人類が宗教を否定してゆく過程は、とりもなほさず人類が被支配者たる自らの位置を否定してゆく過程である。同時に、人間精神が宗教性から離脱してゆく過程は、とりもなほさず人間精神の全き自由と独立への過程に外ならない。斯くて僕たちは内的規定と外的規定とを共に神及び神権政治の排滅の方向につきやぶりながらゆかねばならない。(エリアンの感想の断片)

宗教から法が生まれ、法から国家が生まれるというのがマルクスの考察だと思います。そういう意味では宗教が否定され、より現実社会に接した法や国家が成立する過程は人類が主体性を獲得していく過程だといえると思います。しかしそれだけで事足れりとするなら、吉本の生涯の膨大な宗教についての考察は不要だったことになりましょう。吉本はなぜ若いころにはこのノートのように進歩主義的なことを書きながら、生涯にわたって宗教に関心を持ち続けたのでしょうか。

それは吉本が、より初源の混沌のなかにすべてが含まれていると考えているからだと私は思います。吉本は「不信」である者として「信」というものにこだわっています。どうしても「信」のなかに入れない。「信」つまり信仰のなかに入るというのは何だろうということです。そこで「信」と「不信」の境界が問題になります。「信」のなかにいる人物が、「信」のなかにいる信仰をともにしている仲間たちだけを対象に語りかけている言葉には惹かれない。「信」の者でありながら「不信」の者に語りかける、あるいは「不信」について深く考えている言葉が吉本の関心を惹きます。それは「信」を解体し、「不信」も解体する言葉です。

そこで吉本がもっとも惹かれたのが親鸞です。親鸞の言葉のなかには「不信」である一般人が内包されているといえます。もし「知」というものも「信」のひとつであるとしたら、「知」も「無知」あるいは「非知」の者を内包しなくてはならない、といううのが親鸞を通過して吉本が考察した「大衆の原像」という思想だと思います。

そんなところで吉本の分裂病理解の解説に移らせていただきます。

胎児期に形成され幼児期までもちこされる「大洋」と吉本が名づけた心があります。「大洋」は内臓系と身体の外壁系の五感覚からのふたつの経路の感覚でできています。そして全宇宙は「母」に包まれていて、「母」との関係がすべてです。「母」から与えられる「食」と、身体の快感である「性」とが未分化で、食べることも排せつすることも性として快感であるという状態です。だから成人の性器性交を欲望する異性愛を基準にするならば、「大洋」期の「性」は倒錯に充ちているということになります。この「大洋」は例外なくすべての人に普遍的に存在するものです。私にもあなたにもどんな道徳的な人にも、世界を支配する権力者にも、知的な巨人にも。「大洋」期は例外なくあるわけです。

その「大洋」期が終わるときは、言語が獲得されるときです。しかし「大洋」は失われるわけではなく、心的なるものの初源として心の奥に沈められ、「幼児期健忘」によって忘れ去られることになります。たぶん「幼児期健忘」というフロイトの発見した現象は、「大洋」が言語を獲得するという過程に秘密があるんだと私は思います。もうひとつ「大洋」のなかで重要なことがあります。それは身体的に男性であれ、女性であれ、「母」との「性」と「食」が共在する関係のなかで、ともに女性的で受動的であるということです。つまりあなたが男でもこころは女であった時期を例外なく「大洋」期にもっているということになります。

では「言語を獲得する」ということは「大洋」にとって何でしょうか。「母型論」では吉本はそのことについて多くを述べてはいません。述べている箇所のひとつは、「大洋」では例外なくあらゆる人は女性的なわけですが、そこから性の「リビドー」の男性的本質に従って、女児でも男児でも男性的である時期に移ることになります。ここから女児は女に、男児は男のままで成長します。この過程を順調にたどれない場合は、身体としての男女と心としての男女が一致しないマツコ・デラックスのような人物も派生してくるんだと思います。引用します。

「ほんとうは男性の乳児も女性の乳児もすべて女性的であり、同時に栄養の摂取についても受動的な世界がまず普遍的に存在しそこから、男児と女児に分化してゆく世界への転換を考えにいれなければ、乳幼児の性の振舞いの倒錯や異常性に言及することはできないはずだ。この転換をうながすいちばん主な素因は、乳(胎)児が言語を獲得してゆく過程だとおもえる。そしてこの過程を乳(胎)児から乳幼児への性的な備給の転換に対応できると仮定すれば「大洋」の世界がその天抹線で「概念」を対象として性の備給を成し遂げる過程を思い描くことができる。」(「母型論」の「異常論」より)」

これスッとわかりますか。わかるわけないよな。わからないというのは、言っていることが難しいということだけじゃなくて、こんな考え方に触れることが初めてだということと両方です。でも素通りしちゃいけないような重要なことが一生懸命述べられているということを感じます。そこでなんとかわかりたいわけです。

「概念」とは何かについて吉本は説明しています。

「ここで「概念」というのは体壁系の感覚器官がとらえた事物を、空想によって同じ類に属する他の事物を結びつけて連合させることを意味している(「異常論」より)」

たとえば乳幼児が紙に描かれたバラの花を見た。同じ眼があるとき庭でバラの花を見た。そしてそのバラの花が、紙に描かれたバラとおなじであると訴える。また別の機会に公園でバラの木を見つけて、それが紙に描かれたバラや庭のバラと同じだと認知して指さした。そういうふうになったとき「大洋」の波の動きは「概念」と出会い、「概念」を知るようになったことを意味する、と吉本は述べています。

紙に描かれた絵と、現実の事物が同じものだとわかるようになる。それが「概念」を獲得する始まりで、そこから「言語」の獲得に向かい始めるということだと思います。これはどういうことでしょうか。「大洋」が混沌としているように、「大洋」期の乳幼児にとって自分のまわりにある世界は混沌としているのだと思います。その混沌としたカオスの世界が、あれとこれは同じだと感じることで、まだ言葉はないけれどはじめて脈絡がつきはじめることになります。世界は混沌から、あれとこれとそれは同じものという分化された意味のあるものが散在する世界に変わり始めるわけです。これは言語の獲得という段階として、発達心理学者などによって指摘されていることだと思います。しかし吉本のいうことの難しさは、このことをさらに飛躍的に考察していることです。

「概念」を獲得し、「言語」の獲得に向かう、その過程は男児と女児がエロス覚を、男児は口(腔)から陰茎を移行させる過程、女児ではエロス覚を陰核から膣(腔)開口部へ移行させる過程に対応すると吉本は述べます。この移行は、男児(男性の乳児)が心的に女性から男性へ移行することであり、女児(女性の乳児)が女性から女性へ移行する過程ともいえるとも述べています。ここで女児が女性から女性へという場合には、その間にリビドーの男性的本質によって女児も男性に、という時期があると吉本の考察からはいえると思います。

つまり「概念」「言語」の獲得過程は、エロス覚の以降による心的な性の転換の過程と共時的に行われる。さらにこの過程はもうひとつの重要な移行もともなう。それは、「性」と「食」の未分化という状態が分化されていく過程とも共時的だということです。

「この過程(注:エロス覚の以降による心的な性の転換の過程)は、鰓腸の上部と下部における開口部がもつ栄養の摂取と性の機能についてのあいまいな両義性を解体し、それぞれの性器と栄養を摂取する器官とに分離する過程を意味している。この過程はもっと別の言葉でいうこともできる。栄養摂取とが身体の内臓系でいちばん鋭く分離する場所と時期を択んで、乳児のリビドーは言語的な世界のなかに圧縮され、また抑留されるというように。(「異常論」より)」

こういうことはきっと発達心理学者とか児童心理学者からは聞けないものじゃないかと思います。そうじゃなかったらすいません。乳児のなかでは性的な激変が演じられるということだと思います。心的にはだれもが女の子であるような赤ちゃん。またそういいたければ、倒錯性欲のデパートのような「大洋」がそのなかにあります。その例外なく心的に女の子である乳児が男の子と女の子に分かれていく。それはエロス覚が口や肛門から男児と女児の性器に移行していく過程です。「性」の激変劇があり、そのことに引きづられるように「食」と「性」が未分化であった状態から、「性」がその独自の位置に移ることで分化していきます。

そのことと同時進行していく言語の獲得を結びつけようと吉本はしています。エロス覚が移行し、男女の分化が始まり、食と性の両義性が解体されるその時に、言語が獲得されはじめ、乳児のリビドーは言語的な世界のなかに圧縮され、また抑留されると。男女の分化、エロス覚の分化、食と性との分化、つまりこの世界が混沌から秩序ある、意味のあるものへ変わることが、言語が獲得されることと同時であって、その分化された秩序や意味がある世界は言語のなかに閉じ込められるということなんじゃないかと思います。ここが「大洋」と私たちの世界である「言語的世界」の境界であり、幼児期健忘によって以降「大洋」的世界はこころの奥底に沈められます。しかしそれは消え去るわけではなく、異常な時、異常な状態では蘇る。

わからないということは疲れますね。ではまた次回。