それで人間は虚無のうちにのみ存在すると言ふことが出来る。(下町)

「それで」というのはどういうことかというと、私の考えでは信じるということができないということだと思います。吉本は敗戦によって信じるものがなくなったということじゃないでしょうか。あるいは信じるということ自体に疑問が湧いたということです。現実という外部に向かって認識を広げ、現実を認識でつかみたいわけですが、つかみきれないわけですよ。だから「よくわからない」ということが現実に対する正直な内面のありさまだと思います。「わからない」という状態は虚無というか、よるべない不安な状態でしょう。だからわからないくせに、無理にわかろうとすれば誰かのいうことを信じてしまうしかないわけです。そして敗戦などで信じていたことから決定的に裏切られた、だまされたという痛い経験をすると、もう信じることができなくなります。あとは「わからない」という虚無に耐えるだけです。そして耐えながら認識を広げていく。「押忍」のこころですね。状況が決断を強いるときに、つまり戦争になりそうだとか、世論が二分されて大騒ぎになるとき、つまり現在のような状況になると「わからない」ということに耐えるのは、いっそう不安になります。しかし正直にわからないことはわからないとして、わかっていることについては率直に語る。吉本はそういう姿勢を貫いていったと思います。
そんなところで勘弁していただいて、吉本の分裂病理解の解説に移らせていただきます。前回、吉本と森山公夫の対談本「異形の心的現象」を取り上げようとして、そのために森山公夫の分裂病統合失調症)の解説をしました。その後、森山のうつ病理論も知りたくて「躁と鬱」(森山公夫著、筑摩書房2014)を読んだんですが、だんだん森山公夫ってのはたいしたもんだなと思うようになりました。
なにがたいしたもんだと思うかといえば、森山の構想である「汎精神疾患論」です。森山は吉本の幻想論を根底において、3大精神病である躁うつ病統合失調症てんかんをひとつのものとして理解する筋道をつけています。これがすごいと思うんですよ。この森山の理論が間違ってるのかどうか、それは私になんかわかりません。けれども、独自の統一理論をとにかく描いて学者としての存在を賭けて公表しているわけです。森山は学者ですから、精神病理論の学説史をしっかり勉強していますし、それを解説して自分の理論と過去の理論史のつながりを示しています。だから独創といったってそれは「百尺竿頭一歩を進む」という過去の文化の蓄積に何かを加えたということだということはわかります。しかし確かに一歩を進めたんだと私は考えます。それが間違っているとしても、理論である限り後から来るものの批判的検討の役に立つ仕事じゃないでしょうか。吉本の理論を自分の学説の根底におくというのは、おそらく吉本が学会で無視されるのと同じ理由で、森山を学会の主流から外すことになるんじゃないかと思います。しかしもはやそんなことには頓着しないんじゃないかと思います。それだけでも立派なものですよ。
「汎精神疾患論」が面白いので先週に引き続いて解説してみます。てんかんについての森山の本は読んでいないので、主に躁うつ病統合失調症についての統一理論になります。精神疾患をひとつのものとみなすには、根底において同一のものがあることを示さなければなりません。森山はなにを同一の根底とみなしているでしょうか。
それはまず精神疾患とか精神病と呼ばれているものが、誰でもが生きていて抱く苦しみや悩みの延長上に生じるものだという理解です。誰ものこころはその人にとってはひとつのものです。さまざまに分析できるとしても、ひとつのものとしてあなたや私のこころはある。それが同一性の根底のひとつだと私は考えます。
誰もが生きることで抱く苦しみや悩みの延長に精神疾患をおく、ということは精神疾患を生理的なものに還元したり、遺伝に還元したりすることへの批判を含んでいるわけです。生理的なもの、たとえば脳内の生理とか、遺伝に還元しないということは、それを全否定するということではありません。還元しないということは、主たる原因とはみなさないということです。あくまでも精神疾患の本体は、誰もが人生で抱く悩み苦しみのなかに潜んでいるという確信を森山はもっていると思います。
では、同一のこころが悩み苦しんで、その延長になぜ別々の精神疾患があらわれるのか。入口が同じなのに、どうして別々の病気に分かれるのか。同じディズニーランドに入口を入ったのに、ある人はトゥモローランドに行き、ある人はアドベンチャーランドへ行くのか。その機微を森山は「個人的資質や発病状況のあり方により、そのいずれかが前景化するかで、病気のタイプが異なってきます。その意味で、精神疾患とは一つで、型の違いがあるだけです」と言い切っています。型の違いとは3大精神病のそれぞれの病気の違いです。
ここまでくれば問題は、誰もが悩み苦しむこころというもののは根底的にどうなっているのかが問われます。そこで森山は吉本の幻想論こそが、誰もの、つまり普遍的なこころのあり方の根底を分析できる理論だというのです。同一の精神疾患への入口をくぐって、なぜある人は統合失調症といわれる病態になるかといえば、それは吉本の幻想論でいう「共同幻想」にこだわるからだ、ということになります。またなぜある人が同じ入口から躁うつ病といわれる病態を示すのかといえば、その人が「個的幻想(自己幻想)」にこだわるからだ、ということです。そしててんかんはその人が「対幻想」にこだわるからだ、ということになります。
しかし人のこころはその人にとってひとつのものだから、ある人は共同幻想にこだわると同時に個的幻想にこだわるということもありえます。またある人は個的幻想にこだわりながら、対幻想にも共同幻想にもこだわる、ということもありえると思われます。だったらそのとき、個別の精神疾患とされていたものは、実は複合して現れるんじゃないでしょうか。そしてそういうことは体験的には、あるいは実感的は大いにあるように私は感じます。複合されたあらわれは普通にあるよ、ということです。
森山の汎精神疾患論は、精神疾患の同一の入口はなんなんだ論と、別々の精神疾患に分かれたあとにも別々の精神疾患の進行の段階にも同一のものが現れるはずだ論、とのふたつに分けてみることができると思います。精神疾患が人のこころのあり方の普遍性に主たる基盤をおいて、けして生理的な異常や遺伝を主原因にするわけではないとみなす以上、別々の精神疾患の進行についても、人のこころの普遍性から同一の根底が見いだされるはずだというのが森山の構想だったと私は考えます。
その別々の、つまり躁鬱や統合失調やてんかんの進行の根底をつかさどる人のこころの普遍性とは、人の眠りと覚醒の普遍性、夢と清明意識(現実意識)の普遍性というものなんだと思います。
どういうふうに、てんかんはよくわからないので棚にあげるとして、躁うつ病統合失調症の疾患の進行過程はどのように根底が同一かというと、ともに3段階に分かれるということです。躁鬱病は自分自身にこだわり、統合失調症は共同体のなかの自分のあり方にこだわり、躁鬱病では対人恐怖を主たる症状として森山はとらえていますが、妄想が発生するまでが第一の段階としています。これは統合失調症でも同様でやはり対人恐怖があるわけです。しかし対人恐怖のありようは躁鬱と統合失調症では違います。
おおざっぱに第二段階に移ると、それは妄想の生じる段階です。躁うつ病でも統合失調症でも妄想が生じる段階が同一だということです。さらに第三段階は森山は「夢幻様状態」と呼んでいますが、完全に外界と切れて、夢の世界に四六時中閉じ込められているような状態になります。
詳しく解説すればいろいろ書かなければなりませんが、この三段階論、妄想形成までの対人恐怖の段階と、妄想が出現する段階と、夢幻様状態の段階、現実のなかに妄想があるのではなく妄想自体が現実と化してしまう段階までの精神病の進行の三段階が躁うつ病統合失調症において同一だと森山は述べています。
逆に、では最初はひとつの門である精神疾患の入口の同一性とはなにかということになります。それは「共同体のゆらぎ」と「生のリズムの変調」だと森山はとらえていると思います。「生のリズムの変調」というのは端的にいうと「睡眠障害」です。眠れないということです。「共同性のゆらぎ」というのは、現実の地域共同性とか家族の共同性とかが崩壊しつつあるということにも影響されて、その人の内面の共同性がゆらいでいくということです。簡単にいえば孤立感、孤独感、疎外感を感じるということになります。孤立感の深まりと睡眠の障害が根底にあって進行していくことが、躁鬱と統合失調症を問わず精神疾患の入口の同一性となると森山はいいます。
こうした森山の仕事に対して吉本は大きな評価を与えています。しかし吉本の自分の思想からくる批評もあるわけです。それが「異形の心的現象」の対話のなかに流れている内容です。吉本はこうした森山の精神科医としてあるいは学者としての集大成の理論に対して、なにを是として何を非としているのか。やがてそこに触れながら吉本の分裂病理解の解説に入っていきたいと思います。