一行の詩もかけない時期に、雑多な書物を読んでは、独語をノートにかきつけた。それは、わたしの『初期ノート』の主要部を形作つている。もし、わたし以外の人物が、このノートを精読されるならば、現在のわたしの思想的原型は、すべて凝縮された形でこの中に籠められていることを知るはずである。緊張度は可成り高く、ノートのこの部分を公刊することについては、わたしは、水準についてすこしもひけ目やためらいを感じていない。(過去についての自註)

吉本が当時の詩の書き方を説明していました。まず白い紙に細い罫線を手書きで引きます。そして毎日毎日2時間ほどの時間、その紙の前に座っているわけです。それが吉本の詩の書き方です。言葉は出てくることもあるし、出てこないこともあります。一行の言葉も出てこないで、白紙のままで時間が過ぎることもあったわけでしょう。しかしそれもまた詩の時間であると思います。なぜなら出てこない言葉も言葉だと吉本は考えているからです。つまり沈黙も言葉だということです。紙の上は白紙でも、こころのなかが白紙なわけではありません。詩の言葉として凝縮され結晶される前に、胸のなかで言葉や言葉以前のもやもやしたものが渦巻いています。それがどうしても一行の詩として凝縮しない時もあるということです。

しかしその胸のなかの言葉を別の方法で書き言葉、紙の上の言葉にして出す方法もあります。それが「初期ノート」の主要部を形づくっている言葉だと吉本はいっています。だったら詩の言葉と「初期ノート」の言葉はどう違うのでしょうか。なぜ詩の言葉が出てこないのに、「初期ノート」の言葉は出てくるのでしょうか。私が考えるにはひとつにはどういう詩を書こうとしているかにもよるわけです。吉本にとって詩は社会現実を把握するということが前提としてあります。把握された社会現実に、どう吉本の内面がぶつかっているのかが詩になります。単に内面のもやもやを言葉に出すことだけの詩ではありません。それが詩としていいことがどうかは別にして、吉本はそういう詩を書こうとしていたと思います。だから社会現実が把握しきれないところでは詩の言葉が凝縮しないわけです。社会現実に対する疑問や不明がたくさんあれば、言葉はまず社会現実そのものの解明に向かっていきます。詩の言葉は凝縮しませんが、それでも白紙の前にただ座っている時間を失うまいとしています。詩は書かれませんが、詩は失われていないのだと思います。詩が出てこないという実存のあり方、沈黙の格闘も詩だからです。

このへんで吉本の分裂病理解の解説に移らせていただきます。シモーヌ・ヴェイユの思想の吉本の理解の解説の続きです。

吉本はヴェイユの「匿名の領域」という考え方につながるものとして、「存在倫理」という概念を晩年に提出しています。充分な展開をしないまま吉本は亡くなってしまいましたが、「存在倫理」という考え方には吉本の生涯の思想の重量がこもっていると思います。

「そこに『いる』ということは、『いる』ということに影響を与えるといいましょうか、生まれてそこに『いる』こと自体が、『いる』ということに対して倫理性を喚起するものなんだ。そういう意味合いの倫理」というように吉本は「存在倫理」を説明しています。これは「その人の人格ではない。それはまた、その人の人間的固有性(ヴェルソンヌ・ニメーヌ)でもない。きわめて単純に、それは、かれ、その人なのである」というヴェイユの「匿名の領域」の考え方につながるものだと思います。

そこに「いる」だけでしかありえないという状態の人がいます。植物人間のような状態になっている人を考えることもできます。また私の職業で接する深い認知症の老人もほとんど「いる」だけだと感じられます。また頭脳は損なわれていなくても、身体は動かすことができないという意味で「いる」だけだという人もいます。こうした状態の人に接すると、「いのちは大切だ」というような倫理が持ち出されます。しかしそれは表側の倫理にすぎない気がします。薄っぺらいきれいごとだから、裏側に公言できない本音の感情がこびりついてしまいます。言葉にしないとしても「こんな状態になってまで生きている意味があるんだろうか」というような疑問が湧いてくるのをどうしようもないわけです。しかしその疑問にも裏側ができて、「ほんとうにそうだろうか」というように屈折して、答えがでないわけです。

障碍者を殺してしまったという事件や、認知症の老人を殺してしまったしまったという事件が起きます。またそういう事件に対して「いのちの大切さをわかっていない」というようなコメントが流されます。しかしそれはきれいごとの表を裏にして、その裏をもういちど表に戻したというような印象しかありません。もっと屈折していく井戸の底から回答してくれるような思想はないだろうかといつも思います。

そういう回答は科学には求められないので、宗教に求めることになるんでしょう。しかし宗教は他の宗教や宗教に入ってこないものたちをどう考えるのかということが問題になります。イデオロギーもその根底は宗教的なものだという吉本の考え方になぞえれば、宗教やイデオロギーは他の宗教やイデオロギーと、あるいは宗教やイデオロギーに入ってこないものたちと争い、殺戮しあうこともあるわけです。それは今も世界中で起こっている事実です。

「いる」ということはあらゆる人間のもっている「匿名の領域」だと考えることができます。つまりあなたも私も、宗教の違い、イデオロギーの違い、あるいはそうしたことへの関心の有無というものを越えて、生まれてここに「いる」という共通性をもっています。あたりまえですけど。この「いる」という根底を切開していく思想的方法とはなんでしょうか。

芹沢俊介は「宿業の思想を超えて(「批評社」2012)という本のなかで吉本の「存在倫理」について考察しています。そのなかで「いる」ということの切開を、D.W.ウィニコットという小児精神科医の思想に求めています。それは誕生した赤ん坊と母親との関係についての考察です。ウィニコットは「ビーイング・マザー」という概念を提出しているそうです。ビーイングというのは「いる」ということになります。「ビーイング・マザー」とはだからひたすら「いる」こと、「いる」ことによって自分を差し出している存在だと芹沢は解説しています。芹沢の考察では、子供は本質的に「イノセンス」の存在です。「イノセンス」とは「責任はない」ということです。子供は誕生してきたことに対して責任がない。産んでくれと頼んで産まれてきたわけではないからです。子どもの無意識の本質にはこの自分の責任ではないのに、この世界に生まれてきたという不条理感があるという考察です。吉本は芹沢のイノセンス論をたいへん評価しています。

このイノセンスが、子供が苦しみに出会うと表出されてきて「子どもの暴力」になると芹沢は考えています。そして子供が暴力をふるう場面には、根源的に「イノセンス」の表出があるということになります。逆にいうと、子どもにとってはこの世界に自分の意思でなく生み出されたということがそもそも暴力だということになります。「子どもの暴力」はこの生まれてこさせられたという暴力に対する対抗暴力だというのが芹沢の考えです。

イノセンス」が解体されないと、子どもは自分がこの世界に存在していることを根源的に引き受けることができません。なんでこんな世界に生まれてこなきゃらなないんだ!俺の責任じゃない!という自分の命、自分の体、自分の性、自分の親といった無理やり押しつけられた生存への根源の不満が、そのことを引き受けよう、自分の責任でこの世界を生きてみようという気持ちに変わらないということでしょう。その「イノセンスの解体」の鍵になるのが、「ビーイング・マザー」の存在だということになります。

子どもは「いる」には違いないけれど、「いる」ということに肯定的な無意識をもつことができない。なぜなら子どもは勝手に産み落とされた「イノセンス」の存在だからです。「いる」こと、つまり自分の存在があることを肯定的に受け止めるには、自分が「いる」ことを丸ごと受けとめる存在が必要です。それが母親だということになります。芹沢によれば母親とは子供に自己を差し出す存在です。差し出すという姿勢があるから子どものイノセンスの表出を受け止めることができると芹沢は述べています。

子どもは母親から受け止められることで初めて、この世界に対する信頼が生まれます。胎児期・乳児期において受けとめ手としての母親は最初子どもと一体になった環境そのものです。この環境には母親という他者性が含まれています。そして受けとめれたという体験は、繰り返されればされるほど受けとめ手に対する信頼を生み、この信頼を通して子どもの内部に環境(世界の原型)と他者(他者の原型)が組み込まれると芹沢は述べています。

芹沢は吉本の「存在倫理」を理解するために、胎児期・乳幼児期における母子関係を取り上げているわけです。重要なのは「イノセンス」を抱えて生まれてきた子どもにとって「母親」あるいは母親の代わりを果たすものがいなければイノセンスを解体し、自分の存在を肯定することができないということです。そして「ビーイング・マザー」でありうる母親に繰り返し受け止められて自己肯定できるようになった子供にはこの世界の環境と他者の存在が信頼によって受け止められるということになりましょう。

逆にいえば、他者への肯定性、また環境への肯定性が損なわれることがあるのは何故かというと、ひとつは母子関係がなんらかの理由で損なわれている場合です。もうひとつは自分の外部にある「環境と他者」があまりにも不信と敵意に充ちたものであるときだと芹沢は述べています。現在の社会は、母子関係としても外部の社会現実としても肯定性が損なわれている状況だといえましょう。吉本はその状況に対して、存在すること自体にほんらい内在しているはずの倫理性を「存在倫理」として思想化してみせたと芹沢は解釈しています。

母親という生身の人間が、受け止め手として不可欠であり、成長して出会うこの世界の他人や状況がどんなに過酷なものであれ、生身の母親との関係で作られた信頼による「他者と環境の原型」が倫理の根底にある、という思想といえましょう。「生身の母親」次第だという危なっかしさが一種の衝撃を与えます。しかしそれがゆえに、この考察の価値もあると私には思えます。