それ故行為は予定を含まない。予定はあらゆる形而上的な規定には含まれない。(形而上学ニツイテノNOTE)

これは前の解説に含ませて書いたことになりました、要するにお手上げに近い状態です。ただこれを読んだ時に、三島由紀夫が行動ということをしきりに言っていて、行動というのはその政治的な有効性を期待してやるものではないんだ。それは不純な行動なんで、純粋な行動というのは結果を求めてやるものではない、ただ動機の純粋性だけでやるもので、それだけがいわばハートツーハートで人のこころに響くんだというようなことを言っていたのを思い出しました。そして三島は腹を切って自死してますから、本気だったんだというしかないと思います。吉本のこの考察のなかにもそういうパッションが含まれているような気がします。意味はよくわからないけれども。次のおまけに引用しますけれども、それは吉本さんの言語理論でいえば「幹と根」という問題だと思います。

おまけです。
吉本の最後の対談集かもしれない本から、おじいさんになった吉本の言葉を引用します。つまりほんとにこれだけは言いたい、っていうことかもしれません。
吉本隆明最後の贈り物」(2015 潮出版社) 吉本隆明

僕はそういうたとえをよく使いますけれども、植物の樹木で、実も花もつけるっていう、そいう樹木っていうのが、人間の、なんていいますか、言葉の一番幹と根にあたるのがそういうことになりますね、それより近くても駄目で遠くても駄目だと、言葉っていうのは、樹木の幹と根なんだと、これはちっともしゃべりはしないんで、幹と根っていう、それだけ。それからちょっとずれるところで言葉を使うと、芸術になったり、遠いところで使うとコミュニケーションになったりするんだけれども、根本の根と幹は樹木と同じで、何もしゃべるとかそういうのはなくて、幹と根だけが、言葉としてある。それだけで、それを根本にすればいいんじゃないかなというふうに、僕は考えます。