且て個性の運命を社会学的に解析し得たものはない。否これは解析することは不可能だ。だが解決した者は在る。如何にして?それは行為といふ単純で重たいものによつて。ここでも人は現実といふ魔物に出会ふ。(原理の照明)

あけましておめでとうございます。今年もつたない解説をしていきますので、よろしくお願いいたします。

さてこの初期ノートの文章ですが、あなたならあなたの個人としての運命を社会的な面からだけ確定することはできないということを言っていると思います。バブルだったり不景気だったりすれば個人は影響を受けますし、戦争になれば巻き込まれていく。そういう面では社会の影響はありますが、あなたにはあなたの内面というものがあり、それは先祖をたどれば極端にいえば生物の歴史の総体が、無数に枝分かれした結果としてあなたに宿っているともいえるわけです。それが自己資質という個性であって、その上にあなたの何十年か知りませんが人生が生み出した内面性が加わっているわけでしょう。この重たい「個」というものは社会的な解析だけでは手が届かない。ましてその「個」は不断に考え感じ選択し行為していくわけです。初期ノートでの「行為」という言葉は、考えることも行動することも含んで言っていると思います。そして「個」は行為によって現実にぶつかる。その「現実」とは社会学的に展望した社会現実というものより規模が大きなもので、個の内面性を無数に含んだ存在で、それは魔物だということだと思います。その魔物だという直感と、それを粘り強く解析しつくそうという意思が吉本のあるんでしょう。

一億を躁活躍させようとか、市民にショックを与えるような政治的事件を作り出して、仮想敵国に恐怖と憎悪を向けようとか支配者が画策しても、個の内面性がそれを対象的にとらえ返し行為しえるならば、この現実が魔物であることを支配者も思い知ることがあるということです。

では吉本の分裂病理解の解説の予備作業として対談相手の森山公夫の汎精神疾患論の解説に移ります。森山には他にも「和解」をキーワードにした治療論があり、また歴史の考察のなかに精神疾患の歴史を位置づけようとしている狂気の歴史論がありというように、幅の広い思想が存在しています。たいへん興味深いですが、そろそろ吉本の解説に戻らないとなりません。もう一度汎精神疾患論を概観して吉本との対談の内容に移っていこうと思います。

森山の「汎精神疾患論」は「躁うつ病」、「統合失調症」と、てんかんを解離と結合させた「てんかん・解離」の3大精神病の共通性と差異を確定してみせた仕事です。
その共通性の基盤のあるのが吉本の幻想論です。森山の思想は、精神疾患を人間の心身の普遍性のなかに位置づけようとしています。人間の精神そのものをとらえようとしているわけです。そのとらえ方は人間の乳幼児期にさかのぼるとともに、未開原始の時代にまでさかのぼろうという規模をもっています。あらゆる人間が歴史のなかで内面としてもつ普遍性がある精神が、「柵」を越えた時に生じるものが精神疾患だとみなします。したがって精神病者は「柵」の内側の精神と地続きであり、理解することができるし、病者は病気をコントロールして柵のなかに戻ることもできるという信念をもっていると思います。

まず「汎精神疾患論」が成り立つには人間の精神の包括的な解析が成り立たないとなりませんが、それが吉本の幻想論だと森山は考えています。次に「柵」を越えた精神がおちいっていく病気の道行き、病態というものを普遍的にとらえようとしています。その病態進行論は軽度・中度・重度の三段階に分かれ、3大精神病のすべてに共通した段階とみなせると森山は考えています。そして軽度は「念慮」、中度は「幻覚・妄想」、重度は「夢幻様状態」であるとしています。

わたしはそれで目が覚める思いがしたのですが、3大精神病のすべてに幻覚・妄想が起こる段階があるということになります。幻覚・妄想の有無によって病気を分けることは不当だということになります。

そして次にこの病態を進行させていくものはなんだろうということになります。そこで森山が提起しているのが「波」です。3大精神病のすべてにおいて「抑うつ」と「高揚」とがくりかえす「波」が観察されると森山は考えています。この抑うつと高揚は病者にのみみられるものではなく、あらゆる人間の普遍性としてみられるものです。人間的な苦悩が生み出す抑うつの果てに、それを破ろうとする衝動があり、それが高揚を生み出す。それが病者においても病態の「波」を作り出すというものです。
そしてその「波」は渦(スパイラル)となってさらに深い病態に病者をおちいらせていきます。

より深い病態とは、これも人間の心身の普遍性である覚醒意識から夢への移り行きに根拠を置いているというのが森山の見解です。「念慮」では覚醒意識のなかで次第になにかの思いに憑りつかれていきます。それが会社のなかでの疎外感のようなものなら「共同幻想」の領域のこだわりでそれは「統合失調症」に、また自分自身のなかの葛藤、良心の呵責というような超自我と自我の葛藤へのこだわりであれば、それは「自己幻想」の領域へのこだわりで「躁うつ病」に、また母との深い分離に根差した離人症的なものであれば、それは「対幻想」への根源的なこだわりであって「解離・てんかん」に、というように3大精神病へのそれぞれの道が生じます。その「柵」を越える病気の入口にも共通性があり、それは孤立感と睡眠障害だと森山は述べています。

そして「波」が生まれ、その波の上でも下でも孤立感が癒されないと、さらに睡眠障害が進行し覚醒意識である現実感覚のなかに夢の内容が侵入してくるわけです。それが「妄想・幻覚」であれば、現実のなかに侵入した「夢」ですが、さらに睡眠障害が進行すると現実が「夢」に圧倒されていきます。それが「夢幻様状態」であって、病態の最深部だということになります。

もっとくわしく森山の病態論を解説したいのですが、それは吉本との対談の解説のなかでやることにして、病態論の解説としては前回のくりかえしに過ぎなかったんですが、この程度のおそまつな概観ですませようと思います。

森山が汎精神疾患論を提起したことには、単に病気の治療という領域を越えて、人間の精神とか精神史というものを転倒させたいという構想があるのではないかと森山を読んでいて感じます。精神病というものを健常者と病者、正常者と異常者という枠のなかでみるのではなく、「柵」を越えていった精神というものを人間のとりうる「旅」としてみなすことができうるなら、その「旅」から帰還できるならば、あるいはその「旅」のさなかにいても自らを自覚的にとらえることができるならば、それは人間の可能性というもの、人間の精神のふり幅との巨きさというものを人間に与えるものだというような構想です。たぶんそういう森山の思想が吉本に共鳴していくのだと私には思えます。では次回は吉本との対談の解説に移らせていただきます。