忘却はひとつの選択に外ならない。最も忘却をまぬがれるものは嫌悪である。悲しみも愛憎も決して永続することはない。何故ならそれはたまることはないから。愛憎の思ひ出といふものは総じて在り得べきものではない。これらは過ぎてゆく季節に外ならない。(忘却の価値について)

これは若い時に読んだときにわかったようなわからないような印象でしたが、今読んでもわかったようなわからないような感じになります。確かに激しい愛憎とか悲しみはやがて薄れていくものだと思います。その理由はわたしが思うには、嫌悪というのは対象への理解という面があって、理解というものはたまるというか積み重ねられるものだから、嫌悪というのは長く続く。逆に愛憎とか悲しみというのは、理解というよりもっと動物的というか、頭脳よりももっと内臓に関わるような感情なので、積み重なることがない一過性のものだというようなことじゃないかと考えます。愛憎とか悲しみというのを理屈抜きの激しい情動とみなせば、まあなんとなくわかるような気がします。

そんなところで吉本の分裂病理解の解説に移らせていただきます。

吉本は統合失調症とは書かないで精神分裂病あるいは分裂病と書くわけですが、その分裂病とはなんなのかについて、森山公夫のような体系だった記述はたぶん見当たらないと私は思います。ところどころで分裂病についてかなりすごいことが書かれているので、おそらく吉本は分裂病について明瞭なイメージをもっていると思うんですが、まとまって分裂病とはこういうものだと全体がわかるような書き方はたぶんしていない。だから吉本の分裂病理解を追っかけているとわけがわからなくなっちゃうんですよ。

ただはっきりしていることは、吉本はフロイトの思想である「無意識」の概念を胎児期まで拡張して考えようとしていることです。つまり人間のこころとか精神とか言われているものの発生を胎児期にまでさかのぼってとらえようとしています。するとこころとか精神というものの異常や病気である神経症や精神病もまた胎児期にまでさかのぼってとらえようということになるわけです。その追求がまだ途上であるために、吉本は体系だった分裂病の記述をしないでいた、その途上で亡くなってしまったんじゃないでしょうか。

そこで吉本が書き残したところどころの記述から、吉本の分裂病の追求されつつあった内容を推測するのが残された読者のつとめということになります。そういうわけで胎児期へのこころ・精神の拡張というテーマがもっとも集中して書かれた「母型論」を再びとりあげて、「母型論」を分裂病の理解という角度で読み直してみたいと思います。

胎児期への拡張というテーマから吉本が造語した概念が「大洋」です。これは「母型論」のなかの「大洋論」に登場します。「大洋」というのは意味のある言葉が獲得される以前のこころとか精神(こう書くのはめんどうなので、こころにしときます)のことを指しています。これは胎児期から乳児期にかけての時期ですが、胎児期は受胎後8ヵ月以降の胎児期のことです。なぜ8ヵ月以降かというと、三木成夫の研究によって8ヵ月くらいまでの間に胎児にさまざまな感覚がそなわり、7〜8ヵ月くらいで意識が芽生えるとされているからです。胎児の意識というのは無意識であって胎児には無意識しかないということになります。無意識ということは自分にとって自分の意識がわからないということになりましょう。こころは芽生えているけれど、それは当人である胎児にとっても、また母親や他の人にとってもわからないこころです。だから「誰も知らないこころ」がまるで他界のように、あるいは死の世界のようにある、はずだということです。

この8ヵ月以降の胎児期のあとに出産があり、乳児期が始まります。まだ言葉はない乳児期を過ぎて言葉が獲得されるまでのこころを吉本は「大洋」と呼んでいます。なぜあえて「大洋」という造語をしたのかといえば、それがフロイトの「無意識」概念を拡張し越境しているために概念がないからでしょう。この「大洋」の概念をつかむことが、吉本にとっての自己思想によるにんげんのこころの世界の把握と、歴史をぶっとおす史観と未来の展望にとっての根源的な、かつ未踏の課題です。

以前も解説したところですが、もう一度分裂病理解という角度で「大洋」概念を追いかけてみたいと思います。8ヵ月以降の胎児期に誰も知らないこころが生まれ、出産という衝撃的な体験があって、外界においても母親と赤ん坊だけが全世界である乳児期があります。共通するのは、まだ言葉が獲得されていないということです。「大洋」期には言葉がないので、誰もこの時期はこんなふうだったと語ることができません。実は3歳くらいまでの幼児には、この「大洋」期の記憶が残っている場合があるそうです。お母さんから生まれた時はこうだったとか、お腹にいるときにこうだったとか。その記憶は3歳を超えていったあたりで消えるというか意識の奥に沈み込んで表面に浮上しなくなるそうです。それを「幼児期健忘」というわけで、以前も解説しましたが「幼児期健忘」によって「大洋」期は人の運命を根源的に決定するものであるのに、誰も知らない「死の世界」に似たものになるわけです。

「母の形式は子どもの運命を決めてしまう。この概念は存在するときは不在というもの、たぶん死にとても似たものだ(「母型論」冒頭)」吉本隆明

「大洋」期を、母の形式が子どもの運命を決める時期とみなすのは、そこには母親と子どもだけが全世界を形成しているからです。だから「大洋」期は、母と子どもだけが作り出す世界です。この「大洋」期の根底を作っているのはやはり胎児期です。フロイトが無意識概念から外した胎児期の無意識の問題は、フロイトの弟子でフロイトに反逆したウィルヘルム・ライヒという精神科医が追求しています。吉本は三木成夫とともにライヒにも大きな影響を受けていると思います。ライヒは無意識概念をフロイトの思想から拡張し、あるいは越境して「表面層」「中間層」「核」という三層に分けています。そして胎児期の無意識を「核」の領域とみなしています。だから「大洋」期は乳児期を含みますが、その根底である8ヵ月以降の無意識は「核」の無意識だということになります。

胎児期の、あるいは「核」の無意識の問題は、前回の解説で「内感覚」という吉本の概念を解説しました。「母型論」では吉本は胎児期の無意識を「内コミュニケーション」という概念で追求しています。以前にも解説したんですが「内コミュニケーション」とは、胎児の母親(妊婦)が思ったこと、感じたことが母親の無意識も含めてそのまま胎児にコミュニケートされ、胎児は母親とほとんどおなじ思いを感じた状態になることです。この「内コミュニケーション」という概念が吉本の思想にとって大変重要です。ここ試験に出ますよ!

胎児は羊水のなかに浮かんでえら呼吸をしています。外界は母体の外側にあり、胎児は胎内が全世界です。そのなかに意識(無意識)の芽生えがおこる。胎内が全世界だということは母親のこころがすべてだということです。だから母の形式が子どもの運命を決めるわけです。母の形式というのは吉本らしい言い方ですが、要するに母の性格、母の愛憎、母と夫の関係、母のおかれた状況などなどです。母親がひとりの女性としてお腹をふくらませながら体験するさまざまなこと、あるいは今までできあがってきたこころの世界、そういう母の形式がすべて胎児に流れ込み、胎児は完全に受け身でそれを浴びて育つということです。それは素晴らしいことかもしれませんし、恐ろしいことかもしれません。

「内コミュニケーション」は言葉がない状態で、母親のこころを胎児がおなじ思いに染まることです。だからこれは「完全な察知の状態にとてもよく似ている(吉本隆明「母型論」)」ということになります。「完全な察知」というのは勘とか直感とか霊感とか第六感とか言われているものにつながります。たとえば誰かに向かい合って、何も言葉を交わさないのに相手のことがわかる。何を思っているとか、どういう性格だとか、どういう状態にいるか、あるいはどういう未来があるか。それは占い師とか宗教家の世界につながっているわけです。また恋愛の世界にもつながっています。そして精神異常の世界にもつながっていることになります。ここに「大洋」期の、その根底である胎児期のあるいは「核」の無意識の、重要な特色である「内コミュニケーション」が精神病の根源ともなりうるという問題が出てきます。

ここで吉本は妄想とか幻覚について、重要なことを述べています。きわめて重要であるように私には考えられます。母のこころが「内コミュニケーション」で胎児に流れ込みます。このことを感情が水の流れのように胎児に流れ込むとイメージするとします。しかしこの流れがスムーズに流れるか、あるいは流れが渋滞したり、拒否的だったりしてスムーズに流れないときは、胎児はその影響をそのまま受けると吉本は述べています。これは恐ろしいことでしょう。全世界である胎内で温かいものが流れ込んでくれるのか、冷たい凍えるようなものが流れ込んでくるのか、あるいは何も流れてこないで太陽が消えた穴倉の底のような状態になるのか、受け身でしかない胎児は自分でもわからないこころの芽生えのなかで幸福に充たされるのか、恐ろしさに身を縮めるのか、まったく受け身で受け止めるしかないわけです。それはにんげんの恐怖とか幸福感とかの根源を形成するものだと思います。

吉本が述べている重要なこととは、母親の拒否状態、つまり妊娠しているということへの嫌悪、胎児への憎しみ、苦痛、そういうものが胎児への感情の流れを途絶えさせたとします。その拒否状態がすこし長い間続けば、胎児はどうするか。その時に胎児は、母親からの感情の流れを〈作り出し〉、流線を仮構するのではないかと吉本は述べています。この指摘がきわめて重要だとわたしは考えます。胎児がとだえた命の糧のような感情の流れを自分で仮構する、自分で創造すると吉本は言っているわけです。これが後年になって人が病像として妄想や幻覚を作り出す根源だと吉本は考えているということです。ここに胎児期がこころとこころの病気の根源だというひとつの重要な観点が成り立ちます。

吉本はこの後年になって妄想・幻覚としてあらわれる胎児期の仮構の例として、被害妄想をあげています。たとえばストーカーに付け狙われているとか、誰かがいつも私を監視しているとかという被害妄想とか追跡妄想とか呼ばれている妄想があります。吉本によれば、この場合被害を与える加害者は〈作り出された〉母の感情の流れの代理者ということになります。胎児がとぎれた母からの感情の流れをおぎなうために胎児自ら流れを仮構し〈作り出した〉。その仮構された流れは、「核」の無意識として成人になった人の奥に眠っている。それが起き出した。胎内で〈作り出された〉感情の流れは、成人となった人の解釈によって代理者に変換されている。代理を演じるのは母、兄弟からはじまって親和した者、また偶然の人物のばあいには、この人物の親和した表情、素振りを、加害者に仕立て上げ感情の流れを作り出し、それを被害者として受け入れるものと考えられると吉本は述べています。

ここで重要な論点は、被害妄想、追跡妄想と呼ばれるもので自分に加害を与えようとしていると妄想される加害者は、実は胎児が母親の途切れた温かい感情の流れを、自分のいのちを守るために自ら〈作り出した〉仮構の流れが根源ある「代理者」だということです。つまり簡潔にいえば、追いかけてくる加害者は、自分が作り出した母だということです。

ではなぜ自分が作り出したのに、加害者として妄想されるのでしょうか。それについては吉本が述べているものを見つけられませんでしたが、おそらく無意識であることと、まったくの受け身であるという胎児の状態が、受け身で流れ込んでくるものを加害者という代理人に置き換えるのではないかと私は思います。

ところで対談者である森山公夫によれば被害妄想とか追跡妄想とかは迫害妄想として統一的に理解されます。そして迫害妄想は共同幻想にこだわりをもって病的になった分裂病者(統合失調症者)が共同性からの迫害という妄想を深化させていく過程にあるものだということになると思います。この二人の理解の差異は対談で残念ながら十分な対論という形になっていません。だから自分で考えるしかないわけですが、私が考えるには吉本はあらゆる精神障害の根源は「大洋」期の母子関係にあるとみなしていると思います。だから成人になって分裂病になった人の根源にも「誰も知らない」母子関係の問題、大洋期であり「核」の無意識である「内コミュニケーション」の異常の問題があるとみなしているのだということです。ではそれが森山の見解が正当だとして、共同幻想に絡み取られて迫害妄想の深化という経路をたどるのはどう考えたらいいのか。たぶんそれは病者自身の自己の状態への解釈の問題ではないかと私は考えます。誰かが自分を迫害している。追いかけてきたり、付け狙ったり、監視したりする。それは病者にとって「組織」のなかの誰かであり、やがては「組織」自体が自分を狙っていると自己解釈していくのではないかと考えるのです。しかし吉本によれば、その根源は母子関係ですよ、ということになります。もう時間がないので次回になります。