2016-01-01から1年間の記事一覧

我々が存在から普遍性を抽出することは正当であるが、その普遍性は何ら有用なものではなくて、唯存在の確認といふ意味を持ち得るのみであると思はれたのである。これは言はば、論理に心理性を持たせるための基礎的な確信であつたと言へる。(〈老人と少女のゐる説話〉Ⅵ)

有用なものではない普遍性というのは、言い換えれば「無償」ということだと思います。「有用性」は何かの役に立つこと、「無償性」はなんの役にも立たないことです。「普遍性」というのは世界中の誰でも納得する正しさです。自然を相手にしても社会を相手に…

夕暗が訪れてきた。台場に二つ、O海岸に数個、船のマストや腹に、灯がつきだした。僕の意想は徐々に暗さを加へてきた。(〈老人と少女のゐる説話〉Ⅵ)

これは吉本の過ごした佃島のあたりの光景でしょう。海があって、夕暮れがくる。誰にもふるさとがあって、その情景がこころの奥のイメージを決定づけているといえるんでしょう。わたしは文京区の山の手と下町の中間のような町に育ち、文京区特有の東大から漂…

思考の抽象作用――その苦痛……。斯くて建築群の間には、具象的実在である街路樹が植えられる。これは明らかに和らぎの作用であらう。(〈建築についてのノート〉)

建築というものは抽象的なものだということでしょうね。人類の最初の頃は、自然のなかで寝起きしていたんだと思います。穴倉とか樹の上とか。それがしだいに自然を加工した板とか柱とかで家を作ることになるんでしょう。もうそこには自然そのものから切り離…

常緑樹は建築群の底ではふさはしくない。何故なら其処で季節を感ずるのは、唯風と空の気配と街路樹とからだけであるから。(〈建築についてのノート〉)

常緑樹というのはいつもはっぱをつけている樹でしょうね。それでは季節を感じにくいから、冬には枯れて、春には芽をだすような樹がふさわしいと、なかなか細かいことを言っています。たぶんこのころ思考の抽象作用のなかに埋没していた吉本にとって、自然と…

僕はすでに詩において学ぶべき先達を必要としなくなつた。僕は充分ひとりで歩ける程成長した。あとは絶対と僕との対決がいつもあるだけだ。(断想Ⅵ)

これはずいぶん思いあがったことを言っちゃったなという感じですね。しかしこういうことを書く理由はわかる気がします。吉本に限りませんが、詩を書こうという人は最初は模倣から始めるんですね。熱心は人はそれこそ自分の尊敬する先達である詩人の詩を書き…

寂寥(せきりょう)は欠如感覚ではない。寂寥は過剰感覚である。(〈寂寥についての註〉)

寂寥といわずに「孤独感」といえば、孤独感は社会に対する強い批判意識からやってくるといえます。批判意識の薄いやつは社会のなかを泳ぐことができます。やあやあ、どうもどうもといいながら。しかし批判意識があればつきあう相手を選ぶし、めんどくさい、…

僕は思考の演習がもたらす効果を知つてゐるわけではなく、そうすることによつて効果を実験し得ると考へてゐるのみである。如何なる作家も作品形成における秘事を明らかにしたことはなく、唯彼等は結果だけを提示したにすぎない。一つの結果である作品から、一つの過程である生成の秘事を発見することは容易ではない。(断想Ⅱ)

吉本がいう思考の演習というのは、たとえば「女性の美しさ」というような任意の命題を最初にもってくるとして、その命題を抽象化して考えて、さらに抽象化して、次には具体化して、さらに具体化するというような論理的思考の体操のようなことをすることです…

注意深く演習することによつて僕が期待する唯一の効果は、一つの段階が終つて他の段階に移るといふことが果して可能であるか、(一般にそれは同時に行はれるから)を検討し得るといふことにある。(断想Ⅱ)

これは思考ということ自体に凝って、思考の跳躍というものがなぜどのように行われるのかを注視しているにんげんの記述です。やはりこれも幻想論につながるものだと思います。思考の跳躍は幻想と幻想の間の跳躍だとも考えられるからです。 おまけありません。

忘却はひとつの選択に外ならない。最も忘却をまぬがれるものは嫌悪である。悲しみも愛憎も決して永続することはない。何故ならそれはたまることはないから。愛憎の思ひ出といふものは総じて在り得べきものではない。これらは過ぎてゆく季節に外ならない。(忘却の価値について)

これは若い時に読んだときにわかったようなわからないような印象でしたが、今読んでもわかったようなわからないような感じになります。確かに激しい愛憎とか悲しみはやがて薄れていくものだと思います。その理由はわたしが思うには、嫌悪というのは対象への…

悲しみは無数の体操の形式をもつてゐる。喜びは単に上下運動とか単純な性質の体操。いかりは全身の緊張で、それは体操の終局。愉しみは小さな緩急律動。(忘却の価値について)

これもいかにも吉本らしい記述です。面白いと思いますが、だからどうということも特にありません。これは自分の思考とか感情とかを自分の論理で押さえたいという執念のある人が書くことです。 おまけありません。

若し自由といふものを現実的に規定するならば、それは本能に帰着する。斯かる規定は形而上的ではなく、形而下的となる。即ち社会学乃至は経済学に帰着される。(形而上学ニツイテノNOTE)

自由というものを人間にとっての自由と考えれば、それは人間の人間的な欲求を充たすものということになりましょう。人間的な欲求を人間の本能と言い直せば、自由は人間的な本能が規定するわけです。人間的な本能は動物的な本能を基底にして、そこに人間的な…

社会学乃至経済学を原理的に規定するものは、生理学乃至は生物学である。(形而上学ニツイテノNOTE)

人間の人間的な本能に社会が規定されるならば、生理学とか生物学が人間の本能を追求するのだから、社会学も経済学も生理学、生物学に規定されるということを言っているわけです。こうした学問の枠を超えた追求の姿勢が、人類の歴史を胎児期の人間のあり方に…

静寂のうちに用意されたひとつの悲しみ。精神は空の色のなかに昔々秘されたひとつの予望を堀り出さうとしてゐた。僕は沢山のことをしようとは思はず、唯ひとつのことをしようと思つてゐた。赦された者は幸ひであるかな。(忘却の価値について)

これだけ読んでもなんのことやらわかりませんよね。わからなくて当然だと思いま す。ひとつの悲しみとは何なのか。ひとつの予望って何なのか。唯ひとつのことって 何なのか。赦された者ってどういうことか、「さっぱりわからない」(BY福山雅 治)吉本らし…

もう何の危惧もなくなつてゐる。残されたものは唯ひとつの可能だけだ。(忘却の価値について)

唯ひとつの可能って何?それは言わないわけですよ。ああアレだろうな、と思えばつ まりたぶんソレだろうねということです。なんでも言えば済むわけじゃない。言わな い言葉、言えない言葉を聞くという、それが大衆の無言のことばを聴くということで もあるん…

実践はいつも動機だけに関与されてゐる。そして人間史は無数の動機の、しかも悲哀ある動機の連鎖のようなものだ……と。これだけは僕の心情が、政治史や経済史から保存しておくべきだと思ふ唯一の痕跡だ。それで僕は虚無の歴史の如きものを僕の精神史のなかにも持つてゐると言はう。(夕ぐれと夜との独白(一九五○年Ⅰ))

動機、つまりこうしたいとかこう生きたいというような動機があって人は行動する。つまり実践する。しかし現実とぶつかって最初にこうしたいと思ったような結果にはならないものだと吉本は述べています。現実のほうから働きかけてくる力があって、その力と動…

神への信仰と従属。それはやがて権力と貪らんへの奉仕を人に教へるのではなからうか。(エリアンの感想の断片)

このたった一つのことを信じ込むということの怖ろしさは、キリスト教だけでなくマルクス主義でも同様だということが初期ノート以降の歴史でも証明されたのだと思います。権力と貪らん、あるいはスケベとか不倫とかいじめとか、男女とか集団内での愛憎のすさ…

且て個性の運命を社会学的に解析し得たものはない。否これは解析することは不可能だ。だが解決した者は在る。如何にして?それは行為といふ単純で重たいものによつて。ここでも人は現実といふ魔物に出会ふ。(原理の照明)

あけましておめでとうございます。今年もつたない解説をしていきますので、よろしくお願いいたします。さてこの初期ノートの文章ですが、あなたならあなたの個人としての運命を社会的な面からだけ確定することはできないということを言っていると思います。…

批評家は論理が個性と出遭ふまで待つてゐるべきだ。それ以前に表現されることはすべて生のままの素材にすぎない。如何に多いことか。市場は彼ら似非批評家で黒山だ。(原理の照明)

こうした考え方の出どころはたぶん小林秀雄の宿命論だと思います。個人にはすべて自己資質という根深い「宿命」があり、それを見出すのが批評なので、それには批評家自身の自己資質または「宿命」の発見が前提とされるという考察です。吉本はさらにその宿命…