若し自由といふものを現実的に規定するならば、それは本能に帰着する。斯かる規定は形而上的ではなく、形而下的となる。即ち社会学乃至は経済学に帰着される。(形而上学ニツイテノNOTE)

自由というものを人間にとっての自由と考えれば、それは人間の人間的な欲求を充たすものということになりましょう。人間的な欲求を人間の本能と言い直せば、自由は人間的な本能が規定するわけです。人間的な本能は動物的な本能を基底にして、そこに人間的な独自性が加わったものと一応考えられると思います。食べるとか性欲とか睡眠とか活動したいという欲求に、人間的なものが加わっていくわけです。そしてその欲求を充たそうとすることが社会を動かしていくんでしょう。だから社会学とか経済学という人間の社会を分析する学問は、人間の人間的な本能に規定されたものだと考えることができます。ただ吉本は、人間には動物的なものも植物的なものも無機的なものも人間的なものもすべて含まれているといっていますから、社会を規定するものはもっと複雑なものと考えることもできます。

こんなところで、吉本の分裂病理解の解説に移らせていただきます。森山公夫との対談本「異形の心的現象」から解説していこうとしています。前回の解説で述べたように、この対談は森山の自身の体系として作り上げた「汎精神疾患論」に対して、吉本が最大限の評価を与えつつ、それよりも根底的なところからの精神病の考察を述べているということになると思います。

対談の論点はいくつかに分けられますが、まずは吉本がこころというものは、内臓系の閉ざされた感覚と、体壁系の外界に開いた感覚の、織りなされる織物のようなものだと考えるところから、精神病を「躁鬱病は内臓器官の動きとそれにまつわる神経の問題から主に起こってくる病気であり、分裂病といわれているものは感覚器官にまつわる神経の病気というところが根本にある」(「心とは何か」)と述べているところが極めて重要だと私は考えます。

この吉本の考察と、森山の躁うつ病は自己幻想の領域へのこだわりから生じ、分裂病共同幻想の領域へのこだわりから生じる、という考察とはどう関連づけることができるでしょうか。森山の考察はいずれにせよ人間の意識が自己幻想、共同幻想、対幻想に分化していった以降の状態を基盤にしていると思います。それは人間にとってどの段階なのか、という問題はちょっと置いておくとして、吉本の考察はそれ以前の心的な状態を考察の基盤にしているのだと私は思います。このことは吉本の考察がフロイトの無意識の考察を拡張して、胎児期における心の問題、あるいは無意識とされているもののさらに奥にある無意識という領域に入っていっていることとつながっているのでしょう。生誕し乳児期以降のことはフロイトが無意識論として展開していますが、それを胎児期にまで掘り下げるということです。またこのことは歴史論として置きなおすこともできると吉本は考えていて、歴史の胎児期としてのアフリカ的段階の考察という展開につながっていきます。

この領域への追求の成果が「母型論」なわけですが、吉本にとってもこれは未踏の領域で、なかなかはっきりとしたことが言えない段階であったと思います。しかし胎児期から人間のこころの発生を追求するという課題が、精神病の発生の根源を追求するという課題でもあるということが重要なのだと思われます。

胎児を腹のなかに宿した母親の精神状態が、感覚器官が取りそろった段階以降の胎児にはすべて刷り込まれていくとすれば、そこにこころの原型が作られると同時に、こころの病気の原型も作られるとみなせることになると思います。

「異形の心的現象」の対談のなかで、吉本はさらに「真上からの視線」という問題を述べています。それに対して森山は巻末の解題のなかで「わたしは今回の対談で、改めてこの『真上からの視線』は、まさに精神疾患において全面的に展開されてきていたことに気づかされました」「このこと(ヨダ注:統合失調症者の迫害妄想に「真上からの視線が含まれているということ)はまた、単に迫害妄想の世界に留まらず、妄想一般についても言えることになります)と述べています。この「真上からの視線」の問題はあとで解説することにしますが、この「真上からの視線」が発生する時期を吉本は胎児期にみていると思います。つまり胎児期の人間と歴史の問題を吉本ははっきりさせたいわけですよ。しかしそれは吉本にとっても森山にとっても実に未踏の暗闇を進むような手探りの行程なんでしょう。

胎児の心的な世界について、吉本の「心とは何か(2001弓立社)」のなかの「胎児という時期」から解説したいことがあります。吉本は「これはわたしが一応到達している解釈です。なぜ一応という言葉をつけるかといえば、まだわからないことがおおく、自分の考えを訂正せざるをえなくなるかもしれないからです」と断って、胎児期の「内感覚」という概念を提出しています。ここにも手探りに苦闘の感じがよく表れていると思います。

胎児期の「内感覚」とは、胎児が妊娠7〜8ヵ月で耳と目が体内の羊水のなかにいながら、外界の音(特に母親の声)を聴きわけ、目も光に感応できるようになるころから分娩・誕生までの胎内生活で形成されるものと吉本は述べています。胎児には誕生して以降のような外界はありません。直接に感覚する外界はないわけです。お母さんのお腹のなかにいるわけだから。でも感覚器官は揃ってきている。だから胎児は胎内の暗闇のなかで視たり、羊水と胎壁をへだてて聴いたりしているわけです。この胎内での感覚が生み出すものを吉本は「内感覚」と呼んでいるわけです。

母親の胎内で内感覚作用を営んでいる胎児が、誕生して外界に出ると、外界の光に感応して視たり聴いたりの「外感覚」をしだいに形成し、それを使って知覚作用を営むことになります。しかし胎内で形成し使った内感覚をまったく失ったわけではなく、潜在的には無意識に保存していると吉本は述べています。この場合の無意識が「無意識の奥の無意識」ということになると私は思います。「人間の感覚作用、とくに視覚と聴覚は、内感覚と外感覚の二重層からできている」と吉本は述べています。

こう考えることで、たとえば胎児に文字を覚えさせるという胎児教育の意味も理解できることになります。母親が文字を鮮やかに自身で視覚化し、それをお腹のなかに引き下ろす感じで胎児に伝えていく。すると胎児はそれを読み取って覚えるというものです。吉本が提出しているもうひとつの内感覚の例は、テレビ番組で行った実験で、子供たちに白紙に文字や図形を書いてくしゃくしゃにして何を書いたかわからないようにして渡して、それを子供たちはかなり当てることができるという例です。吉本によれば、これらは目が感覚としては視ていないのに、つまり外感覚としては伝わっていないのに、耳とか額とか手が視ていることを意味していると吉本は述べています。

こうした内感覚は常にあらわれるわけではなく、2歳から4歳まで頃の子供の時期とか、あるいは瀕死状態のひとや、宗教の修行者などが二重層の底の「内感覚」を蘇らせることがありうると吉本は考えています。

また「真上からの視線」の問題も吉本は「内感覚」に関連させて考えています。瀕死状態から生還した人や、宗教の修行者が自分の身体を離れた〈眼〉が上空から自分自身を見下ろしたり、空中を浮遊して死後の世界を遊歴して戻ってくるという体験をしています。このことに含まれる「真上からの視線」は「内感覚」の〈耳〉からくる視線でないかと吉本は考えています。目玉が現実の物を視るのではなく、耳が視覚を生み出すということです。それは胎児期に形成され、ふだんは意識の二重性の底に眠っているものだということです。

これは吉本にとって、胎児期の心的な世界の追求のまだ入口にあたる考察だと思います。しかし重要なのは「内感覚」という世界自体を取り上げることです。この誕生して以降とはまったく異なった内感覚の世界が解明されれば、こころと精神病の根源が解明されうるのだと思います。よちよち解説ですが、もう少し先まで吉本を追ってみたいと思います。