聴きたまへ。貧しい僕の仲間たち。だが並外れた期待は禁じられてゐる。地上に存在するすべてのものは僕たちのために存在するのではなくて、僕たちがすべての存在のために存在してゐるだけだから……。(夕ぐれと夜との独白(一九五○年Ⅰ))

こういう「聴きたまえ」みたいな口調はヨーロッパの文学の翻訳文の模倣でしょう。若き吉本にもヨーロッパの文化へのあこがれや陶酔があったのだと思います。それは吉本のナルシチズムでもあるんだと思います。しかしそういうナルシチズムは現実意識と反省意識が粉々に打ち壊してしまい、素地である月島の庶民の育ちである吉本と、論理と表現をぎりぎりと煮詰めていく吉本がその文体を作るようになります。
自分たちがすべての存在のために存在しているというのは、倫理的なことを言っているのではなくこの現実が国家や資本によって占有されているということを言っていると思います。自分たちは生産の全体に関与することはなく、一票を投ずる以外に政治に関与することもなく、文化の創造や流布に関与することもない。大きく管理され、支配され、与えられる世界支配のなかで、国家や資本に支配され、雇用され、あやつられ、だまされて卑小に生きていくだけだということになります。この占有された現実を一般大衆が奪還するという途方もなく遠い夢が吉本の生涯の夢であったと思います。
それではこんなところで吉本の「うつ」理解の解説に移らせていただきます。これは「心的現象論本論」の「<うつ>という関係」と「<うつ>関係の拡張」という「関係論」の章をタネ本にして解説しています。前回の解説までで、吉本の「うつ」理解の核心は取り出しています。それは自分の内的意識というものと表現的な自己というものとの二重性を考えると、内的意識と表現的な自己との関係が異常になるところで「うつ」と言われる状態があらわれる、ということです。
表現的な自己というのは自分が生み出す言葉によって形成される自己ということだと私は思います。そもそもそうした表現的な自己は、もやもやとした、様々な知覚や内臓からの感覚が流れ込む海の底のような「こころ」から生み出されます。原始時代にさかのぼれば、原始人がはじめて言葉を生み出したときに表現的自己と内的意識の関係は始まったことになります。
表現的自己と内的意識の関係の異常が「うつ」の本質だとすれば、正常な関係とはなんでしょう。それは表現的自己と内的意識がゆたかなやりとりというか、反すうというか、表現的自己が内的意識を汲み上げ、逆に内的意識が表現的自己を含みこんでいくような関係なんだと私は考えます。つまりこころと自分の言葉のあいだにゆたかなつながりがある状態です。それはこころから切り離された言葉が自分を縛る状態ではなく、言葉は常に自分を生み出した母型であるこころへ還り、こころを裏切る言葉を発することを恥とみなす状態です。
異常となった表現的自己と内的意識の関係というのは、結局内的意識であるこころと表現的自己である言葉が分離してしまった状態だと私は考えます。こころから切れてしまった、言葉でできた自分だけが自分であり、いわば養分を失った根のない茎のような、言葉でできた自分だけがあるわけです。この状態は、病的に進行した状態ではなく、軽度のよくみられる状態として考えれば誰にでもおぼえのある状態だと思います。たとえばよく家にやってくる何かに憑りつかれたような宗教の勧誘とか、あつかましい営業社員のトーク。言葉はあるし、よくできているかもしれないけれど、「あんたほんきでそう思ってるの?」と言いたいような言葉のむなしさがあります。あるいはテレビの討論番組などでみかけるいわゆるインテリの言葉。言っている言葉は分かるけれど、なにもこころに響かない。言っているそいつの生活とか生い立ちとか体験とかがいっさい言葉にこもっていない。どこかの本や情報からだけ出来ているような整然とした、しかし面白くもおかしくもない根無し草の言葉というものです。あるいはニュースで取り上げられる、詐欺師がセミナーなどでカネ集めをする時の言葉。それは欲望とか不安という不定形の内的意識に働きかけ、一方で現実ということから考えれば「おまえに都合のいい現実だけを切り取ってだまそうとしているだけじゃないか」と非難できる言葉です。それにだまされる人たちは、その人たちも現実から内的意識が受け取っている現実感覚を見失っている人ではないかと疑われます。こうした状態がが進行すれば、「うつ」の病態に入っていくと考えることができます。
さてそれで、吉本が「心的現象論本論」で述べている「うつ」の分析は全体としてどうなっているのかを把握してみたいと思います。「<うつ>関係の拡張」の章によって吉本が述べていることは、まず「うつ」の本質として表現的自己と内的意識との関係の異常があるとして、その関係の異常はまず表現的自己である言葉の「時間性」の異常としてあらわれると吉本は言っています。吉本はすべての心的現象や言語の本質を「時間性」と「空間性」とに分けて考えます。「時間性」というのは「了解性」のことで、「空間性」というのは「関係性」のことです。そういわれてもピンとこないかもしれませんが、それは当然なんでだんだんにやっていきましょう。「了解性」というのは「わかる」ということでいいとオッサンである私は考えます。「時間性」の異常ということは「わかる」ということの異常です。吉本が例としてあげている「わたし・は・ずっと・憂鬱・で・あっ・た」という品詞分解された言葉があります。これは表現的自己であり、この文章の「わかり方」というのは「時間性」である「了解」です。この「わかり方」の異常は、この語順の固執というところにあらわれます。つまりカチンコチンにこの言葉通りにしか「わからない」ということです。まるで教祖様のお言葉を信じこむ魂の抜けた信者のように、その言葉はそのまんま、一字一句の変更も許されないというように固執されます。そのようなカチンコチンの言葉に縛られるということは、一方ではその根源は乳幼児、あるいは胎児期にさかのぼる母親との関係にあるということでしょうし、もう一方では内的意識である自分のこころとの通路が断ち切られたということを意味しています。たとえばオウム真理教サティアンの生活とか、洗脳セミナーの合宿とか、軍隊とかは人工的に内的意識から個人を切り離し、教義や命令の言葉に従わせようとするそれなりに人の意識のしくみを悪用した方法なんだと思います。
そして表現的自己である言葉へのカチンコチンの固執は、時間性(了解)の異常ですが、その言葉の意味を実現しようとすると現実のなかで実現しようとするわけです。前回の解説で書いたように吉本が取り上げている「うつ」の症例では、「夫や子供に恥をかかせてはならない」という父母や嫁ぎ先の家から与えられた言葉を文字通りに受け取り、その語順の変更も許されないという狂信者のようになっている農家の主婦が、その信仰のような「言葉」の「順序(語順)」への固執を現実化しようとして、家族の衣類を全部自分で手作りしようとしたり、夜遅くまで麦わら帽子にローソクを立ててまで農作業をするという行動に出る。これは「表現的自己」の「了解の時間性」である「順序(語順)」への固執が、現実化(空間化)されたもので、これを「完備(コンパクト)」と吉本は名づけています。言葉の「順序」へのカチンコチンのこだわりは、とうとう実際に行動として「完備」つまりカンペキな行動をとろうとするということです。
ところが「完備」にまで進むと、現実にぶつかります。そしたら絶対挫折するわけですよ「完備(コンパクト)」というもの、つまりカンペキ、完全主義のこだわりというものは。 何百人の入信者を獲得すればアンタは救われるとか、何百人の契約者を獲得すればアンタは大儲けできるとか、そういう植え付けられた思い込みも現実に行動すればすぐに挫折します。
この挫折を吉本は本質的に説明しています。それは現実は思いどうりにいかないとか、人間はどこかで休息したり手を抜くからということではないというのです。それは本質的に表現として生み出される概念を、そのまま現実化することは不可能なのだと述べています。言葉としてあるものと、それをそのまま完全に現実化するということの間には空隙があって、それは不可能なことなのだということです。心で願えばかならず現実になる、みたいなことを言う人はいますが、それはウソですよ。それは当然ながら現実という構造が立ちふさがるからです。言葉にこだわって現実化しようとしても、それと違った結果(としての現実)が生まれることもあれば、まるで逆の結果をうむこともあるわけです。「マチウ書試論」で吉本がマタイがイエスを裏切るところで述べたこととも共通します。信仰の言葉とその現実化のあいだには不可能という壁があるということです。
それで、「完備」の欲求は崩壊します。すると「順序」と「完備」という表現的自己の異常性である「うつ」の原型は崩壊するわけです。その崩壊の態様を吉本はさまざまな「うつ」の症例につきあわせて論理づけようとしています。それが「<うつ>関係の拡張」の残りの主題であって、それで吉本の「心的現象論本論」の「うつ」理解は終わっていると思います。では、そうした表現的自己と内的意識の異常性はなんで起こるんですか?という疑問がうまれます。
そのまえに吉本の述べる「うつ」の原型の崩壊過程としてのさまざまな「うつ」の症例の論理的な分析という解説はしていきます。しかし、ではその原因は?ということはお気楽な読者という立場から湧いてくるわけです。そこは「母型論」で追求したんですよ、というのが吉本の言い分であるように思います。では「母型論」でも充たされない疑問は?ということになれば、もはや吉本は冥界のひとですから、それは貴方たちが自分なりに追求してくださいと吉本は言うでしょう。え?っていう感じですが、そのとおりなんで、吉本が追求しきれなかった課題はアンタや私が及ばずながら考えていくしかありません。「うつ」とは何か。なんで「うつ」はこんなにもはびこり私たちを日々苦しめるのか、という問題は、吉本からくみ取れるだけのものを汲み取らせてもらい、その後は自分なりによちよち歩きで進んでいく。それっきゃないでしょ。