実践はいつも動機だけに関与されてゐる。そして人間史は無数の動機の、しかも悲哀ある動機の連鎖のようなものだ……と。これだけは僕の心情が、政治史や経済史から保存しておくべきだと思ふ唯一の痕跡だ。それで僕は虚無の歴史の如きものを僕の精神史のなかにも持つてゐると言はう。(夕ぐれと夜との独白(一九五○年Ⅰ))

動機、つまりこうしたいとかこう生きたいというような動機があって人は行動する。つまり実践する。しかし現実とぶつかって最初にこうしたいと思ったような結果にはならないものだと吉本は述べています。現実のほうから働きかけてくる力があって、その力と動機を実現しようともがく人間の葛藤があるわけです。吉本にしても、若いころは将来は化学技術者として食っていって、好きな文学は趣味でやって、というような人生を思い描いていたといいます。そういう動機があって化学の学校へ通ったり、技術者として就職したりしたのでしょう。しかし戦争、敗戦、戦後という現実の力が吉本の心身に働きかけて吉本を物書きの道に導いていきます。物書きとして生きて、数多くの著作を書いたということが吉本についての歴史として残るでしょう。だとしたら、化学者として生きていきたいという吉本の動機はどうなってしまうのか。
またそういう初期の動機がどのような葛藤を経て、物書きになるという経緯を辿ったのか。それは事実としての歴史としては除外されていくわけです。吉本はまだものを書くから、自分の動機はこうだったと書き残していますが、無数の大衆の無数の動機は目に見えないからわかりようがないわけです。しかしその実現されなかった事実として残らなかった動機も歴史とみなすとしたら、未開原始の時代からの人類の内面史というものがあることになります。その内面史としての歴史を未開原始から現在まで考察しきって、「歴史をぶっ通す」というのが最後の吉本の構想であったと思います。

そんなところで吉本の分裂病理解の解説に移らせていただきます。吉本と森山公夫の対談本を取り上げるにあたって、森山の思想の解説をしようとしたら初めて読んだ森山の本が非常に面白かったため、回り道が長くなってしまいました。そろそろ本来の吉本と森山の対談の解説に戻りたいと思います。

回り道をしたおかげで森山公夫の「汎精神疾患論」の概略を知ることができました。
3大精神病と呼ばれている躁うつ病統合失調症てんかん・解離は、吉本の幻想論の精神の3分類と対応づけることができる。これが「汎精神疾患論」の根幹です。その根幹は森山の「統合失調症」(ちくま新書)にはっきり書かれています。そしてこの「統合失調症」という著作が刊行されたことで、森山と吉本の対談が企画されたのだと思います。だったらわたしがまず知りたいのは、吉本は森山の吉本自身の幻想論と3大精神病との対応づけの論理をどう思っているのかということです。肯定的なのか、批判があるのかということですね。

ところがどういうことか、あろうことかアルマイト鍋か、このことについては「異形の心的現象」(批評社)という対談本ではまったく触れられていません。本を最初から最後まで点検しましたが、吉本も森山もこの件についてはなかったかのように素通りですね。なぜだろう。

吉本の幻想論と森山自身の精神疾患理論の対応づけはいちばん根幹の部分で、これを取り上げずに森山の汎精神疾患論の評価は成り立たないというものです。それをなぜ一巻の対談本を刊行するのに触れないで済ますのか。これはひとつの謎なんで、謎として棚に上げておくしかありません。わたしが考えるには、なぜ触れないのかという理由は、吉本が森山とは違った観点からの精神疾患理解に到達していたからか、あるいは森山の理論を肯定あるいは否定しているんだけど、吉本自身は精神疾患の素人であるということで、確信のない危ないことは言明を避けるという理由で触れなかったのかどっちかかなと思います。少なくとも吉本と森山との間で、この件については吉本としては触れたくないよという打ち合わせはあったと思います。吉本はもう亡くなってしまったので、森山の講演会でもあったら、質問してみたいとまで思いますね。吉本さんはあなたの汎精神疾患論と幻想論との対応づけを本当はどう考えていたんですかと。

吉本という人は言わないことが重要だというところがあります。要するに危ないことは言わない書かないということです。それは吉本がマルクスから学んだことでもあります。危ないというのは、世間から叩かれるというようなことじゃないですよ。自分で確信のないことは言わないという意味です。だから吉本には言わない書かないことが心のなかにいっぱいあったはずです。わからないという状態はいわば「虚無」だと考えれば、最初の初期ノートに戻りますが、虚無の歴史が吉本のなかにあるわけです。若いころからずっと。吉本が、まだ言えない、まだ書けないと思って内面に留めていたはずの膨大な思想的構想ってものを知りたいと思いますね。身内同士でのおしゃべりとか、ノートとかにはそれが推察できるものが残されているはずなんですよ。どうしてそれを追求しないかなあ。俺が編集者ならそれをやりたいなあと思います。そこまで精一杯推測をたくましくするのが一人の思想家を理解することだと思うんだけどなあ。

さてその謎は棚にあげるとして、吉本は森山の当時刊行されたばかりの「統合失調症」の本と、それ以前に論文として発表された「躁と鬱との内的関連について」を絶賛しています。吉本の言葉でいえば、「おおっ」とか「やったな」ということになります。これはめったに同時代の物書きに対して吉本が言わない絶賛です。そうなんですよ、吉本追っかけ隊の私にはわかります。その「やった」というのは達成したということですが、その達成感のたとえとして、吉本が自分の「言語にとって美とはなにか」の延長として文法論と精神構造論というようなものを書き足した著作を作りたいと思っていると、その二つの延長部分を足したくらいの達成感を森山の「統合失調症」を読んで感じたと述べています。そしてこれだけの著作をなんで「ちくま新書」みたいな安っぽい新書で出したんですかと。この本はもっとちゃんとした装丁の学術書として出すほうがよかったし、それだけの価値のある本だよとしつこいくらいに言っています。吉本が尊敬している三木成夫と同じように、いろんな人が読んで自分の研究として少し言葉を変えて使っちゃう、つまりパクるということですが、それくらい大変な本だと言っています。これくらい絶賛されればもうこれ以上はないだろうというくらいの絶賛です。

だから吉本は森山の思想を最大限に評価していることは確かです。そして根幹である汎精神疾患論と幻想論の対応について触れるのをなぜか避けて、どういいう対談が成り立っているかというと、ひとつは夏目漱石の作品には夢のなかにいるような描写があると。それは森山の夢幻様状態という汎精神疾患論の病態進行論の重度の状態からみて、どう捉えられますかという吉本の質問の部分があります。次に話を歴史にひろげて、中沢新一の仕事を取り上げながら内面史としての歴史の構想について吉本が語る部分があります。次には、吉本の「ハイ・イメージ論」以降の主要な論点ですが、「上からの視線」あるいは「四次元的視線」と精神疾患の共通性の問題が語られます。それから吉本自身の病理性ということでさまざまな作家や編集者との決別の経緯が語られます。これはゴシップ的というか吉本ファン心理からいうとかなりあけすけで面白い部分です。最後に現在の社会の新しい精神疾患の問題や親鸞精神病者の問題さらに「原生的疎外」という吉本の概念への森山の質問などという雑多なものをまとめた部分があります。

この対談本を読んだ印象としては、吉本は自分は精神病の実態については素人でわからない、ただ自分の思想として最大の関心を注いでいるものが、精神病の専門家である森山からはどう捉えられるかを知りたいという動機で対談が進行している感じです。それらの論点をこれから解説していきたいと思います。