○科学は力である。それは大自然を抽出して来て人間のいとなむ社会生活に適合調和せしめやうとする力である 真実を行く知性も、透明な理性も、妙味のある悟性も、それとは相背馳せざるを得ない力である 宗教が人間性を挙げて大自然のふところに還らうとする点に於て、それは全く反対の方向に動いて行く力である (〔科学者への道〕)

この科学と宗教ともうひとつあげれば文学とが、吉本の深く探求したもので、そして探求すればするほど別々の方向に自分を連れていくことを感じるのでしょう。そしてそれらを統合する方法を構想していくようになります。シモーヌ・ヴェイユについての吉本の考察は、ヴェイユが宗教と信仰のない者たちの世界とをつなぐ部分に多くの関心が向けられています。親鸞についてもそうですし、「マチウ書試論」などで述べられた聖書の理解についても同様です。宗教者が信仰なき者たちをどう考えていたか、宗教と非宗教をどうつなげていたかというところです。

このまま吉本の分裂病理解のためのヴェイユ理解の解説の続きに入りますが、ヴェイユの言葉はホンモノの凄みがあり、こころを撃つものですが、逆にいうと信仰をもっていない者には入っていけない深い穴のなかで言われている言葉といえます。しかし吉本がとりあげている晩年のヴェイユの思想のなかに、信仰なき者にも届いてくる言葉があります。それが解説してきた「匿名の領域」についての言葉です。

「人間だれでも、なんらかの聖なるものがある。しかし、それはその人の人格ではない。それはまた、その人の人間的固有性(ヴェルソンヌ・ニメーヌ)でもない。きわめて単純に、それは、かれ、その人なのである。(ヴェイユ「人格と聖なるもの」)

この言葉は親鸞の「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや (親鸞歎異抄」)」という言葉とともに吉本に深い考察を強いています。それはこうした言葉が信仰と信仰なき者とをつなぐ力をもっているからです。つまり普遍思想といっていいような宗教思想と科学や文学のような非宗教的な思想を包括できる思想につながっているからです。

ヴェイユはなぜ「匿名の領域」のような考察に至ったのでしょうか。ヴェイユの無意識には乳幼児期、おそらく胎児期にも、頭痛に苦しみながら妊娠、出産、授乳をしてきた母親からの突然の授乳の切断の体験が潜んでいます。だからヴェイユは苦痛を介してでなくては宇宙的な母である神に出会えないと感じてしまいます。しかも母であり神である性的な存在にはヴェイユの自力では到達できない。苦痛の極みで母であり神である存在のほうから一方的に突然にやってきて、充分な交感もしえないうちに消失してしまう。母であり神である存在のうちに、なにかあたたかい愛情や真実や正しいものが予感されるけれども、どうしても自分にはそれに触れることができない。

なぜできないのか。それは自分が悪いからだと感じてしまう。母親から冷たくされる幼児の自分が悪い子だからだと感じるように、大秀才のヴェイユ、成人したヴェイユも、自分がけがれた卑小な存在だから母であり神である存在の内奥にある善に到達できないと考える。自分が存在し、息をしているだけでも、神の作った清浄な世界を穢しているというふうに感じてしまう。

ここで考えが止まれば、ヴェイユは自己肯定感を持てない、罪悪感に苛まれる鬱病者としてとどまることになったでしょう。しかしヴェイユの強靭な思考力は苦痛と鬱の闇のなかで宗教的な思考の枠を超えて広がろうとしたと思います。神の作ったこの世界は聖なるものに違いない。しかし自分が存在することはその聖なる世界を穢すものでしかないと感じる。自分にも他の人びとにも信仰あるものにも信仰なきものにも、神の被造物であるがゆえに聖なるものがあるはずだ。だとすれば、人間が言葉を獲得し言葉を駆使して文明を作り、あまたの偉大な芸術家や科学者を生み出して文明を進めてきたこととは別個に、人間の聖なる本質は言葉を獲得する以前のどこかに存在して、それは現在を生きるあらゆる人のなかにいつも存在するのではないか。

ヴェイユの考えはそのようにして母型論的な考察に、別の方向から近づいていったんじゃないかと私には思えます。それは授乳障害という不幸な乳幼児期の生い立ちのさらに以前にある、人間が母体から生み出されるそのことのなかに、あるいは胎内に人間として形成されたそのことのなかにある本質です。それは「命は尊い」とかいう言われ方と同じようなことになりますが、そんな俗っぽいセンチメンタルな言葉ではなく、ヴェイユはあるいは吉本は、あらゆる世界思想を向こうにまわして普遍思想として存立できる凄みをもつものとして考察しているわけですよ。

吉本はヴェイユの「匿名の領域」の考察に深く影響を受けて、「存在倫理」という概念を提出しています。吉本が存在倫理という概念を初めて提出したのは、2001年9月11日にニューヨークの世界貿易センターにハイジャックされた航空機が乗客を乗せたまま体当たりした自爆攻撃の事件、いわゆる「9.11」といわれる事件の考察においてです。吉本は「群像」という文芸誌の2002年1月号の批評家加藤典洋との対談(「存在倫理について」)で次のように存在倫理という概念を説明しました。

「結局、こういうのを設定する以外にないんじゃないかとぼくがおもえるのは、社会倫理でもいいし、個人倫理でもいいし、国家的なものの倫理でも、民族的な倫理でもなんでもいいんですけれども、そういうもののほかに、人間が存在すること自体が倫理を喚起するものなんだよ、という意味合いの倫理、『存在倫理』という言葉を使うとすれば、そういうものがまた全然別個にあるとかんがえます。それを考慮しないと、この手前味噌な言い方とやり方は理解できないんじゃないかという感じ方になっちゃうのです。『存在倫理』という設定の仕方をすると、つまり、そこに『いる』ということは、『いる』ということに影響を与えるといいましょうか、生まれてそこに『いる』こと自体が、『いる』ということに対して倫理性を喚起するものなんだ。そういう意味合いの倫理を設定すると、両者に対する具体的な批判みたいなものができる気がします。そういう意味合いの論理を設定しないとダメなんじゃないか(存在倫理について「群像」1002.1)

ここで吉本が「両者に対する具体的な批判」といっている両者とは、9.11を引き起こしたとされたイスラム原理主義と、攻撃されたアメリカのブッシュ政権のことを指しています。

ところで9.11の事件については、ブッシュが報復攻撃の対象としたオサマ・ビンラディンと、ビンラディンをかくまっているとしたアフガニスタンタリバン政権、さらにサダム・フセインイラクアメリカを攻撃したのではなく、真相はアメリカのブッシュ政権の自作自演であるといういわゆる陰謀論が存在します。そして私は、この自作自演であるという陰謀論に根拠があると考えています。

しかし、9.11の真相がどうであれ、吉本の提出した「存在倫理」の意味の重要さは損なわれることはないと思います。吉本は「社会倫理でもいいし、個人倫理でもいいし、国家的なものの倫理でも、民族的な倫理でもなんでもいいんですけれども、そういうもののほかに」と言っているように、現在の思想、倫理として存在しているあらゆるものを向こうにまわして、普遍倫理、普遍思想の入口として「存在倫理」という概念を提出しています。これはヴェイユの「匿名の領域」の考察と深い関連をもつ考察であることは間違いないと思います。

「存在倫理」については芹沢俊介が「宿業の思想を超えて(2012批評社)」という本で取り上げています。それを解説してもいいんですが、今回は私自身の感想を書いてお茶を濁そうと思います。「存在倫理」という概念を普遍思想の入口とみなすということは、「母型論」的な考察、胎児期、乳幼児期の人間という言葉以前の人間のあり方を、歴史の初源の問題とつなげて、宗教と思想とのあいだに橋をかけようとするものだと思います。

ヴェイユの「その人の人格ではない。それはまた、その人の人間的固有性(ヴェルソンヌ・ニメーヌ)でもない。きわめて単純に、それは、かれ、その人なのである」という考え方は、西洋ではどうか知りませんが、東洋思想としては日本人の私たちにはなじみのある考え方のような気がします。たとえば「禅」というものがありますが、私も若いころに体験したんですが、人格とか個性というようなものを、ただ座ることによって振り落としていくもののように思います。言葉でできている人間から、言葉を離れてみる訓練、というか。言葉とともに人格とか個性といわれているものも、こそげ落ちるという感じ。人間のなかに動物的なものも、植物的なものも、無機物的なものもみんなあるという吉本の考察にしたがえば、動物的なものが眠り込んで、植物的な器官だけでそこにいる、という状態が禅の修行で、さらに植物的なものも消失すれば無機物に近いものとしてそこにあるというようになる。それを感得することを「悟る」といっているような気がします。

吉本は「存在倫理」について多くを述べる前に亡くなりました。しかしきっとここには吉本思想の最後の思想としての量感がこもっていると私には感じられます。「存在倫理」というものが普遍倫理として影響力を発揮するためには、言葉でできあがっているあらゆる世界思想の領域が、言葉以前の世界と宗教的な方法ではなく、思想的な方法でつなげられる必要があるはずです。それは「母型論」の試みた方法でしょう。その展開が具体的な精神の病気とか、政治経済の現状の理解とかにどうつながっていくかは興味深いところです。吉本はその構想を豊富に抱いたまま亡くなっていったように思えます。