〈思考の体操の基本的な型について〉 第二型 抽象されたものを更に抽象化する演習 第三型 感情を論理化する演習 論理を感情に再現する演習(〈思考の体操の基本的な型について〉)

初期ノートのこの部分は以前にも解説したと思いますが、若い吉本が論理というものにいかに凝っていたかがわかる部分です。スポーツに凝った人がゲームだけではなく、素振りをしたり握力を鍛えたりしようとするように、吉本は論理的に現実の問題を考えるだけでは飽き足らず、論理自体の体操、論理の素振り、論理のシャドウボクシングのようなことをしているわけです。

そこまでするのは、西欧というものに正面から向き合おうとしているからだと思います。日本は鎖国を解いて明治以降に本格的に西欧と向き合ったわけですが、そこには目もくらむような文化文明の格差があったと思います。その西欧の水準に到達するには西欧が経てきた時間を日本も辿るしかない。しかし論理なら西欧に水準に到達することができると吉本は考えたと思います。

そして日本も含むアジアが西欧に征服され、植民地とされて収奪されてしまった最大の理由も論理の欠如にあると吉本は考えたと思います。アジア人である吉本が論理を身に着けて西欧の水準に到達するには何が必要か。それにはまず論理学が扱うように、論理という領域の全体の骨組みを把握して要素を取りださなければならない。その要素を取りだしたものが、この初期ノートの論理の体操に取り入れられていると思います。論理自体の構造を把握してまんべんなく論理を駆使する。取りこぼしがあってはならない。

さらに西欧の論理の核心にあるものを知らなければならない。なぜ西欧で論理が発達し、アジアにおいては発達しなかったのか。その秘密に当たるものが西欧の論理の核心に存在する。論理性が根を広げ幹を伸ばし葉や花や実をつける根源にある胚珠のようなもの。それは何かという問題です。吉本は後年、その西欧の論理の中心にあるものの解明にも取り組んでいます。

そんなところで吉本の分裂病理解の解説に移らせていただきます。

分裂病に限らず精神の疾患の根源には母子関係の傷がある。そういう母型論のテーマを具体的な人物の描写のなかに探ってみようとしてシモーヌ・ヴェイユを取り上げています。しかしヴェイユはたいへんな人物で、十分に解説しようとしたら手に負えないし、吉本を解説するくらいの姿勢が必要です。しかしそれはできないので、部分的なものにならざるをえません。

ヴェイユの工場体験について解説しようと思います。要点はなにかというと、ヴェイユの資質です。つまりかなり病的である資質です。ヴェイユの言葉を読んでいくと、この人は病者として「ホンモノ」であることを感じます。病者のホンモノっておかしいですが、ものすごく深いところから病んでいるという戦慄を感じさせるものがあるわけですよ。そしてこれがヴェイユヴェイユたらしめているわけですが、思想としてやっぱりホンモノだということです。自己資質というものを掘り下げて、自己資質そのものであるような孤独で唯一であるような思想を形成し、それがゆえに逆に普遍性を帯びていくというホンモノ性があると思います。ヴェイユの思想は病者の思想ですが、考えるということを徹底して貫いているゆえに、西欧の思想全体がもつ病性というものの核心を映し出すところがあるんじゃないかと思います。

ヴェイユの病的な資質はヴェイユの初期であるドイツ問題の政治的分析のなかにも視ようと思えば視えるわけです。吉本にも通じるその孤立性、徹底性、自分の肉体や人生を丸ごと投機していくような迫力のなかに、吉本やヴェイユの資質のドラマを視ようと思えば視えます。しかし社会的な問題の客観的な分析であるために、ヴェイユの資質はドイツ問題のなかでは影に隠れます。それが工場体験や、その後のヴェイユ独自の神学の追求のなかでは次第に前面に現れることになります。

ヴェイユの特性として重要なことのひとつは生涯の持病である深刻な頭痛です。この頭痛そのものがヴェイユの資質の根源、つまり母子関係の傷からやってくると思われるのですが、ヴェイユの凄さはこうした自己資質に振り回されるだけでなく、思考の力でその根源を見つめ自分の思想を形成していくところです。

ヴェイユは頭痛に苦しみながら、また大秀才のインテリであることの反面である身体的な不器用さとかひ弱さを抱えながら、ただの一女工として工場で働き始めます。工場に潜入して労働組合を組織して党派の拠点にしよう、というような左翼活動家の意図をもって入っていくわけではなく、ほんとうにただの工員として働いたわけです。

すると当然ながら慣れない作業と強制と叱責と製品のノルマというような工場の現実のなかでくたくたになっていきます。

そこだけであれば、インテリであったりプチブル的な生活だった人がなんかの事情で生活に困って工場で働いて苦労したということはままあることでしょうし、戦争ともなればインテリである学生でも兵隊にとられるわけですから、それほど特異なことではありません。ヴェイユが凄いのは、そうした工場体験のなかで思考する、つまり自己体験を普遍化しようとする努力を手放さないことです。

ヴェイユが工場体験で、労働と頭痛でくたくたになりながら考察したことのなかに吉本によれば重要な発見があります。ヴェイユはドイツ問題の分析という吉本によれば「社会思想的に、政治思想的に不朽の意味をもつ」考察をし終えて、その結果、社会思想、政治思想の系譜に対してすべて絶望的、否定的になっていきます。吉本によれば、そこからヴェイユは労働者の〈個〉の微視的な変革と解放からはじめようと考え方を転換したということです。その個としての労働者の変革と解放という課題が、ヴェイユを工場へ導いた理由のひとつであったでしょう。なぜなら個としての労働者の実態について自分は何も知らないということに突き当たったからです。

ところが工場体験はヴェイユに思いがけない発見を強いました。

「へとへとに疲れてなにもかんがえられないというような日々の工場生活について、ヴェーユが感じたことのうち決定的なことがひとつありました。はじめはゆきづまった政治思想、社会思想の問題をひとつひとつ〈個〉の側から解決していこうとして、労働者を実際、外側からでなく体験的に身をもって知ろうぐらいにかんがえて工場生活に入りました。けれど、他の労働者とまったくおなじように働いたら、反抗心をもったり、敵愾心を燃えあがらせるというふうになるかなとおもったところ、意外なことに、ぎゅうぎゅうと職制に押さえつけられて、暇もなく製品作りに専念させられてという状態を、素直に受け入れていたとヴェーユは記しています。人間は目も口もあかないような状態におかれると、反撥するんじゃなくて、そのこと自体を受け入れてしまうもんだ、ということがはじめてわかった、じぶんは素直になってしまったと述懐しているのです。内にかいくぐってみたら、じぶんはこの抑圧を受け入れ、あたかも古代の奴隷のように嬉々としてこき使われるみたいに、そのことを心で肯定し、受け入れているという精神状態になったということが、じぶんにとって衝撃だったとヴェーユは述べています」(「言葉という思想」昭和56年弓立社 吉本隆明

この発見を、吉本はヴェイユ(吉本はヴェーユと記している)の工場体験のいちばんの重要な核になっていて、ヴェイユが思想家として優れているのは、この種の小さな事柄についての〈気づき〉の仕方にあると述べています。

この発見をどう捉えるかということが問題になります。この発見はヴェイユにとって、以前からヴェイユのなかにあった「神」の問題にさらに深入りしていく契機となったと私には思えます。人間は自分の周囲の世界が閉ざされたとき、それに対して反抗したり敵愾心をもったりするよりも、むしろそれに慣れ、すなおに服従してしまうものだという発見は、工場労働に限りません。宗教団体でもイデオロギー集団でも独裁国家の内部でも起こりうるし現に起こっている現象です。歴史としてみれば、こうした共同体の支配や規律に対する従順性や服従性が疑われ始めたのは近代に入ってからで、それもアジアにおいては西欧から輸入されたものだったということがあります。歴史的にみればつい最近まで人類は共同体に対して従順であり嬉々として服従していたといえます。

また誰もがもつ成育史として考えれば、目も口も閉ざされて依存している状態は乳胎児期だということになります。自意識が芽生え、家とか学校という共同体から個として離れていくのは思春期以降となりましょう。そういう意味では私たちは誰でも依存的であり受動的でありスナオである時期をつい最近までもっていたことになります。時代が個を尊重するようになっても、成人となって自立した生活をするようになっても、歴史の過去や成育史の過去にすぐに退行しうるのが人間というものだ、という発見だといえると思います。

吉本はヴェイユの発見の意味についてどう考えているかというと、ひとつにはこの問題を「知識」の問題として解こうとしていると思います。もし人間に、ある場所で、ある事柄について最大限にある体験を感じなければならない範囲があるとする、という設定を吉本はたてています。この最大限の感じ考えるという範囲が「知識」の最大限の範囲です。この最大限の知識の範囲に対して、労働者は現実の制約があって十分には感じ取れず、考えが及ばないということはありえます。そうすると労働者は本来もつ権利のある知識を現実の制約のためにもつことができない。だから外側から知識を投入しようとか、労働者は気の毒だというような考えが出てきます。しかし吉本の労働者、大衆についての考察はそれほど単純なものではありません。しかし少量の知識しか労働者は現実の制約のもとでもつことができないということは事実でしょう。

吉本はそこから「知識」の課題という問題に独自の考察をしています。前回の解説にも書いたことですが、「知識」にとってもっとも重要なことは、現在にあってかんがえられるかぎりのことを無限大に感じ、無限大にかんがえるという義務をもっていることだ、と吉本は述べます。制約下に置かれた労働者に同情するとか、そのなかに入っていくべきだとかというのはどうでもいいことだと吉本はいいます。ただ同時代の人間が感じている自由の範囲よりも、はるかに多くの自由の範囲を感じ、考えなければならないことが「知識」にとっての第一義のことだと述べています。

ヴェイユが工場体験で感じ考えたことはもっとさまざまにありますが、そこはすっとばして、ヴェイユの神学の問題に解説を移らせようと思います。きりがないからね。ヴェイユが工場体験で知った労働者の実態というものは重要で、重要であるがゆえに思想の分かれ道となるものでした。ヴェイユは吉本とここで思想の道筋が分かれます。吉本によればヴェイユは無際限の「知識」の問いをじぶんが抱えていて「知識」をもたない人にたいして、あるいは制約された場所で働いている人にたいして、無限大の罪を感じていくという発想をとってゆきます。そこから「神」の問題が大きくヴェイユのなかに登場し、そしてこの解説の本来の目的である母型論的な精神病理の根源の問題もヴェイユの自己資質も問題として登場することになります。それはまた次回ということで。