人間は有史以来、触れないで済ませた盲点を有つてゐる。如何なる天才も逃してきた盲点がある。僕の好奇心はこれを解かうとするが解き得たためしがない。だが何日のまにかそれを体得してゐると言ふ具合だ。しまつたと思ふが、既に体得されたものは解くことは容易だが、藻抜けの殻のやうに説明に終る。決して好奇心を動かすことはない。(原理の照明)

有史以来人類が触れないで済ませた盲点とは何でしょう。書いてないのでわからないわけですが、その盲点は言葉で解明しようとしてもできないのに、いつのまにか体得している。なんとなくわかったような感じがするということでしょう。このなぞなぞのようなものの答えは何でしょうか。私もわからないですが、自分が解説していることに我田引水して考えると「男と女とはなんだろう」っていうのはどうでしょうか。いかなる天才もそのことを逃してきたとは思えないけど・・・少なくともフロイトは考察しているし。

しかしいつの間にか体得している、というものではあると思います。まだ男と女にはっきり分離していない幼児期、児童期にもつ「なんでこの世には男と女がいるんだろう」という疑問は、やがて異性を性的に欲望し、性行為を経験し、結婚生活を経験しという成人期のなかで、理屈では言えなくてもなんとなく体得はします。しかしその体得されたものには、異性愛に目覚めない少年期までの純粋な好奇心は失われています。

リビドーとしてまだ男女未分化な少年少女期までの内面の混沌と、言語として出来上がっているこの社会の歴史的に積み重ねられた男女とはこうあるものだという風習や伝統や教育や倫理などの共同幻想の重みとのあいだに食い違いがあって、それが純粋な好奇心を生むのだと思います。

ではこんなところで水をさらに我田に引いて、吉本の分裂病理解の解説に移らせていただきます。

胎児から乳児期までの人間は、すべて女性的で受動的であるというのが吉本の考えの公理になります。例外なく誰にでもあてはまるはずだから公理なわけです。逆に乳胎児を育てる母親あるいは母親の代理者は、すべて乳児に対して男性的で能動的だということです。そしてこの乳胎児期は「大洋」期であって、その世界には母親しかいないとみなすことができます。またこの時期は「食」と「性」が未分化な時期であって、それがゆえに「性」である「エロス覚」が全身体に配置される時期でもあることになります。

この例外なく女性的である時期から、男女が分化する段階に移ります。この男女の分化と、「食」と「性」の分化はともに進行します。また無言語世界である「大洋」が言語の世界に変わっていく過程もともに進行します。これらはだから性差としても、身体器官としても、エロス覚としても、無言語から言語へという意味においても、成育史上の出産期に次ぐ激変の時期といえるでしょう。しかしこの激変のドラマは幼児期健忘によって無意識の奥にしまい込まれてしまいます。

この激変ドラマのなかで特に興味深いのは女性が女性になるドラマです。つまり身体器官的な女児が観念としての女性に転換していくドラマです。もし女性にだけ特徴的な神経症や精神病があるとすれば、その特徴の根源はこの女が女になるドラマのなかに潜んでいると考えられます。

女性の乳児のエロス覚の転換は

女性の乳児 女性から女性へ(陰核から膣(腔)開口部へ) (「異常論」)

という過程だと吉本は述べています。陰核にエロス覚があるというのは

「乳幼児には男性と女性の分離は存在しない。女の乳幼児のエロス覚はまったく男児的なもので、男児にあらわれても女児にあらわれてもリビドーは男性的な本質をもっている。また男性、女性という言い方をとらないとすれば乳幼児は男でも女でも性愛としてはおなじものだとみなしていいことになる。乳幼児はすべて肛門性愛をもち、また男児も女児も陰茎と陰核に、いいかえれば男性器に性感をもっているとみなせる(「母型論」の「異常論」より 吉本隆明

ということで、つまり乳児期までに男女の分離なく、ともに女性的であった時期が普遍的にあるわけですが、その後に男女の分離なく、ともに男性的なリビドーをもつ時期が普遍的に存在すると言っていることになります。男女が分離するのはその後です。

そして吉本が指摘している重要なことは、先ほどの引用文の続きですが、

「この言い方からすれば、男児であれ女児であれ乳(胎)児は「大洋」のうえでは女性的で受動的であり、この時期ははっきりと独自に取りだされるべき特色をもっている。これがフロイトのいう男児的な本質に転換するには、どうしても前言語状態から言語が獲得されてゆく過程を必須の条件だとみなくてはならない」と述べているところにあります。

陰核というのはいわば女性のペニスであって、それは男性的なリビドーがエロス覚として集中するところです。それを女児がもつ時期があるということです。それが「フロイトのいう男児的な本質」です。男児も女児も例外なく女性的である時期から転換して、例外なくリビドーとして男性的な本質をもつ時期に移る。その転換に言語の獲得という過程が不可欠にからんでくると吉本は言っています。またその転換は、「食」と「性」の分離とも必然的にからんでくるということです。つまり大激変劇だということです。

もうひとつ吉本が主張している要点は、フロイトが例外なく男女ともに女性的である「大洋」期を独自の特色のある時期として取り上げていない、というフロイトへの批判です。

この大激変劇のはじまりのところで、言語の獲得のスタートとして「概念」を獲得する段階が起こります。この「概念」の獲得を吉本は

「そしてこの過程(注:男女の分化の過程)を乳(胎)児から乳幼児への性的な備給の転換に対応できると仮定すれば「大洋」の世界がその天抹線で「概念」を対象として性の備給を成し遂げる過程を思い描くことができる(「異常論」より)」

と述べています。「概念」を獲得するというのは、「概念」を対象として性の備給を成し遂げる過程だ、と吉本は言っているわけです。この引用でいわれている「備給」とは精神分析用語で、なんらかの対象にリビドーを向けることをいうようです。乳(胎)児である普遍的に女性的である時期から、乳幼児である普遍的に男性的である時期に転換することは、性的な備給が転換することです。いわば母親から受動的に与えられたリビドーは、成長につれて外部に向けて男性的、能動的に放射されはじめる。そのことは言語の獲得と不可分だと吉本は言っています。

「単純化していえば、言語を成り立たせるまでにいたる過程で、鰓腸系と泌尿系を混同させるエロス覚は、言語のなかに収蔵されてしまうようにおもえる。別の言い方をすれば鰓腸系と泌尿系を混同しているエロス覚の表出(跳出)は、「大洋」が言語面を成り立たせてゆく源泉のエネルギーにあたっている。もっと別の言い方もできる。「大洋」が前言語の状態から言語を形づくってゆく過程によって、ヒトの乳幼児は一様に精神神経症を幾分かの度合いでまぬかれてきた、というように(「異常論」より)」

鰓腸系と泌尿系の混同というのは、つまり「食」と「性」が未分化な身体の状態ということです。それは「大洋」の状態です。吉本はこの「食」と「性」が未分化である混沌とした一体的な状態が源泉のエネルギーとなって、言語面を成り立たせると述べています。ここでは「食」と「性」の未分化という「大洋」の状態は、未熟であるという意味だけではなく、別の意味が与えられていると私は思います。それはこころというものの源泉となる大きなエネルギーであり、言語を獲得させる力であると。そしてその過程が前述した「概念」を対象として性の備給を成し遂げる過程ということと対応します。

吉本はなにを言っているかというと、言葉のない「大洋」が受動的な段階からリビドーを対象に向け始める能動的な段階に移っていゆくときに、「大洋」のもつ、生命が一体となっているめくらのくじらのような巨大な原初のエネルギーが、概念に向けられ、概念のなかに収蔵されると言っているわけです。ということは言語というものは「大洋」のエロス覚が収蔵されたものだということだと思います。言語のなかには「食」と「性」が未分化だった「大洋」のエロス覚が収蔵されているということです。これが吉本の言語論の、特に「自己表出」という概念とつながっています。あるいは「価値」という概念です。

「ヒトの乳幼児は一様に精神神経症を幾分かの度合いでまぬかれてきた」というのは、男女の分化を言語の獲得が推し進める面があって、その分化がいわば「正常」である男女のエロス覚の分化となるわけだから、「正常」からみて「倒錯」である乳幼児期の、精神神経症の母体である同性愛から引き離されることになる、という意味ではないかと私は考えます。

そのへんはちょっと棚の上にあげてしまって、話のはじめの女児の性的な転換の特色が興味深いというところに話を戻します。

吉本は女性のエロス的な転換を「一種の性転換」だと述べています。女児は男児とともに一様に例外なく女性的で一方的に授乳される時期から、リビドーの男性的な本質にともなって男女ともに男性的である時期に転換します。この後、言語を獲得するということと不可分の関係をもちながら、さらに女性へと転換していきます。まさに激変劇です。男児より一幕多い劇だといえます。そしてそれはエロス覚が「陰核から膣(腔)へ」エロス覚が移っていくということを意味します。

女性の性的な転換に特色があるとすれば、これはフロイトが発見したことですが

「性にかかわりなく女性的で受動的なこの「大洋」の世界でも、そのあとの陰核に性愛があつまる乳幼児期になっても、女児は母親に愛着してすごすことになる。だから女児はエロス覚が陰核から膣(腔)に移行するまえに、無意識とその核に、母親への過当な愛着をかくしもっている。このことに例外はないとおもえる(「異常論」より)

と吉本は述べています。女児は女性へと性的に転換するまえに、母親への過当な愛着をかくしもっているということです。母親への愛着をもっているということは男児だって同じだとは思います。しかし女児のほうが「過当な愛着」をもっているというのは何故か。それは女児が母親と同性だからだと私は思います。女児のリビドーが自分自身に向けられる状態、それは自体愛(ナルシチズム)ですが、そのナルシチズムが女性である自分に向けられることと、女性である母親に向けられることとに分離がされにくい時期があるんじゃないかと私は考えます。自分自身に向けられる愛と、母親に向けられる愛着が一体となっていて、一体となっているほどエネルギーは強いですから、それが女性の無意識の特色だということになると思います。フロイトは「この乳幼児期の女児の母親への愛着が、通り過ぎてしまった一期間(4〜5歳まで)として過小評価できなことを見つけだしたとき、ギリシャ文化の背後に、クレタやミケニアの文化を発見したとおなじように驚いた」と述べているそうです。ということはフロイトが発見するまでは、この女児の母への愛着の深さはよく知られていなかったということでしょう。

この女性の母親への根源的な愛着が、おそらく女性が乳幼児期以降に「一種の性転換」を再び果たして女性になる、その転換を推し進めるエネルギーなんだと私は思います。そしてこの過程に異常があれば、それが女性の精神の異常の特色を作り出すことになるんでしょう。

女児が母親に過当な愛着をもつということは、いいかえれば母親が女児に過当な愛着をもつことだと吉本は述べています。ここにもナルシチズムと女児への愛が一体化している無意識があるように思えます。そして「母親の女児への過当な愛着に、屈折や挫折や鬱屈があったとすれば、陰核期から膣(腔)期へ性愛が移ってゆく過程で、父親にたいするエディプス的な愛着が異常に深くなる」と吉本はフロイト理論の説明として述べています。

「(注:フロイトは)そしてこの根源的な母親への愛着のなかに、意識的にか無意識的にかこもったまま、思春期以後に男性の方へむかおうとするときに、神経症パラノイアへの傾斜をもつものとかんがえた(「異常論」より)

本来なら母親に甘え、なつく時期である、陰核から膣へエロス覚が移り、男児的な女児が「女の子らしくなる」時期に、母親に甘えらえない、拒絶されるというようなことがあると、女児は父親に異常に甘えたりなついたりするようになる、ということでしょう。そして父親になついたように見えていても、その女児は母親への異常に深く屈折した愛着を、無意識やその核に押し込めたままだということになります。この押し込められた無意識の母親への異常な愛着が、思春期以降に再び存在を主張し、こころの表層まで露出するようになる。それが女性の神経症パラノイアの特色となるとフロイトは考えたということになります。

長く書きすぎたんで、あとは次回ということで。