僕は僕の現実についての判断と、信ずべき正当な方向とが、次第に潜行せざるを得なくなつてゐるのを感じる。しかもこの距離感は増々巨きくなりつつあるようだ。(断想Ⅰ)

現実に対する判断と、信ずるべき正当な方向、つまり理想とする社会の将来のあり方が「潜行せざるをえない」というのは、たぶん吉本の考えが孤立して、主張しても賛同を得られないようになっていくということだと思います。「ぼくが真実を口にするとほとんど全世界を凍らせるだろうという妄想によって ぼくは廃人であるそうだ (「廃人の歌」)」という吉本の詩がありますが、そういう心情でしょう。では「距離感」というのは何と何の距離感でしょうか。現実判断と理想的な社会の間の距離感なのか、吉本と他の人々の考え方の距離感なのか。よくわかりませんが、どちらにしてもその距離感はますます巨きくなるのでしょう。吉本の思想は優れているがゆえに孤立を宿命づけられ、現実はますます理想から遠ざかる。孤立してたたかう道が吉本には宿命づけられているわけです。それは優れた個人の宿命です。
そんなところで吉本の分裂病の解説、その準備としての森山公夫の「汎精神疾患論」の解説に移らせていただきます。「解離」についての森山の論文を読めたことで「汎精神疾患論」の概要がわかりました。
まず「てんかん」と「解離」はどういう関係なのか?ということがあります。わたしはてんかんの発作だろうと思うことに一度だけ遭遇したことがあります。学生時代に友達と喫茶店のカウンターに座っていたら端に座っていた女性が突然痙攣してぶったおれたことがあります。救急車が呼ばれて女性は運ばれて行きました。躁うつ病統合失調症だろうという人やその症状には何度も出会ったことがありますが、てんかんはその一度きりです。
WHO(世界保健機関)の定義によると「てんかんとは、種々の成因によってもたらされる慢性の脳疾患であって、大脳ニューロンの過剰な発射に由来する反復性の発作(てんかん発作)を特徴とし、それにさまざまな臨床症状及び検査所見がともなう。」とされています。ではその脳疾患はどういう原因で起こるのか。「日本てんかん協会」という筒井康隆の断筆事件で話題になった協会の説明によれば、脳に何らかの障害や傷があることによって起こる場合(生まれた時の仮死状態や低酸素、脳炎髄膜炎脳出血脳梗塞、脳外傷)」があり、これを「症候性てんかん」といい、ほかに「様々な検査をしても異常が見つからない原因不明のてんかん」があって、これを「特発性てんかん」と呼ぶとしています。
この説明はわたしの職業である介護の世界の「認知症」の説明によく似ています。認知症には4つに分類されるといわれますが、主たるものは、脳の生理的障害(脳梗塞など)による「脳血管型認知症」と、原因不明の「アルツハイマー認知症」があるとされるわけです。いずれにしても脳の生理的な障害があるものと、それ以外は「原因不明」とか「本態性」とかいってすませているわけです。特発性てんかんには「大脳ニューロンの過剰な発射」がみられる。アルツハイマー認知症には脳の萎縮がみられる。しかし何がその過剰な発射や萎縮をもたらすのか?ということは「原因不明」ということです。これは森山公夫が「三大精神病論(躁うつ病統合失調症てんかん)が、その後次第に現在の二大精神病論(躁うつ病統合失調症)へとやせ細っていったのは、主に脳波学の発達で、てんかん精神病学が脳波的てんかん学にからめ取られていったからである(「躁と鬱」筑摩書房」と書いていることと符合します。脳波学のような生理的な科学が進歩するのはいいことでしょうが、反面で精神自体から精神の病を解くという思想的な流れは衰退したということでしょう。
では森山は「てんかん」と「解離」の関係をどうみなしているのでしょうか。「てんかん」がドストエフスキーの「白痴」に描かれたように、突然痙攣しぶったおれてしまう発作であり、その精神的な原因は不明であるという現在の主流の理解に対して、森山は「てんかん」は「解離」の最重度の病態に接続する発作なのだとみなしていると思います。これは「解離」が精神の面から解明されれば、発作としての「てんかん」も解明の緒に就くということです。
森山によれば、「解離」はかって「ヒステリー」と呼ばれていた精神疾患です。森山は「ヒステリーという『やまい』は、変幻自在の生き物のようだ。それは歴史的には、現れては消え、消えては現れるという運命を繰り返して来た。また一方症状論的にもぐにゃぐにゃした軟体動物のように本質を確定されることから逃げ続けてきたのである(「解離論の新構築」)」と述べています。そして「そのヒステリーが還ってきた」と述べ、その病像がこの日本の国土で頻見されるようになったのは、ほぼ1995年以後のことだと言っています。ということはバブル崩壊の時期に該当します。解離=ヒステリーが歴史的に現れては消える病態なのだとしたら、この病態には社会の変化に対応している面があるはずです。だとすれば社会の変化に対応した精神の問題があるはずで、なおさらこれを生理的な面だけに還元することはできないことになりましょう。
森山はかってヒステリーと呼ばれていた症状や、てんかんと呼ばれていた症状を「解離」のなかに関連づけることができる解離論を提示しています。その一部は前回解説しましたが、残りの部分を「汎精神疾患論」と対応させて解説してみます。森山の「汎精神疾患論」は3大精神疾患の共通性について述べているだけではありません。あらゆる人間の心身の一般性、普遍性から3大精神病の共通性を分析しています。その基準として吉本の幻想論をもってきているわけです。
前回解説したように「解離」は乳幼児期のあるいは胎児期からの母子関係という「対幻想」の根本に原因をもつ精神疾患だと森山は述べています。そして「躁うつ病」は「自己幻想」のなかに「二つの心」があり、それは「良心」とも「超自我」とも呼ばれる一つめの心が、他の部分の二つめのこころを批判し責める葛藤を生じるのだと述べています。この自己幻想内の葛藤(良心とそれ以外の心の二つの心の葛藤)が「躁うつ病」の特色です。また「統合失調症」は「共同幻想」にこだわる病で、会社や組織、団体といった共同体のなかで疎外され、嫌われ、バカにされという被害感から病態のなかに入っていきます。これらの3つの幻想のあり方と、そのなかでの苦悩というものはあらゆる人に共通して普遍的にあるもので、精神疾患者のみにみられるわけではない人間的な苦悩といえます。この誰にでもある苦悩が「柵」を越えるときに精神疾患への入口が始まります。
森山の「汎精神疾患論」の次の特徴は、人間の精神の普遍性としての「高揚」と「抑うつ」という「波」を3大精神病の共通性として取り出していることです。この「波」は次第に精神疾患を悪化させていくという意味で「スパイラル(渦、らせん)」とも呼ばれます。「躁うつ病」の波はまさに「躁」と「鬱」の波で、「うつ」においては自分はダメな人間だ、生まれてきたのが間違いだったという劣等感に支配され、「そう」においては逆に優越感が支配的で、自分は天才だ、まわりの人間がバカにみえるという状態になります。そして躁と鬱の波のあいまに混合状態と呼ぶべきものがあります。森山は躁鬱病ではなく単独のうつ病とみえる場合でも、よく観察すれば「躁」の状態があり、「混合状態」があるとしています。また「躁」が「鬱」より観察しにくいのは、「躁」が社会の求める「やる気のある人間像」に合致しているようにみえるからだといっていると思います。この躁と鬱の波は、あらゆる人間にみられる「高揚」と「抑うつ」の波と本質を同じくしているもので、人間精神のあり方の普遍性から躁うつ病に近づくことができるというのが森山の考え方だと思います。
統合失調症」においては「波」は、「抑うつ」の波が、共同幻想へのこだわりのなかで組織、団体といった共同性からの迫害を受けているという「迫害妄想」としてあらわれます。また「高揚」の波は、組織、団体を自分が支配しているという「支配妄想」としてあらわれると森山はいっています。「支配妄想」は「誇大妄想」といってもいいもので、この波のあいまには「混合状態」がみられる、というのも「躁うつ病」と共通しています。そしてあらゆる人間の「高揚」と「抑うつ」の波とも共通しているわけです。
そして「解離」においては「波」は、「高揚、興奮」は「遁走」に現れ、「抑うつ」は「憑依、多重人格」に現れやすいと森山はいっています。そして波のあいまに「混合状態」があらわれるのも他の精神疾患と共通しています。前回解説したように、森山は「解離」の基本特色を「遁走」と「憑依、多重人格」にあるとしています。「遁走」はシャーマニズムの「脱魂(エクスタシー)」につながるもので、自分が自分から離れてしまうことです。
いっぽうの「憑依、多重人格」はシャーマニズムにおいては祖霊や死霊が憑りつく「憑依」と関連するもので、さまざまな人格がひとつの心のなかに生じることです。この「遁走」と「憑依、多重人格」はともに「母親から乳幼児期に切り離された」という深刻な心的体験から生じる「解離」の二つの面であり、波です。したがって自己を失って「遁走」していく先は、失われた母性の場所、あるいは原初的なところだと森山は考えています。また「多重人格」として憑依される人格(交代人格)は、母を失った心の空虚を埋めるとみなされる人格が登場する。「遁走」も「憑依、多重人格」も想像力の産物であって自らが作り出すものです。しかし当人にはそうは思えず、何かが憑りついたと感じるのだと思います。
3大精神病といわれるものには、あらゆる人と共通した精神の高揚と抑うつの波があるという特色の次に、森山の「汎精神疾患論」の特色となるのは、3大精神業に共通した病態の進行論です。3大精神病はともに共通した「軽度・中度・重度」の3段階を経ると森山は述べています。そしてこの3段階の進行を司るのもは、あらゆる人間がもっている覚醒意識と睡眠時の夢と、その混合状態といえる入眠時幻覚の共通性です。また眠りが疲労と関係しているように、精神疾患の進行(悪化)も孤立感からくる精神の疲労睡眠障害とが押しやっていきます。心が疲れ果て、でも眠れず、しだいに夢と現実の境を失っていくということです。これもまたあらゆる人がときに体験することでしょう。そのあらゆる人の心身の普遍性を根底に森山の病態の進行論は構成されています。
3段階の進行論は、そもそもの精神疾患の入口の共通性というものがあって、それはまず「ある喪失体験」があるということです。なにか衝撃的な体験が引き金になって、たいていは引き返すことができる「柵」を越えてしまう。そこから「孤立感」と「睡眠障害」が精神病の種類を問わずに始まると森山はみなしています。「孤立感」は学校や会社などの社会からの孤立感と、家庭内での孤立感とがあるとすると、その両方を失うことを「絶対的孤立」と森山は呼んでいますが、それが発病の契機となるわけです。そして眠りを失い、疎外感と不安感でくたびれ果てていき、現実が夢の世界に浸食されていく過程が疾患の進行過程になります。
3大精神病に共通する病態の進行として「軽度」は「念慮」の段階、「中度」は「幻覚・妄想」の段階、「重度」は「夢幻様状態」の段階である森山は述べています。「念慮」とはあることが気になって、そのことばかり四六時中考えている。考えることをやめることができない、だから憑りつかれたように頭から離れないことができるわけです。
この病態の進行論を詳しく書いていると大変なので今回は省略します。しかし「汎精神疾患論」の概要は分かっていただけるでしょうか。なにがゆえに精神疾患は異なるのか。そして共通性はなにか。それを吉本の幻想論と心身のあり方の普遍性のもとに位置づけているのが森山の汎精神疾患論です。今年はこのへんでひとまず終了します。皆様よいお年をお迎えください。