行為の自己写像のみが集積されて人間的となる。だが、それはやはり無償である。(形而上学ニツイテノNOTE)

もう難しいことばっかいうよね吉本は。いやんなっちゃう。これは前半の続きのノートですから、わたしにはマルクスの「疎外」概念を追跡して、人間の人間的な精神というものがどこから発生するかを追いつめようとしているんだと思います。全自然に対する対象的な行為だけを取り出せば、そこには人間的なるものはまだない。なぜなら自然に対する働きかけなら人間以外の生命体でも行うからです。働きかけの作用、つまり自然が働きかけられて変容するありかたにも精神性の発生はない。ここで「行為の自己写像」という概念が登場します。ここにもまた西欧の哲学の流れが背景にあるんだと思いますが、わたしには勉強不足でわかりません。それで人間が自然に働きかける時に、自然もまた人間に働きかける。人間が全自然を「非有機的身体」にするとき、自然は全人間を「有機的自然」たらしめる。そういう相互関係があるときに、たぶん「自己写像」という概念は、自然が人間を「有機的自然」たらしめるという過程を、さらに細分化して考えようとしているんじゃないかなあ。マルクスがいっていないことに踏み込んで、人間の本質である精神性の領域が登場する瞬間を追いつめようとしていると私には思えます。「自己写像」は、自然が人間の働きかけの反作用として人間のなかに与えた「有機的自然」のあり方なんだと思います。しかしそれだけではまだ精神性の発生、人間的本質の発生とはいえない。しかし人間だから自己写像はあるという意味では人間的だけど、やはりいまだ無償だ、というそういうことになるんじゃないかと思うんですけど。こじつけ?

おまけです。
吉本はこむずかしいことばかり書くわけではない、という例です。
「情況への発言」 (「試行」1971年10月) 吉本隆明
「すべての娼婦の願いは、ありきたりの家庭の主婦になることである。すべての浮浪者の願いは、定収ある下層労働者になることである。すべての人身売買や、戦争によって異土でやむなく異族の妻妾になったものの願いは、そこで埋もれることである。古代からこのかた漢族や扶余族や漢族から疎外された中国辺境民は、そのように日本列島に埋もれ、倭人の<生口>はそのように漢族や韓族や扶余族のあいだに埋もれた。わが列島におけるその痕跡は、形質人類学によって現在おおよその分布をたどることができる」