わたしは、しかたなしに孤独な希望を刻みつけなければならぬ。(第二詩集の序詞(草案))

しかたなしにということは、本当は共同でもつ希望があればいいということです。吉本がこの文章を書いた敗戦後7年目という時期の共同の希望、日本人としての希望といえばアメリカに追従して戦後の復興を成し遂げて豊かな生活をしようということだったでしょう。そうした希望に疑問をもつ左翼の人たちは、ソ連中共に追従して日本を社会主義国にしようというのが希望だった。吉本はそうした左右陣営のふりまく希望を信じられなかった。だからしかたなしに孤独な希望を見つけだそうということでしょう。ひらたく言えば自分で納得いくまで考えようということだと思います。

吉本の人生が終わったいま、吉本は孤独な希望を見つけだすことができたのか問うことができると思います。わたしは吉本はごくふつうの人たちが社会の主人公でありうる社会、という希望に向かう細くて長い道筋を失っていなかったと思います。この現実が何年後何十年後に変わるという具体的な希望ではなく、希望は吉本の思想のなかにしかないわけです。しかし吉本は思想として見つけだした真理がじょじょに共有されていく道筋に希望をもっていたと私には思えます。

話を無理くりヴェイユにつなげますと、ヴェイユには希望というものは一滴もないといいと思います。ヴェイユは絶望の代名詞みたいなものです。政治や社会的な希望は失っていますし、神に到達するという意味でも自分の意思や努力で到達できるというふうにはまったく考えていないわけです。

ヴェイユをなにもかもに絶望し、とうとう食べることも拒否して衰えて死んでいった女性とだけ考えるならなんともやりきれない人生だなと思うしかありません。しかしそれだけではないと考えざるをえません。なぜ吉本はヴェイユにこだわり、一冊の本を書くほどに傾倒したのか。ヴェイユとは何か。

吉本は昭和54年に行った「シモーヌ・ヴェイユの意味」という講演で聴衆にむかって、皆さんが現在ひたっている文化の環境はサブカルチチュアとかカウンター・カルチュアとか呼ばれる文化が大衆のあいだで壊れていく環境だといえます、と言っています。つまり私たちの文化はテレビであったり漫画であったりポップミュージックであったりで、かってのカッチカチの政治思想とか哲学とか学問、あるいは純文学や批評やクラシック音楽といった正統派文化が解体するなかで生み出される文化だということです。吉本によればヴェイユはヨーロッパの文化が世界の文化というのと同じだというほどの勢いをもっていた時代の、もっとも正統的な文化の、しかももっとも固い、困難なところにみずからぶつかって、粉々に砕け散ったような思想家です、と語っています。だから聴衆の皆さんはあまり関心をもたないかもしれませんが、ただ現在の世界文化はどういうものであり、どういうものを築き上げ、そしてどういう成果をあげて、どういう重大な欠陥が露呈されているかを知ることは決して悪いことではないと思いますと言っています。吉本自身がそうしたように、世界文化が解体される前に大真面目に生み出した大山脈のようなヨーロッパ文化、世界文化の一番固い岩盤に挑んだ思想家だというのが吉本のヴェイユへの評価、いわば最大の賛辞といえるでしょう。

その岩盤に全身でぶちあたって粉々に砕け散ったすさまじい女性としてのヴェイユに希望はまったくないように思えますが、吉本が取りだしたヴェイユの最後の思想に細くて長い思想としての希望が見いだせるといえば言えます。もういっきにそこへ解説をもっていこうと思います。

ヴェイユは個としての自分の意識の完全な外側に神を設定しているといえます。

ヴェイユは人間がかかわれる世界の外側に、人間の能力のとどかない領域をかんがえ、それを「神」の実在性の領域だとみなしている。およそ人間の能力をこえた大規模の善、真理、義があるとすれば、その実在性は、その「神」の領域からまいおりてくるものだとヴェイユはいう(吉本隆明「蘇えるヴェイユ」1992JICC出版局)」

ヴェイユのこうした考え方は「絶対他力」を語る親鸞にたいへんよく似ていると思います。だからヴェイユの考え方は私たち日本人には親しい考え方だともいえます。問題はこのあとです。吉本はこの文章のあとで「では、この「神」の領域との対比のうえで人間とはなにか、人間的領有とはなにか?」と問いかけています。その答えはヴェイユ自身の言葉を引用して示します。

「人間だれでも、なんらかの聖なるものがある。しかし、それはその人の人格ではない。それはまた、その人の人間的固有性(ベルソンヌ・ニメーヌ)でもない。きわめて単純に、それは、かれ、その人なのである。(ヴェイユ「人格と聖なるもの」)」

人格の表出のさまざまの形式であるにすぎない科学、芸術、文学、哲学は、華やかな、輝かしい結果が実を結び、それによっていくつかの名前が数千年にわたって生きのびる、というある領域を構成している。しかし、この領域を越えて、はるかかなたに、この領域とはひとつの深淵でもって距てられた、もうひとつの領域があり、そこには第一級のものがおかれている。それらのものは本質的に名をもたない。

その領域にわけ入った人びとの名前が記録されているか、それとも消失しているかは偶然による。たとえ、その名前が記録されているとしても、それらの人びとは匿名へ入りこんでしまったのである。(ヴェイユ「人格と聖なるもの」)」

このヴェイユの匿名の領域とか無名の領域といっている考え方に対して、吉本が率直なわかりやすい言葉で語っているところを引用してみます。

「ヴェユは『歴史上、偉大な人たちはたくさんいる。そういう人たちのことは、
ちゃんと記録にも残っていて、誰でも知ることはできるけど、真に偉大なものは、さらにその彼方にある』といったんです。・・・そこは〝無名の領域〟です。・・・『価値の源泉とは何か?』といえば、やっぱりそこだよって。僕にとっては、ヴェーユがいってることは、自分を支えるつっかい棒になっていますね」(吉本隆明「超「20世紀論」2000アスキー)」

このヴェイユの最後の思想は吉本に多大な影響を与えていると思います。それは吉本にとっても若いころから考えに考えてきたことと似通っている考えです。吉本はマルクスのような千年に一度しか歴史に登場しないような巨人も、市井の片隅で八百屋さんとかやりながら生き死にしていった大衆と価値はまったく同じなんだという思想をもっています。それが価値の根底と吉本がみなした「大衆の原像」という思想です。この「大衆」についての思想がヴェイユの到達した「無名の領域」という思想とよく似ていて、吉本はそれを「自分を支えるつっかえ棒だ」と言っているわけです。

晩年の吉本は、特に9・11アメリカの事件以降、「存在倫理」という概念を提唱し始めました。この「存在倫理」という概念もおそらくヴェイユの思想を考えるなかから生まれてきたもののように思えます。

「結局、こういうのを設定する以外にないんじゃないかとぼくがおもえるのは、社会倫理でもいいし、個人倫理でもいいし、国家的なものの倫理でも、民族的な倫理でも、なんでもいいんですけれど、そいうもののほかに、人間が存在すること自体が倫理を喚起するものなんだよ、という意味合いの倫理、『存在倫理』という言葉を使うとすれば、そういうのがまた全然別にあるとかんがえます。それを考慮しないと、この手前味噌な言い方とやり方は理解できないんじゃないかという感じになっちゃうのです。『存在倫理』という設定の仕方をすると、つまり、そこに『いる』ということは、『いる』ということに影響を与えるといいましょうか、生まれてそこに『いる』こと自体が、『いる』ということに対して倫理性を喚起するものなんだ。そういう意味合いの倫理を設定すると、両者に対する具体的な批判みたいのができる気がします。そういう意味合いの論理を設定しないとダメなんじゃないか(芹沢俊介『宿業の思想を超えて 吉本隆明親鸞』」より)

価値の根底というそれこそ正統派文化の岩盤の一番固いところにぶつかって生み出された吉本とヴェイユの思想が似ていることはとても興味深いことです。そしてこうした考え方は難しいことはわからないけど、感覚としては日本人である私たちにはどこか親しいものがあることも確かです。もしヴェイユにこの最後の思想がなかったら、まったく息苦しい縁遠い思想のような気がします。そしてこうしたところから母型論との関連で、ヴェイユの思想を見渡してみたいと思います。それはまた次回。