキレイごとに堕していくんじゃないでしょうか。なぜなら人間の裏というものの深い考察は、人間を個々別々のものとして考えることを強いるからです。それは組織化ということとは真逆のことです。面々のおはからいなりということです。個々の宿命をもつ人間を組織としてまとめようとして、最初の思想のもつ毒を抜いてしまう。それが嘘くさいきれいごとをはびこらせると思いますね。



おまけです。

「白骨の御文」

意訳
さて、人間の内容の無い生活の様子をよく考えて見ますと、およそ儚いものは、人間の生まれてから死ぬまでの間のことで、それは幻のような生涯です。

それゆえに、いまだ一万年の寿命を授かった人がいたなんてことを聞いた事がありません。人の生涯は過ぎ去りやすいものです。今までに誰が百年の肉体を保ったでしょうか。〔人の死とは、〕私が先なのか、人が先なのか、今日かもしれないし、明日かもしれない、人より後であろうが先であろうが、草木の根元に雫が滴るよりも、葉先の露が散るよりも多いといえます。

それゆえに、朝には血色の良い顔をしていても、夕には白骨となる身であります。もはや無常の風が吹いてしまえば、即座に眼を閉じ、一つの息が永く絶えてしまえば、血色の良い顔がむなしく変わってしまい、桃やすもものような美しい姿を失ってしまえば、一切の親族・親戚が集まって嘆き悲しんでも、どうする事もできない。

そのままにはしておけないので、野辺に送り荼毘に付し、夜更けの煙と成り果ててしまえば、ただ白骨だけが残るだけです。哀れと言っただけでは言い切れない。人生の終わりは、年齢に関わりなくやってくる。だからどのような人も「後生の一大事」を心に留めおき、心から阿弥陀仏に頼み申上げて、念仏申すべきであります。