美学から歴史を拒否することは長い間僕の主題であつた。僕には存在の根底にある伝習といふものは現在的な意味のうちに消失すべきものと思はれた。若し望むならば、すべて歴史的なものは現在的な論理と解析のうちに尽すことが出来ると信じられた。僕は論理の力を信じてゐたし、論理の持つ普遍性よりも論理の含む浸透性を、好んだ。(〈老人と少女のゐる説話〉Ⅵ)

これは分かりにくい文章ですね。美学から歴史を拒否するって。そもそも美学って何?すべて歴史的なものは現在的な論理と解析のうちに尽くすことができる、というのもよく分からない。要するに現在の文化の先端にある思想や論理で、歴史を論理づけるべきだと言っているのかなと思います。たとえば吉本は親鸞が好きなわけですが、親鸞の思想がそのままで現在に通用するとは思っていないわけです。親鸞の思想をアジア的な宗教思想の最高峰にあるものとして、その最高峰は欧米の文化の方法によって意味づけられなければならないと考えています。アジアのなかでどんなに素晴らしいものでも、そのままでは世界に通用しないということになります。

吉本は歴史とか古典とかがたいへん好きな人です。だから親鸞であれ実朝であれ西行であれ歴史のなかで優れた人物や作品を知っています。そしてそれを評価する評言も読んでいるでしょう。そういう評言を美学といっているとみなせば、たとえば親鸞を評言している親鸞の美学を語っている人たちに説得されない、ということを言っていると。彼らは親鸞をアジア的な枠組みのなかで評価しているだけで、世界普遍性の欧米の論理のなかに引っ張り出す努力はしていない。そういう不満なんだと考えれば、この文章はなんとか理解できます。

そんなところで、吉本の分裂病理解の解説に移らせていただきます。前回に引き続きシモーヌ・ヴェイユについての吉本の考察を追いかけます。

ヴェイユは単独で当時の最高の政治分析にたどり着くことができたほどの頭脳の持ち主です。偉大な思想をところどころ理解してそれを解説してそれだけで息たえだえみたいな(俺じゃん)ふつうの知識人とはものが違います。現実を自分で観察し分析して見事な理解に到達することができる、吉本と同じレベルの思想家です。そのヴェイユが神の問題につっこんでいく。そしてヴェイユの神は、ヴェイユが生きていて息をしているそのことが神の世界を穢すと感じさせるほどの絶望的な彼方にいる神です。たとえば魚がどんなに川のなかを泳いでも、川の外に立っている私たちに触れることはできない。魚が人間で、川の外の人間が神のようなそんな絶望的に触れようのない人間的な識知の外側にいる神です。識知の外側にいるならなぜいるって分かるんだよ?と思いますが、それはいるに間違いないわけです。私たち不信のものには疑わしくても、ヴェイユにとって神がいることは確信です。

その確信を作っているものにヴェイユの見神、触神の体験があります。さっき触れることができないって言ったじゃないか、と思うでしょうが、まあそれは置いといて、ヴェイユの体験を辿りましょう。

1938年にヴェイユはソレムの修道院というところで礼拝に加わる。ヴェイユは慢性のひどい頭痛持ちだが、この時もひどい頭痛のなかでいくつかの特異な体験をする。ヴェイユの神秘的な体験は、肉体離脱の幻覚、キリストがあらわれてじぶんに手を触れてくれたという触神の体験、キリストの姿を見たという見神の歓喜などを含んでいる、と吉本は述べています。ヴェイユはその時、激しい頭痛に苦しんでいた。それで苦痛をまぎらわすためにジョージ・ハーバートという詩人の「愛」という詩を必死に暗礁します。すべての注意をこの詩にむけて頭痛の苦しみを切り離せるように。

「愛」という詩は、「愛が私に腕をひろげていた」という一節のように、「愛」が人格化されていて、「愛」が「私」にやってきてやさしくしてくれるのに、「私」のほうは「愛」をしきりに望みながらじぶんをおとしめ、ためらっている。それでも
「愛」はためらう「私」に触れて私を包んでくれる。

この人格化された「愛」がキリストで、ためらう「私」がヴェイユ自身であるというようにヴェイユはこの詩を気に入り暗唱したんだと思います。

「わたくしはこの詩を暗記いたしました。たびたび、頭痛の発作がひどくなったときに、わたくしはこの詩にすべての注意を向け、そこに含まれるやさしさに自分の魂をあげて執心して、暗誦することを練習しました。わたくしはそれをただ美しい詩として暗誦しているつもりでしたが、知らず知らずに、この暗誦は祈りのような力をもっていました。前に手紙で申し上げましたように、キリスト御自身が降って、わたくしが御手にとらえられましたのは、こういう暗誦のときでした。(シモーヌ・ヴェイユ「霊的自叙伝」)

ひどい頭痛のさなかに、必死に詩を暗誦しているさなかにキリストが降りてきて自分に触れたとヴェイユには感じられた。これは疑うことのできない如実な体験だった。ヴェイユにとっての神は、こちらから呼びかけてもやってこない、不意に神のほうからやってくるものだと考えられています。人間が神を知ろうとすることは不可能だけれど、神はヴェイユにとっては間違いなく超越的な領域に存在するものです。

もうひとつヴェイユには夢遊状態のうちで、キリストの暗喩のような「男」に出会い一緒に過ごした体験を書き留めています。戦争が激しくなり、ヴェイユは一家をあげてアメリカに移住します。ニューヨークに住んでいるときにそのことは起こりました。

「彼」はヴェイユの部屋にやってきて、何も理解せぬあわれなおまえに、おもってもみない体験をさしてあげるから、ついてきなさいと言った。「彼」はヴェイユを教会に連れていって、祭壇の前にひざまずかせた。そして教会から出て、屋根裏部屋の一室にあがらせた。「そこからは、開いた窓ごしに、町の全体が、材木を組んだいくつかの足場が、荷をおろしている船が何隻かもやってある川が見えた(ヴェイユ「超自然的認識」)」

「彼」はときどき戸棚からパンをとりだして分け合って食べた。それからぶどう酒をついでくれた。ときどき「彼」と部屋の床のうえに横になって甘美な眠りについた。しかし「彼」は思ってもみないことをおしえようと言ったのに、何も教えなかった。そして「さあ、もう行きなさい」といってヴェイユを屋根裏部屋から追い出してしまう。ヴェイユはひざまずいて「彼」の足に接吻し、どうか行かせないでくださいと懇願したが、階段のほうに放り出されてしまいます。またその家を見つけようという気をヴェイユは起こさなかった。そういう体験です。

この体験についてヴェイユが記していることがあります。これはヴェイユと神との関係をよく表しているように思えます。

「かれがわたしを愛していないことは、よくわかっている。どうして、かれがわたしを愛してくれるはずがあるだろうか。それにもかかわらず、なおかつ、おそれくかれはわたしを愛してくれているらしいと、わたしの中の奥深くの何ものかが、わたしの中の一点が、恐ろしさにふるえながら、そう考えずにはいられないのだ。(ヴェイユ「超自然的認識」)

なぜヴェイユにとって神がそのようなものとして存在するのか。それは母型論的な分析によってしか解明されないように私には思えます。それは三島由紀夫にとってどうして天皇が三島的に存在するのかという解明も母型論的な分析が不可欠だと思うのと同じです。三島ほどの頭脳、三島ほどの教養がなぜ天皇陛下万歳というところに集約されていくのか、その不思議の解明です。

吉本はヴェイユの母型論的な解明、つまりヴェイユの胎児期、乳児期の解明を試みています。しかしそういう角度からヴェイユを分析した研究はたいへん少なかったそうです。ヴェイユに関わらず、ひとりの思想家や作家を乳胎児期から解明しようとする母型論的な研究はまだ始まったばかりということなんでしょう。

まずヴェイユを生涯苦しめた激しい頭痛を吉本は取り上げます。

ヴェイユの頭痛はヴェイユの研究者である田辺保によれば、「潜伏性竇炎(とうえん)」だとされています。その他にはヴェイユの頭痛の原因について書いた文献は見当たらなかったそうです。竇炎というのは鼻の病気で、いちばん羅患率が高い全竇炎(副鼻腔炎)で、竇炎のいちばん多い原因は、幼少期にインフルエンザ、惺紅熱、ハシカ、ジフテリアチフス、肺炎などをおこしたときに、病原菌が鼻腔や前額や上顎などの洞内にはいったことからおこるばあいだとされています。ではヴェイユの頭痛は幼少期からの竇炎によるものか確定できるかといえば吉本は自分は文献的に確認できたわけではないと述べています。田辺保はそう書いているということだけです。しかし吉本が田辺保の病理学的な解釈に付け加えているものがあります。

吉本は「痛み」について述べています。

「幼児や少年や、逆に老年は、しばしばどこかに欠如や願望があって、それが生理に対応できる心の限度をこえると、痛み(苦痛)をうったえることで、近親や親和するひとたちの注意をひきつけようとする。それらは虚偽(偽痛覚)であるばあいも、無意識であるばあいも、意図的であるばあいもあるにちがいないが、それを区別するのは難しい。欠如や願望は何よりも存在論的なのだ。ただ欠如や願望は意思でおさえこみつくせば、虚偽(偽痛覚)と無意識のなかにもぐりこんだり、うわべはなくなったりするに違いない。ヴェイユの頭痛のはげしさには、かならずやこの問題がかかわっていたとおもえる(吉本隆明「甦るヴェイユ」)

痛みの訴えには単に生理的に痛むというものばかりでなく、存在論的な、つまり無意識の底にある欠如や願望からやってくるばあいがある。そうした痛みの訴えは、幼児や少年、老年にみられる。ヴェイユの頭痛にはそうした存在論的な訴えがかならず関わっていたと吉本は考えていることになります。

吉本はヴェイユの伝記(シモーヌ・ベトルマン「詳伝シモーヌ・ヴェイユ」)からヴェイユの乳幼児期の病気体験を取りだしている。

① 生後六か月ごろ母親が虫垂炎(盲腸炎)の発作をおこし、授乳による栄養補給がおもわしくなくなり、それからヴェイユは虚弱になり心身の変調をきたした。

② 生後十一か月目に祖母の手で離乳したが、すぐにおもい病気にかかった。母親とおなじ虫垂炎(盲腸炎)の発作が原因と診断される。その発病後、痩せたままで大きくもならず、歩くこともしなかった。

③ 生後十六か月目。哺乳ビンしか口にせず、それ以外の食べ方(サジ)では受けつけず衰弱した。哺乳ビンに大きな穴をあけて、食べることはすべて哺乳ビンを通して行われた。二十二か月目まで病気だった。

④ 二歳のとき、アデノイドにかかる。

⑤ 三歳半のとき、はげしい虫垂炎(盲腸炎)の発作。日時を経て虫垂炎(盲腸炎)の手術。回復はおそく、医師は回復不可能とかんがえていた。

病弱なかわいそうな乳幼児としてのヴェイユの姿が分かります。そしてヴェイユの思想の秘密がこうした乳幼児期、さらに考えれば文献的なものはないけれど胎児期の問題と絡んでくるのは間違いないと思われます。しかしヴェイユは三島がそうであったように、自分の無意識からの欠如や願望を徹底的に自分なりに思想化しようとしています。苦しい成育歴からやってくる無意識からの激しい欠如や願望に、自分の知力をあげて立ち向かい思想を創り上げています。そしてそのたたかいの果てにしぼりだされたような思想的なエキスのようなものが残されます。それは何か。また次回で。