良く企画された歌を唱ふことが批評である。それ故批評は計量詩である。(原理の照明)

「良く企画された」という意味を社会に対して歴史に対して、また自分の意識や無意識に対してよく把握されているということだとすると、戦後の荒地派の詩というのは良く企画された詩といえるのだと思います。だから計量詩ともいえるし、批評を内包した詩だともいえるんじゃないでしょうか。そうなると良く企画された詩と批評はどう違うのかあいまいです。行分けをしてるから詩だとか、説明の部分をすっとばして断言をつなげているから詩だとか、イメージが豊富だから詩だというのではあいまいだと思います。詩といわれているものと、散文や批評を根本的に分ける基準はあるのか?韻律を失って、現実に対する意識を詩に持ち込んだ時から、つまり戦後詩から、そういう問題意識が生じてきたのだと思います。
そんなところでそそくさと吉本の分裂病理解の解説に移ります。あまり時間もないので。それでですね、森山公夫の分裂病統合失調症)と躁うつ病の解説をしてきましたが、森山は吉本の幻想論をもとに「共同幻想にこだわるのが統合失調症、自己幻想にこだわるのが躁うつ病、対幻想にこだわるのがてんかん」というように自らの「汎精神疾患論」を提唱しています。しかし「てんかん」については森山の文章を見つけられなかったために棚上げにしました。このたび森山が「対幻想にこだわる精神疾患」について書いた論文を読むことができたので、棚から卸して解説してみたいと思います。なんか付け焼刃でお恥ずかしいですが。
読んだのは「解離の病理」(岩崎学術出版社2012)という論文・ようというわけですが、いったい「解離」とは何か、それは森山が対幻想にこだわる精神疾患のタイプとしてあげた「てんかん・ヒステリー(多重人格)」というものと、どこが共通していてどこが違うのか、それを明らかにしなくてはならないわけです。しかしわたしの知識がこの件についてまったくなかったので、かなり薄っぺらな解説になるとは思います。まあいつも薄っぺらだからいいか。
森山は論文のなかで「癲癇(てんかん)・解離」というように、てんかんと解離を共通したものとして扱っています。ではまず森山の把握する「解離」とはどのようなものか。森山は「解離」を対幻想にこだわる精神疾患と考えています。「対幻想」とは人が一対一の関係で生じる性としての幻想ですが、具体的には夫婦とか恋人同士とか、親子、兄弟という「家族」に主としてみられるものだと思います。しかし森山が「解離」の根源として把握する「対幻想」は母親と乳幼児との間の根源的な「対幻想」です。母子の「対幻想」に欠損があること、平たく言えば母親の愛情をなんらかの理由で十分に与えられなかった、あるいは母親から切り離されたという深刻な衝撃が乳幼児の無意識に刻まれた場合、それが「解離」の原因になると森山は考えています。そしてそれは「てんかん」の場合も共通しているといっていると思います。
だから「解離・てんかん」は失われた母性への執着を原因としているということです。森山の論の根底に常にあるものですが、精神疾患は普遍的な精神のありかたと共通したもので、健常者とか一般人と言われている精神疾患の患者以外の人たちも普遍的にもっているものが、極端化したり破たんしたりするのが精神疾患だという観点があります。たとえて言えば、あらゆる人が原っぱに集まっているとして、その周りに「柵」がある。その「柵」を越えてしまった人が病者であって、こころのなかは原っぱのなかの連中と同じものをもっているということです。母子の関係で大なり小なりなんらかの欠損を抱いているというのは、たぶんあらゆる人に共通することだと考えます。そういう意味では「解離・てんかん」も「統合失調症」や「躁鬱病」と同様に、あらゆる人の精神とまったく切り離されたところにあるものではないと森山は主張しているということです。
「解離」の症状をどのように区分するかということは、さまざまな論議があるようですが、森山は「解離」の症状を「遁走」と「憑依(多重人格)」の二つに大きく区分していると思います。「遁走」とは、こころの居場所を失いふらふらと盛り場をうろついたりしていたが、気がついたら地方の駅前に佇んでいた・・・というようなものです。ところどころで記憶を失い、その間も体は動いていて、離れた場所で意識を取り戻すというような現象です。結果として記憶がないのは、もうろうとした入眠状態で行動しているためだと私は考えます。めちゃくちゃに酔っぱらっていたのに、ちゃんと家に帰っていてベッドに寝ていて目が覚めた、しかしどうやって帰ってきたのかは覚えていないというような一般人にもよくある現象と共通していると思います。
この「遁走」と呼ばれる「解離」の症状を、森山は「失われた母性のあるところ」と思われるところに向かって「遁走」しているのだととらえています。また「遁走」の引き金になるのは「居場所がない」ということです。森山は「居場所がない」ということには「家庭」と「社会(職場・学校など)」において居場所がなくなったと感じるということがあり、その両方(家庭と社会)に同時に居場所がなくなったと思うことを「絶対的孤立」と呼べば、この「絶対的孤立」こそが「解離」発病の、つまり「遁走」でも「憑依」でもということですが、真因だと述べています。
さて「憑依」とはどういうものか。森山は「憑依」と「多重人格」を同じ意味のものとして扱っていると思います。「多重人格」はよくサスペンスドラマ(「サイコ」など)やドキュメンタリー(「24人のビリー・ミリガンなど」で私たちもなじんでいるものです。自分のなかに様々な異なる「交代人格」があらわれるというものです。
森山は「遁走」も「多重人格(憑依)」も別々のものではなく、共に母親(あるいは母親の代理者)からの「深い分離」を経験したものが、母性の欠落の意識を埋めようとするもので、「遁走」のなかに「憑依」の契機があったりその逆もありうるもので、どちらかが前景になるかで型が異なるだけで、「遁走」も「憑依」も、母親から切り離されるという恐怖と寂しさ」から、入眠時幻覚という過労と空想癖に基づくもうろう状態で起こす出来事だととらえています。これはとても説得力のある考察だと私には思えます。
てんかん」と「解離」の共通性と違いは何か、というところに進みたいですが、もうひとつ「解離」について森山が述べているきわめて興味深いことを解説したいと思います。それは「解離」と「シャーマニズム」の関係です。
「シャーマン」についても私たちはいろいろな映画や小説などでなじみがあるものです。原始の時代や、現在でも原始の風俗を残す地域でみられるトランス状態におちいって、超自然的な霊との交信をしたりする神がかりの人物です。卑弥呼もそうだったという人もいます。
「人類最古の宗教形態としてのシャーマニズムは、さまざまの形としての解離ないし癲癇と密接な関係をもっており、この関係の中に人類の文化・宗教一般の秘密を解き、同時に解離問題を解明する鍵が潜んでいるといっても過言ではない」森山公夫
シャーマンの行動も「遁走(荒野や山中をさまようとか、魂が体から抜けて天空に飛翔する(脱魂)など」や「憑依(祖霊や死霊が憑くなど)」とみなされるものであり、そういう意味ではシャーマンは現代でいう「解離病者」にすぎないとみなす考え方があるようです。しかしエリアーデという宗教学者が「シャーマニズム」という大著を書いて、「シャーマンは単なる病人ではない」と主張したそうです。シャーマンはやはりひとたびは狂気におちいる(巫病[フビョウ]という)。「解離病者」と同様に「病的解離」の状態におちいって、深刻な症状を示すそうです。「周囲の世界からの孤立・危険・敵意」のなかでの錯乱の体験を経るし、このことがシャーマンとなる不可欠の過程であるとエリアーデは言っています。
そしてこの「狂気(巫病)」のただ中から治癒する、全快してシャーマンになるんだそうです。つまりシャーマンは病を克服し、病のなかにある秘密をコントロールすることができるようになった存在です。エリアーデは「シャーマンはとりわけ恍惚の専門家だ」と言っています。「恍惚」とは「彼が思いのままに肉体を放棄して宇宙的な全領域への神秘な旅にでかけることができる」状態です。シャーマンは自身の「恍惚」をつまり「エクスタシー」をコントロールすることで、彼の属する部族、共同体のエクスタシーをコントロールして、そのことによって「共同体の精神的統合を防護する」役割を果たすことができるようになるわけです。映画などに出てくる神がかりのシャーマンの周りでひれ伏したり踊ったりしている原始的な部族の映像を思い出します。
森山の汎精神疾患論に歴史軸を導入して、3大精神病と言われているものの歴史的な発生をたどると、森山は「解離・てんかん」がシャーマニズムに当てはめて考えられるように最も原初のものだろうと述べています。そして「躁うつ病」は「法・規範が明確に分化してくる農耕社会に至り初めて形をなすもの」と述べています。では「統合失調症」はどうなのか。これについては森山の文章が見つからなかったので、また棚に上げておきます。
森山の「解離論」にはまだまだ解説し残したものがありますが、ちょうど時間となりました。ここらで失礼いたします。