人類は未だ若い。到るところに神々の古ぼけた顔がのぞいてゐる。(エリアンの感想の断片)

宗教性を払いのけたように見せているイデオロギー集団のなかにも理念が宗教的であるものが至るところにあるということを言っているんだと思います。吉本は現在の段階では、宗教だけでなくイデオロギーにも宗教性があって、どちらも普遍的な真理には到達しえていないと述べています。これから求められるのはいまだ実現していない「普遍宗教」とか「普遍倫理」というのは何かを追求することだとも述べています。

普遍宗教とか普遍倫理というものと、現在存在する諸宗教や諸イデオロギーとはどう違うかを考えると、宗教やイデオロギーはその倫理性の核心は「信じこむこと」で成り立っているといえます。イデオロギーが科学を装い、科学的社会主義とか名乗っていても、その実態としていえば「信じこんだ者たち」が信じ込めない者たちを排除して集団を作り、信じこめない者たちと敵対したり、自分の党派に勧誘したりしようとしているわけです。

だからそこには常に宗教集団と宗教集団の対立と抗争、イデオロギー集団同士の対立と抗争が絶えないことになります。では「普遍宗教」とか「普遍倫理」というものはどういうものかと考えると、信じこんじゃった者である宗教者やイデオローギーの信奉者にとって、もっとも重要なのは信じこめない者たちであるということがわかっているということだと思います。さらにいえば、信じこめない、あるいは信じる信じないという意識から遠い者たち、そんなことどうでもいいと考える者たちが重要であり、さらに価値を転倒してそういう無信仰、無イデオロギーの人のほうが、信仰者やイデオロギー信奉者より上位にあるんだという考えを持っているということになります。吉本はそう言っていると思います。なぜならそこにしか「普遍宗教」「普遍倫理」への入口はないからです。同門といいますか、同じ宗教者同士、同じイデオロギー信奉者同士で教団や党派や活動団体を作り、おでんをあっためるように特定の宗教やイデオロギーに浸してあっためあっておでんになることよりも、生のままのふきっさらしの野菜や肉のほうが上位にあるということです。

今回の初期ノートの文章はつながりがいいので、このまま吉本の分裂病の解説であるシモーヌ・ヴェイユの問題に入っていきます。

ヴェイユの神の問題の核心に入っていきたいわけですが、そのためには理屈を順序だって述べていくよりも、やはりヴェイユ自身が述べる背筋の凍るような文章から入るしかないと思います。前回も引用しましたが、それ以外の文章を引いてみます。

「死の苦悶はいまわのきわの暗夜であり、完徳に達した人たちでさえも、絶対の純粋さにたどりつくためにそれを必要とする。そのためには、苦しみが耐えがたいものであるほうがよい。(ヴェイユ重力と恩寵」)」

「神の体験をもたない二人の人間のうち、神を否定する人のほうがおそらく神により近いところにいる。(ヴェイユ重力と恩寵」)」

「わたくしの最大の望みはすべての意思だけでなく、すべての自分の存在を失いたいといううことでございます。(ヴェイユ「神を待ちのぞむ」)」

ヴェイユについての吉本以外の人の解説というものもいくつか読んだんですが、みんなインテリなんですね。だけど普通はヴェイユなんて知らないし、知ってても関心なんてない人がほとんどだし、私だってこうして解説する因縁が生じたから興味をもっただけで縁がない人だったと思います。だからそういう「ヴェイユって誰?」っていうフツーの感覚でこのドロッドロのヴェイユの文章に触れていくのが正直だし、縁なき衆生を上位におく「普遍宗教・普遍倫理」の理念にかなうような気がします。

で、そんな感じでいきますと、まずなんでこの女性は、つまりヴェイユはこうも死にたがっているのか、苦しみたがっているのか、おかしいんじゃないのということになりましょう。誰もが避けたいと思っている死に際の苦しみ、そのために終末医療とかホスピスとかが存在するその死苦を「できるだけ耐えがたいものであるほうがよい」と言っているんだからおかしいよ。苦しみってものをあまり知らないんじゃないのと思うかもしれませんが、それは誤解なんで、ヴェイユは終生たいへんな頭痛持ちで突然襲ってくる頭が割れるような頭痛に苦しみ抜いてきた人です。そんだけ苦しんで、まだ苦しみたいの?

苦しみたいだけじゃなくて、早く死にたいんでしょうね。じゃあ自殺すれば?と思いますが、自殺は禁じられたものなんだと思います。苦しみと死の先に神様との接触が考えられているのは間違いありませんが、なぜヴェイユにとって神は苦痛や死を通してしかやってきてくれないものなんでしょうか。

ふつう神様仏さまという通俗的というか大衆的な信仰なら、神様仏さまは善い行いとか、立派な振る舞いとか、礼拝を欠かさないとか、説教を聴くとか、そういういわゆる善行を積むことによって近づいてくる存在で、いいことをすれば天国とか極楽に行けるし、悪いことをすると地獄に堕ちるというふうに思われていますよね。耐えがたい苦しみを経なければとか、死ななければとか、あるいは死に近いほど自分の存在を失ってしまわなければ神様に触れることはできないというヴェイユの考えは異端もいいところで、そんなことを言ったらその教団に入る人はいないと思います。あるとしたら「死のう団」みたいな超異端の団体だけでしょう。

実際、ヴェイユは終生教団に勧誘されてもカトリックの教団に入らなかったそうです。ヴェイユは教団というのは違う、と感じていたんだと思います。引用したヴェイユの文章にもあるように、ヴェイユは「神を否定する人のほうがおそらくより神に近い」という考え方をしていました。これは親鸞の「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人おや」という言葉にとてもよく似ていてびっくりします。吉本によれば、善人よりも悪人、つまり不信仰の人を上位においた考え方は日本宗教史上で親鸞だけが言葉にしたといっています。おそらくヴェイユの「神を否定する人のほうが神に近い」という言葉もヨーロッパのキリスト教のなかで詳しくは知りませんが、そうとう異端の考えだったと思います。そういう人は教団には入りようがないでしょう。

それにヴェイユは左翼だったわけです。マルクス・エンゲルスの思想を信奉する人だったわけで、左翼はそもそも神の問題、宗教の問題をどう考えるかというと、神の問題は「人間の意識の無限性というものが神とされているんだ」という考え方で決着がついているものだと吉本は述べています。神様というもの自体は存在しないんだ。人間が自分自身の意識の領域を無限のものだと感じる意識が神とみなされているんだ、というふうに考えます。ヴェイユもそこから出発したのだから、神を信仰するというならどういう経路で思考が変わっていったかを本来説明しなければならないはずです。吉本はヴェイユはその説明をしていない、ヴェイユにとって神の問題は説明抜きに突然あらわれていると述べています。ヴェイユは徹底した緻密な論理の積み上げで物事を考える人で、いわゆる神秘体験とか神と触れ合ったというような触神とか見神とかの体験を疑問視する人だったそうです。そんなヴェイユが神について突然のように考えざるをえなくなるということは、ヴェイユの独特な神のあり方が、ヴェイユの根っこのなかに最初からあったものだと考えられます。

ヴェイユにとって神というのは、自分の世界の完全な外側に存在するものなのだと思います。つながりは少なくとも自分の世界の側からはないものです。こうすれば神様に近づけるというような、いわゆる善行を積めば、あるいはたくさんお祈りをすれば近づけるというようなつながりはないとみなされています。じゃあそんな神なんてものはないと同じじゃないかとフツーの人は思うわけですが、ヴェイユにとって疑いなく神はあるわけです。

自分が神を求めれば求めるほど、神は遠ざかる。自分が神とはどういう存在かと考えれば考えるほど神は遠ざかる。自分が存在しているということが、神を視えなくしている。なにをしたって駄目だということですよ。じゃあどうすればいいのか、それを教えたのがヴェイユを終生苦しめた頭痛と、工場体験でヴェイユを精神的などん底に叩き込んで、すべての左翼思想を否定する機縁となった「労働」の苦痛だったと思います。どっちにしろ耐えがたいような、しかし避けることのできない宿命的な「苦痛」です。

あとは次回にいたします。わかったようなふりをしないで、つまり「ヴェイユの問題ね、少しは知ってますよ」みたいなインテリぶったことをやらないで、フツーの「この人、ちょっとおかしいよね」「ありえない」という感覚でヴェイユを、そしてそれを通して吉本の母型論につながる問題を解説してみたいと思います。