批評における判断力の強弱は、単元的な判断の連鎖の持続度の強弱としてあらはれる。(〈批評の原則についての註〉)

吉本がどこで書いていたのか思い出せませんが、マルクスについて、普通の人なら数分とか数十分とかしか持続することに耐えられない思考を、何時間も何日も持続して考えに考えることができる、それがマルクスだというようなことを書いていたと思います。プロの将棋指しが何百手も先まで考える、というのに似てますね。そういう思考の持続力が連鎖して思考を広げていく、それが批評の判断力の強さを作っていくんだ、判断力の弱さはその反対に思考の持続がどこかで止まっちゃったまま連鎖しているんだというような意味じゃないかと思います。
これは吉本の用語でいえば「了解」というものの深さや広がりということになると思います。たとえば現在パリでイスラム国がやったとみなされている爆破事件があって、東京でも起こるのではないか、アメリカでも起こるのではないかという論調がメディアにあふれています。これはパリで起こったのだから東京でも起こるかもしれない、というだけでは空間的な関係づけだけで了解の代わりにしているだけだと思います。イスラム国とはなんなのか、そして現在の世界とはどう理解したらいいのかという難しい「了解」を抜きにして、あるいはどこかで思考停止したり、読み手の思考停止を意図したりして流布される論調は、すべて弱い判断力の産物だといえると思います。たとえて言えば「了解」という深い基礎や柱をおろそかにして建ててしまった欠陥住宅のようなものです。
パニックになったりパニックを煽ったりする論調というのは、これから頻発していく気がしますが、病の入口をくぐらないためにはやはり「了解」を深めるということに耐えるしかないと私は考えます。これはただの関係づけだけで作られた意見じゃねえか、というものばかりでなく、深い了解がいたるところにあるなあと感じさせる意見や、意見として公表しなくてもそういう了解をもっているなあと感じさせる人物に社会のいたるところで出会うようになることだけが、この世界がよくなる兆候です。たしかに社会を自分たちの勢力に都合のいいように誘導しようとする者たちは、社会の上層にたえず存在します。しかしそいつらの扇動にくっついて歩いて崖から落っこちていく大勢のわたしやあんたがいるから、社会は悲惨な方向に進むことができるわけです。うかつに騙されないような、冷静に大きな局面から個別の事態を見ているような、人生というものがよくわかっていてくだらない大義名分にまんまと感動させられないような、そんな人物が増えることだけがこの世界が一部の連中にいいようにひっかきまわされなくなる条件だと思います。だんだん世界がきな臭いヤバい感じになってくるのでそういうことを考えますね。
そんなところで吉本の「分裂病統合失調症)理解」の解説に移らせていただきます。「異形の心的現象」という本で吉本と対談している森山公夫の考え方を解説しているわけですが、本筋は吉本ですからどこかで切り上げて吉本の思想に戻ろうと思います。森山は「汎精神疾患論」という呼び名で分裂病躁うつ病てんかんを統一的に理解する道筋をつけています。なぜ統一的に理解できるかというと、精神疾患の土台である心を統一的に理解できる道筋を吉本が作ったからです。森山は吉本のこの「幻想論」つまり心の統一的な理解に則って自らの精神疾患の統一理論を作ったわけです。
人にとって自分の心はひとつ、身体もひとつです。この単一の心身はしかしいくつかの要素や領域に分けて考えることができます。こころは幻想論によって分けられ、身体は内臓系と外表の知覚系とに分けられるというように。こうした分け方は普遍性として考えられています。普遍的というのは「誰でも」ということでしょう。あらゆる人に適用できるということです。私たちは誰でもこの人生で悩んだり苦しんだりする。それは精神病であるかどうかに関わらず誰でも悩むわけです。その悩み、苦しみはまた、身体に相関して身体のリズムや部位の異常としてあらわれる。それも精神疾患に関わらず誰にもあることです。まさにその普遍性から精神疾患、あるいは精神病を定義づけようと森山はしています。そういう意味では精神疾患は誰にでも理解可能だし、誰にでも他人事とはいえない状態だということになります。
私たちはいろいろなことに悩み苦しみます。また悩み苦しむ過程があるから、乗り越えて成長しうるんだともいえます。その悩み苦しみにはまず幻想論による心の領域の区分が関わっているはずです。ひとつは共同性、つまり学校のクラスとか会社とか地域の人間関係とかとの関係から。ひとつは性としての一人の相手、恋人とかダンナや奥さんとか、家族とかの間で起こる悩み苦しみです。最後は、自分の自分自身との関係、自分のなかに自分を否定し批判し葛藤する分裂があるという悩み苦しみです。こうして分けて考えるときに、さまざまなことに悩むけれども、次第にどこかに引き寄せられ、こだわり、最大の悩みになるということはありえます。どこにこだわってしまうかはその時々の生活のありようとか、その人の資質によるといえるでしょう。そしてこだわり、気になってしょうがなくなり、そのことばっかり考えるようになる。そして身体に反映し、胃が調子悪くなったり、寝つけなくなったり、眠りが浅くなる。そして吉本の言い方でいえば、そこに「柵」があるわけです。
「柵」というのはつまり防御壁です。悩みがあって眠れなかったくらいなら「誰にでも」ありうることです。その先の「柵」を越えてしまう人と、越えないでなんとなく戻ってこれる人がいるということです。この「柵」はなぜできるんだ、「柵」の高い低いはなんで決まるんだ?というのは吉本が「母型論」で挑戦した課題です。
森山は「柵」を越えたところから「汎精神疾患論」を始めています。いままで「当たり前」だと無意識に思って気にしなかったこと、それが「揺らぎ」はじめる。けらけら笑って過ごしていた日々が止まってしまう。え?という感じ。異様な気配が無意識のなかに、こころと体の底にうごめきだす。この自明であった生活の揺らぎと、体調とか睡眠の障害という身体の揺らぎが「柵」を越えた時が、あらゆる精神疾患の入口だと森山は言っていると思います。
会社やクラスや地域での悩み苦しみは、幻想論でいえば「共同幻想」にこだわっていく過程です。これが「精神分裂病」今は「統合失調症」と呼ばれている精神疾患へ続いていくものと森山はみなしています。分裂病にはいろいろな症状があるわけですが、これが森山の創見ですがいろいろ並列されている妄想のうち「迫害妄想」を典型的な分裂病の妄想だとみなしていることです。もうひとつ大事なことがあります。それは「迫害妄想」は「支配妄想」とセットというか、不可分なもので、それはぐるぐると回る妄想の切り替わり、転換をなしているということです。迫害妄想から支配妄想へ、支配妄想から迫害妄想へというように。そして相反する妄想が、錐をもむように、明滅するライトのように渦をまいて進行し悪化していく。これを「スパイラル」と森山は名づけています。このスパイラルのありようは「躁鬱病」でも同様です。「躁鬱病」でも躁と鬱はセットであり明滅するライトであり、「スパイラル」を渦巻かせながら悪化していくと森山はみなしています。なぜでしょうか。なぜ同型なのか。
これは私の考えなのであてにはなりませんが、もう一度「誰にでも」あてはまる心の普遍性に戻って考えて、わたしたちの悩み苦しみは「幻想論」のそれぞれの領域の接触面で生じるからじゃないかと私は考えます。こころと体は一つですから、ひとつのこころの中の共同幻想へのこだわりは、ひとつのこころのなかで自己幻想や対幻想への領域と接しています。接しているというか混ざっているわけでしょう。だからもともとその三つの領域の矛盾や対立や逆立があるので、そこが悩み苦しみの「誰でも」の普遍性を作っています。だったら共同幻想にこだわり引き寄せられるひとつの心のなかには、別の領域から引き戻し抵抗する力も働くんじゃないか。それが統合失調症躁うつ病の葛藤、スパイラルを作っていると私には思えます。
てんかんはじゃあどうなってるんだ?ということがあります。てんかんは「対幻想」にこだわることから発病していくと森山は考えています。ところで「対幻想」は奥さんとかダンナとか恋人との関係ですが、根源的は胎児・乳児・幼児と母親との関係から始まります。だったら「対幻想」こそはてんかんに限らずもっと根源的な精神疾患の土台ではないかと考えますが、申し訳ないけれど森山のてんかんについての考察を読んでいないしそれがあるかどうかもわからないので、棚上げしておきます。
「自己幻想」にこだわると森山が考えている「躁鬱病」についても簡単に解説すると、「躁鬱」はひとつはセットで考えなくてはならないということです。「うつ」が大きく取り上げられ、「そう」が取り上げられることが少ないのは、「そう」が見逃されやすいからだというのが森山の考えだと思います。「そう」は言ってみれば「イケイケ」の状態です。少ない睡眠で、やる気マンマンで、誰にでも話しかけ、気さくで元気でアイデアが次々に湧いてきて、自信満々、オレは天才だという高揚感に満たされた状態です。会社にとってはもってこいの状態です。「課長、すげーな。一生ついていきますよ」みたいな。しかしその課長は数か月後に失墜してうつに転移します。だから社会の規範に合致してみえる「そう」は見逃されやすく研究する人も少ないけれども、それは必ずあり、「うつ」とセットで「スパイラル」を描いて悪化する、というのが森山の創見だと思います。
また「うつ」は、自己と自己との関係(自己幻想)ですから、その葛藤は理想とする自己と「ダメダメ」な現実の自己との葛藤から来るんだと言っています。
またさきほどあっさり「迫害妄想」と「支配妄想」というように「妄想」について触れましたが、「妄想」に入るか入らないかは森山の「疾患の進行論」にとっては重要な区分です。「妄想」が出る以前の「気になってしょうがない」「そのことばっかり考えている」という状態は「念慮」といって、「妄想」の以前の段階です。「念慮」と「妄想」がどう違うかといえば、それはまた「誰でも」ありうる人間の心身の相関性に戻って考えますが、人の覚醒と眠りという「誰でも」繰り返す日々の心身の普遍性に基盤を置いていると森山はみなしていると思います。
森山はとても面白いことをふっと書いています。まあ(ふっと)じゃないんでしょうが、文脈からいうとそんな感じです。森山は人間にとって覚醒していること、現実意識がはっきりしていること、吉本がいう「了解」がしっかりしていることが人間の本来のあり方だとされているけれども、それは疑わしいと短い言葉で書いています。長い人類の歴史から考えれば、覚醒時の意識が本来のものだということは疑わしいんで、逆に半覚半眠の状態、あるいは白日夢の状態とか、眠ってみる夢の状態というもののほうが人間の本来のありようではないか、と言っていると私は思います。少なくとも入眠状態、半覚半眠の状態、白日夢の状態、また夢の中というものを、にんげんのあり方として復権したいというのはきっと森山の思想です。きっとそれは思想というよりも、森山が長い長い時間を精神病者とつきあってきた臨床医としての実感からきているものじゃないかと思います。こういうところも森山公夫の面白いところです。
さて「妄想」の段階で睡眠の世界と覚醒の世界の入り混じった領域に入り込んだら、神経症者から精神病者と呼ばれることになります。精神病者になった白日夢のひとは、さらに睡眠の世界に浸食されて「夢幻様状態」に入り込むと森山は述べています。もはや現実は遠ざかり、「夢」が覚めていよと寝ていようと心身を支配します。
「念慮」では現実意識がまだ強いので、クラスの人気者で仲良しだったあの子が、あるいは会社でお世話になってかわいがってくれた上司が、がらりと変容していまや自分を嫌って、バカにして、うとんじているんじゃないか?ということが気になって気になってしょうがない、眠れないという段階です。それが「妄想」になるとさらに眠りが浅くなり、疲れ果てて「夢」の世界が現実意識を犯しはじめます。クラスや会社のなかだけの問題だったはずなのに、商店街であったおばさんたちや、タクシーの運転手や、テレビのアナウンサーまでが自分にあてこするようなことを言ってくる。これは話が大きくなっている。もっと大きな共同体が、「組織」が自分を迫害しようとしているんだ、というように現実意識を離れてとこで形成される考えが「妄想」です。やがて壁の向こうからも、空の上からも言葉が聞こえる。「幻聴」や「幻覚」も現れます。そして重要なのはこうした「迫害妄想」には、逆に自分が「組織」を支配しているのだという「支配妄想」がわかりにくい形でともなって「スパイラル」を作っているんだというのが森山の考察だと思います。
そしてとうとう夢が現実意識を追っ払ってしまうと「夢幻様状態」です。もはや現実とどこかでつながってる「組織」の妄想は越えられて、「宇宙」のような最大限の夢的なイリュージョンが信じられてきます。あるいは「地獄」。人間の描きうる最大限の想像力と夢の内容が覚めて暮らしている生活のすべてを覆う。睡眠は失われ、起きていることと眠っていることが同じになっているような疲労困憊の状態です。人がいれば宇宙人だと思い、神があらわれ、世界は滅亡する。
こうした病態の進行は統合失調症であれ、躁鬱病であれ、はたで見ていれば恐ろしい、異常な、「気が狂った」「どこかに閉じ込めるしかない」という状態で、事実、たいて精神病院に閉じ込められることになります。しかしもとに戻って「誰にも」ありうる心の悩み苦しみと、身体の覚醒と眠り、夢という普遍性のなかで生起していることだ、というのが森山の考えだと思います。妄想とか極度の異常な重度の妄想といったって、それは人間の夢と想像力が生み出したもので、恐ろしい異世界からやってきたバケモノじゃないということです。怖がることはないわけです。それが「了解」が「空間の関係づけ」とともに存在する「人間力」のある精神病者への理解というものだと私は考えます。
森山はつまり精神分裂病統合失調症)を迫害妄想と支配妄想のスパイラルとしてとらえ、迫害妄想と支配妄想を一括して「関係妄想」と呼んでいます。だから精神分裂病を改名するなら「統合失調症」よりも「関係妄想病」としたいというのが森山の本音なんじゃないかと私は思います。ともあれ、森山の功績は精神疾患を吉本の幻想論によって心の普遍性と、身体の普遍性のもとに位置付ける仕事をしたことだと思います。そうはいっても現在の精神医学の主流は精神病を身体のつまり生理の異常に還元して向精神薬を売りまくりたいという流れのなかにあって、森山は傍系なんだと思います。しかし真実はいつか勝利するでしょう。