或日私の家を訪れた女の人は、随分お喋りであつた。ほゝけたやうな私の顔を見て、何かしきりにお世辞を言つた。もう四十年以上もこの世に生活してゐて、私を軽んじたやうな眼付きをして眠つたやうな美言を吐いた人よ。私は何も言はないけれど、私を心のどこかで馬鹿にしてゐる人が、この世に絶えない間は、私は生甲斐があると思つた。(無方針、○女の人)

この文章は吉本が米沢工業高校時代に友人たちと作った同人雑誌に載せたものだそうで、1943年に書いたものだというからまだ19歳くらいでしょう。吉本が紛失したその同人誌を川上春雄という人が根気よく探し出して「初期ノート」を編集したということです。

この文章から思想的ななにかを読み取ることは難しいと思いますが、なんとなくかすかに吉本の精神的な資質のようなものを嗅ぎとることはできます。この人はちょっと被害妄想気味じゃないかなというような。

吉本は親しくなった文学者や編集者との決別を経験しています。なぜ決別しなくてはならなかったのか、という理由は吉本自身によって正直に述べられてきています。吉本はそれらの決別に対して思想的な負い目はない、というふうに考えていると思います。しかしそれだけなのか、思想的な負い目はないとしても、そこに吉本自身の無意識の資質が、もっといえば病理的な資質が関係しているんじゃないか、という疑問を吉本自身が抱いていました。森山公夫との対談で、吉本は老年になっても続く決別の連鎖のなかには自分の責任というか、自分自身の病理が関係しているんじゃないかという疑問を森山に問うています。

森山はそれについてはっきりとした意見を言わなかったわけですが、吉本の無意識のなかに、妄想に紙一重で移行しそうな危うい資質が潜んでいるような気もします。しかしそれを紙一重でとどめているのは吉本の自省の深さとねばりづよい論理性だと思えます。それは吉本の中の文学と科学だともいえます。吉本に言わせれば文学者とは銀座の大通りに素っ裸で寝転ぶことのできるものだということになります。それは自己暴露の徹底性ということになりましょう。科学とは普遍性です。自分が病的であろうとも、その自分の病理をみずから暴き、それを普遍性として論理づける。それが吉本の自らの病理性に対するたたかいだったと私は考えます。

こんなところで吉本の分裂病理解の解説に移らせていただきます。「大洋」期というものが精神の病の根源を作っているということです。「大洋」期は胎児期から乳児期のまだ言語を獲得する以前のこころです。「大洋」はやがて言語を獲得する。そのことは何を意味するのか。「大洋」がこころとその病の根源であるなら、言語の獲得というのはそれに対して何かということになります。

「大洋」期の重要な特徴は「食」と「性」の共時性ということです。おっぱいを飲むという「食」の行為が、同時に「性」としての身体的な快感であるということです。この「食」と「性」が次第に分離していくわけですが、吉本はその分離に「言語の獲得」ということが深刻に関係すると述べています。ここが難しくてよくわからないところで、しかしきわめて重要な考察だろうと思えるところです。今回はできるだけここをほじくります。

「性」として「大洋」期を見た場合、それは男と女の赤ん坊という性差を越えて、あらゆる赤ん坊が母親に対して受動的で女性的だということを意味します。吉本はフロイトに対して、あなたはこのことの重要性をこの時期の独自性として取り出すことをしていないじゃないかと批判していると思います。この根源的な「大洋」期の受動性、男女を問わない女性性ということは吉本の考察にとってたいへん重要です。なぜかというと、それは男と女の赤ちゃんの性的な成長に関わるからです。

最初に母親が男性的で「食」と「性」との提供者になり、男女問わず「大洋」期の赤ん坊は女性的に受け身でその「食」と「性」を受け取る者になる。その普遍的な「女性性」のところから吉本の記述では次のように男女はそれぞれ成長します。

男性の乳児 女性から男性へ(口(腔)から陰茎へ)

女性の乳児 女性から女性へ(陰核から膣(腔)開口部へ)

吉本隆明(「母型論」の「異常論」より)

しかしこの過程は男性の乳児についてはそのままですが、女性の乳児については注釈が必要になります。なぜなら女性の乳児は詳しくいえば女性から男性へという時期があり、その後に再び女性へ、というように変化するということです。母親に対して完全に受け身で「食」と「性」の備給を受けているという状態から、乳児は「リビドー」を芽生えさせていくとフロイトは言っていると思います。「リビドー」は性的な、あるいはもっと広義の生命的なエネルギーだと思います。そして重要なのは「リビドー」は男女を問わず男性的な本質をもっているという点です。その意味では乳幼児は男でも女でも性愛としてはおなじものだとみなしていいと吉本は述べています。「乳幼児はすべて肛門性愛をもち、また男児も女児も陰茎と陰核に、いいかえれば男性器に性感をもっているとみなせる」とも述べています。

口と肛門に性感がある、と同時に男性器とみなせる男児の陰茎と女児の陰核にも性感がある、それが乳幼児の普遍性だということは、「食」と「性」が未分化であることに対応します。食べることと排せつすることの共時性とともに、「リビドー」の男性的な本質から男性器である陰茎と陰核に性感がある、という状態が乳幼児にあるということだと思います。

完全に受け身で男女ともにいわば女性であり、母親が男性である時期が乳児期のはじまりに存在し、そこから男女ともに男性的である「リビドー」の発現がみられ、そこからさらに男が男になり、女が男を経て女になる性感の成長があるということになると思います。だから女性の「大洋」期とそれを脱する過程での性愛の成長は「一種の性転換」ともいえるだろうと吉本は述べています。ここに男女の大きな違いがあり、女性というもの秘密があるとみなせます。

吉本のフロイトへの批判は「大洋」期をはっきりと独自の時期として取り上げていないという点にあります。「大洋」期を独自に取り出すとすると、「大洋」期こそは、男女ともに女であった時期であることになります。この女性的で受動的であった「大洋」期の重要性とは、吉本の考えでは、「大洋」期を脱するのになにが関与しているかという問題の重要性なんですよ。それは「言語の獲得」であろうというのが吉本の考察です。普遍的にあらゆる乳児が

女であった時期から、フロイトのいう「リビドー」の本質的に男性的なものの発現という段階に移っていくのに「言語の獲得」というものが必ず関与するはずだということです。言語のない前言語段階の普遍的に女性的受動的である「大洋」期から、普遍的に男女を問わず男性的な本質をもつ「リビドー」の発現期に入る。そしてそこからさらに女児は、男から再び女へというように「一種の性転換」を遂げる。男はそのまま男として成長するだけだ。

この変化のなかで「食」と「性」は分化していく。それは「鰓腸の上部と下部における開口部がもつ栄養の摂取と性の機能についてのあいまいな両義性を解体し、それぞれの性器と栄養を摂取する器官とに分離する過程を意味している(「異常論」母型論より)」ことになります。

この食べる器官と性的な快感の器官は別のものだとわかっていく過程は「大洋」期の終わりを意味するわけですが、それが「言語の獲得」とどう関わるか。

吉本が、たぶんこんな指摘は吉本にしかできないと思うんですが、述べているのは「栄養摂取と性の欲動とが身体の内臓系でいちばん鋭く分離する場所と時期を択んで、乳児のリビドーは言語的な世界のなかに圧縮され、また抑留される」ということです。

これ分かりますか?わかんないと思うなふつう。俺もわかんないし。

しかしここが「母型論」のかなめであって、スルーするわけにはいかないところです。そしてこれは吉本が「大洋」という概念を作り出したモチーフでもあると思います。

おおざっぱにしか言えませんが、言語を獲得するということは「概念」が獲得されるということだと吉本は言っていると思います。概念を獲得するということは、吉本の述べた例でいうと、紙に描かれた「バラの花」と、庭で見た「バラの花」とが同一だと認知した時が「概念」の獲得だということです。そうした概念の獲得をうながすのは、「大洋」期の「鰓腸系と泌尿系を混同しているエロス覚の表出(跳出)は、「大洋」が言語面を成り立たせていく源泉のエネルギーにあたる」と吉本は言っています。「食」と「性」とが未分化の共時的に混然としている初源のこころがもつエネルギーが、それだけが概念を作る。どろどろとした源泉の未分化の心的なエネルギーを「大洋」がもっていて、それが概念を作り、言語を獲得させると言っているわけですよ。それ以降、こころは言語になっちゃうわけでしょう。とはいえ「大洋」期のこころ、乳児期のこころは消えるわけではなく、無意識と無意識以前の深い無意識としてこころの奥に押し込められることになるんでしょう。そして獲得された言語のなかに「大洋」期のエロス覚は押し込められると吉本は言っています。そういわれてもよくわかんないまですけどね。

わかんなくても、この洞窟を進んでいきます。