行為は無償である。あらゆる名目にもかかはらず無償である。行為はそれ自体では決して集積作用を持たないから。集積されるのは行為の作用だけである。作用にはあらゆる人間性が疎外される。(形而上学ニツイテノNOTE)

これは正直いってよくわかりません。たぶんこれはマルクスの「疎外」という概念を理解しようとしているんじゃないかという気がします。こちらがわに人間があり、その外側に自然がある。人間が自然に対して働きかけること一般が、ここでいう「行為」の意味なんじゃないかなと思います。行為という言葉からふつう連想されるような特殊な行為ではなく、自然への働きかけ一般という原理的なことを「行為」といっていると思います。人間が自然に働きかける(行為)によって、自然は人間化される。このことをマルクスは人間が全自然を自分の「非有機的身体」とする、という言い方でいっています。いっぽうで人間が自然に働きかけたことで、自然もまた人間に影響を与えます。マルクスはこのことを、全人間を自然の「有機的自然」たらしめる、という言い方でいっています。吉本はマルクスの疎外概念を、この全人間と全自然の相互の絡み合いのなかから生じるものとみなしていると考えています。
ところで動物だって植物だって自然に働きかけるわけです。そういう意味では動植物にも微生物にも「行為」はあります。では人間の人間たる本質、動植物とは異なる本質はなんだろうというと、それは人間的な精神性というものだと考えます。この人間的な精神があらわれる原理的なものが「疎外」という概念なんだと思います。それが吉本がマルクスの疎外概念に固執する理由です。つまり吉本はマルクスの思想を追って、人間と自然の関係から人間的な精神が発生する原理をつかみたいわけです。たぶんそれでこういうどしちめんどくさいことを書いているんだと私は考えます。
生命体が自然に働きかける、という場面だけを切り取れば、そこにはまだ人間的な精神は発生していない。それを「無償」という言葉でいっているんじゃないかなあ。違うかもしれないけど。動植物の自然への働きかけはそれ自体では集積作用をもたない。つまりその時その時の働きかけであるだけだ。集積作用は自然の側にある。つまり自然への働きかけによって変化していく自然の形があるということじゃないかなあ。しかしそこでもまだ人間の精神の発生は存在しない。だからそれもまた「無償」なんだ、というようにじわじわ何を追いつめたいかというと、人間的な本質である精神とか心的内容とかがどこから発生するかを追いつめたいんじゃないかと私には思えます。まあそんなところで勘弁していただいて、吉本の「うつ」理解の解説のほうへ移らせていただきます。
ネタ本というか、この解説のもとになっているのは、吉本の「心的現象論本論」の「関係論」という大きな章です。この「関係論」のなかに「<うつ>という関係」と「<うつ>関係の拡張」という小さな章があります。現在の解説は「<うつ>関係の拡張」という章を扱っているわけですが、吉本は「うつ」というものを幻想論の三つの軸である「対幻想」と「共同幻想」と「自己幻想」に分けて、それぞれに考えなくてはならないという方法をとっています。それで「対幻想」と「共同幻想」における「うつ」のあらわれ方というものを解説してきたわけです。
たしかに「うつ」の個人がいて、その人が他の一人の人間と広い意味での性的な関係のなかに張ったときに「うつ」の対幻想におけるあらわれ方がある。また社会的な関係のなかにおかれた「うつ」の個人にも「共同幻想」との関係における「うつ」のあらわれ方がありうる。しかし、それらは「うつ」が発生する本来的な関係とはいえない。それらは「うつ」の影なんだと吉本は述べています。そこで本来的な「うつ」が発生する関係は、「うつ」の人自身の自身に対する関係にあるんだとみなされます。「うつ」は「自己幻想」における異変に本質があるということになります。
ということは対幻想における「うつ」のあらわれは、「うつ」そのものの原因ではなく、「うつ」の影があらわれる場なんだということです。このことはちょっとほっとする理解を含んでいます。あなたの恋人が「うつ」であった場合、あるいは奥さんやダンナや友達が「うつ」であった場合、その「うつ」さんはあなたにさかんに要求したり、攻撃したり、嫌悪感をもったり、罪責感をもったりする。「うつ」さんとつきあったことのある人にはわかるでしょう。そしてその結果、あなたは落ち込むことになります。あんたのせいでわたしはこんなに「うつ」になったんだ、みたいなことを言われるからです。あたかも他者との関係から「うつ」が生じたというようにいうわけですし、それがまた「うつ」さんがまさにそうだと感じている理由であるからです。
しかしながら、吉本は他者との関係における「うつ」のあらわれは、自己と自己との関係から発せする本来的な「うつ」の影にすぎないんだとみなしています。つまりその「うつ」さんの「うつ」は、他者のありかたのほうに責任があるとおもわれる例はかんがえられないし、他者を非難し他者を責めている場合でも、じつはじぶんあるいはじぶんの影を責めたり非難しているのだと吉本は述べているわけです。
しかしここが重要ですが、「うつ」である人は自閉しているわけではない、ということです。また外側からは、まったく了解が不可能である心的な世界を抱いてしまった、ということでもないということです。あくまでも他者との関係の意識に立ちながら(というより、立つがゆえに)自分の投影、つまり「影」を責めたり非難したりすると吉本は述べています。なにが重要かというとおそらくそれが分裂病うつ病の違いだからだと私は思います。「うつ」病は「関係」に憑かれた病気なんでしょう。
他者や社会との関係において、自己とではなく自己の表出としか関係できない状態にある。これが他者との関係における<うつ>病の特徴ということができる。
(「<うつ>関係の拡張(3)」吉本隆明
さて、上記の引用のなかの「自己とではなく自己の表出としか関係できない状態にある」という文章が重要です。「うつ」の本質は「自己幻想」にある。「対幻想」や「共同幻想」にあらわれる「うつ」は自己幻想に本質をもつ「うつ」の影としてあらわれる。しかし「自己幻想」とは自己の自己との関係の領域ですが、その「自己幻想」の異変として自己が自己自体ではなく、「自己の表出」としか関係できない状態にある、ことが「うつ」だと吉本は述べているわけです。自己が自己の表出としか関係できない、というのはどういうことか。
いよいよ吉本の「うつ」理解の核心に近づきました。おめでとうございます。吉本はこの自己が自己の表出としか関係できない、という「うつ」のあり方について、「<うつ>関係の拡張」という章の(3)から(9)にかけてじっくりと追求しています。これがわかれば「うつ」というものがわかるかもしれません。「うつ」が根本的に理解できれば、わたしやあなたがその人生のおおきな部分を費やして振り回され、悩まされ、アタマにきている「うつ」さんたちとの泥沼のあり方に光が射すかもしれません。それですぐにどうにかなるわけではないとしても、(わかった)という了解の稲妻は少なくとも心の世界を変貌させます。そこにいきたい。これは私にとってもあなたにとっても現在ひじょうに切実な日々の問題だからです。そうでしょ?そうに決まってるよ。
しかし悲しいお知らせもあります。ここからの吉本の「うつ」理解の核心は、今までに増して難しいので、正直言ってわたしもよくわからないんです。これがスッキリわかったらたいしたもんだと思うんですが、だれか俺にまかせろ!という人がいたら代わってほしいと思います。
結論からザクっといえば、自然には自然を流れる「自然的な時間」というものがあるとします。日が昇り日が沈み、夏が過ぎて秋が来る、そういう自然的な時間の流れです。いっぽう人間には自然的な時間と異なる「内的な時間意識」があるとします。しかし、自然的な時間と内的な時間意識とも異なる「表現的な自己の時間意識」というものがあるとするわけです。これがこれから考えていこうとする概念ですが、この「表現的な自己」とか「表現的な時間意識」の異変が「うつ」の根源であるというのが吉本の「うつ」理解の核心だと思います。ここをじっくり腰をすえて、わたしのような凡人がわかったと思えるまで根気よく考えていこうと思います。つきあいきれないと思う方は原文を読んでさっさと理解されることをお勧めします。ではまた次回。