ひとは女性たちが建築の底を歩むのを視たことがあるだらうか。その如何にも不調和な感じを覚えてゐるだらうか。女性は視覚的実在であるのに反し、近代の建築群が抽象的実在であるためである。又僕は、濠と丸の内街の中間にある路を馬車が通るのを視たことがあつたが、それは如何にも不調和なものに感ぜられた。決して馬車が前時代的であるからではなく、馬が視覚的実在であるからだと僕には思はれた。(〈建築についてのノート〉)

初期ノートの別の個所に「僕は眼を持たない。眼なくして可能な芸術。それは批評だ」と書いてあります。批評というものは論理性であり、抽象性であり、観念です。目で見るとか手で触れるという五感覚でとらえた対象を観念の内部で抽象化していくことは、抽象化された観念だけで形成される領域を作っていきます。その領域の内部では、目(とか五感覚)は必要ではないことになりましょう。そうした観念的な思考に日夜没入している青年が、逆に見ることをふいに意識したときに、五感覚がとらえるいつも見ているはずの抽象化される前の世界が、なにか異質なものに感じられる。つまり普通の生活人の感覚とは逆になっているわけです。そういう逆転した異和感について書いているんだと思います。

そういう感覚の異和感を利用したものに、たとえば寺山修司の演劇があるんじゃないかと思います。抽象的な観念的な思考を強いる舞台の壁が不意にバタンと倒れると、そこにナマの新宿の雑踏が現れる、というような演出です。「書を捨てよ、町へ出よう」か。懐かしい時代です。

さて、そんなところで吉本の分裂病理解の解説に移らせていただきます。

「大洋」期は「食」と「性」とが未分化な時期だと吉本は述べています。赤ん坊がおっぱいを吸うという「食」の行為が、身体のエロス覚に快感を感じさせる「性」と共時的にある状態です。この身体全体に混沌として渦巻く「大洋」期の「性」というものこそが、精神の初源にあった普遍的なものだとみなすことができます。このことの意味の巨きさというものを考えてみたいと思います。

フロイトの見つけだしたところでは、あらゆる精神神経症のただひとつ変わらぬ源泉があるとすれば、性の欲動のエネルギーで、その流れの異常が症候を形づくることになる」と吉本は「母型論」のなかの「異常論」の冒頭に書いています。ここでは馬鹿にされるかもしれませんが、精神神経症という概念について詳しく考えることは棚上げしておきます。精神の異常というものの根源に性の欲動のエネルギーがあり、その欲動の流れの異常が精神の異常の症候を作り出すというくらいにおおざっぱに理解します。だとしたら「精神」と私たちが呼んでいるものの源泉は「性」だということになります。そして「性」の初源は「大洋」期の「食」と未分化な混沌のなかにあるということになります。

性の異常が症候を形作る、というときに一方に「正常」ということが考えられています。「正常」な性とは何かといえば、それは成年にとっての性器性愛といいますか、男と女の性器にエロス覚があって行われる性行為を中心にした性のことでしょう。そこから見て、正常に至らずに逸脱した性を異常とか性倒錯とか変態とか呼ぶのだと思います。

さらに考えると、「正常」とは身体的に女性である者が、観念の性としても女性であり、身体的に男性、つまりちんちんのある者が、観念の性としても男性であるということを指していると思います。このことの奥にはもうひとつ問題性が潜んでいます。身体としての性が男性と女性に分かれるということは認めてもいいとしても、観念としての性が男性と女性に分かれるというのは決定的なことなのか、という問題意識です。「男は男らしく、女は女らしく」という古臭い言葉があります。最初の「男は」は身体的な性である男性ですが、「男らしく」は観念としての性としての男性でしょう。しかし観念としての性というのは、身体としての性と別個に考えるべきものです。しかしこの問題も少し棚に上げておきます。

さきほど「母型論」から引用した文章の続きに「そしてあらゆる精神神経症には例外なく無意識のなかに封じ込められた性の倒錯の感情がこもり、同性の人物にたいしてリビドーが固着しているとみなされる。これもまたフロイトが認めるしかないとかんがえたものだ」と吉本は述べています。つまり精神の異常性は性の異常性であり、それは例外なく無意識のなかに同性愛の感情があるということになります。そして同性愛は倒錯であるということです。

しかし「倒錯」というならば「乳幼児の日常の振る舞いは、すべて性的な振る舞いと分離することができないし、またその振る舞いはすべて性として異常とみなさなくてはならない」と吉本は述べています。だとすれば「正常」とか「異常」という性についての概念は、大きな疑問を生じることになりましょう。乳幼児期の性という誰にでも当てはまる普遍性のなかで、あらゆる人が性的に「異常」である時期をもつとすれば、いっそ「正常」「異常」という概念を不問にふして、逆に乳幼児期の性を初源とみなして、そこからさまざまな文明が分かれていくように成人のさまざまな性のあり方が分化していくとみなすこともできます。そして身体的な男性、女性ということとは別個に、観念としての男性や女性あるいはもっと多様な性の形が展開するとみなすこともできると考えます。

このことは性の異常と関連する精神の異常についてもあてはめることができます。乳幼児期、じつは胎児期・乳児期である「大洋期」に形成されたものが本質にある時期、における精神の初源から枝分かれしていく精神の多様な展開として、さまざまな精神の異常といわれているものの因果をたどることができると思います。このことは性の異常と呼ばれるものや、精神の異常と呼ばれるものが当事者をどんなに生きにくくさせるか、苦しませるかということとは別のことです。正常、異常という選別や、治療の対象として正常に復帰させるべきものとみなす前に、あらゆる人にあてはまる初源の混沌のなかから派生していく性と精神の姿として理解したいということです。

こうした疑問の奥にもっと掘り下げたい問題性もあります。それは吉本がどこかで書いていましたが、人間が人間という他の種とは異なる特殊性を持っていることのなかに、性や精神の異常性を生み出す根源があるんじゃないかという問題意識です。逆にいえば人間であるかぎり性や精神の異常性と無縁ではありえないということでしょう。さらに文明を発達させるということが人間の人間たる特殊性だとすれば、文明を発達させるということのなかに性や精神の異常性といわれるものが深く関わっているのではないかという問題意識です。しかしこれもとりあえず棚にあげておきます。

話をもどして乳幼児期の性のありかたに戻ります。ポイントは乳幼児期の性の混沌としたありかたをどう捉えたらいいか、ということと、その混沌とした「大洋」の世界が言語を獲得する、つまり人間の人間たる特殊性を発揮するということは「大洋」の世界にとってどういうことか、ということです。また異常性というものは、その大洋から言語へという過程とどのように関わるのかということです。

そうするとフロイトを避けて通るわけにはいかないことになります。吉本はフロイトの考え方に批判をもちながら、フロイトしかこの領域に深い洞察を発揮したものはいないという理由からフロイトに依拠する、という矛盾を感じています。フロイトと別個に問題を提出したい、しかしいまのところフロイトに依拠せざるをえないという葛藤です。

そこでフロイトの洞察である「あらゆる精神神経症には、例外もなく無意識のなかに性的な倒錯の感情が含まれており、同性にたいするリビドーの固着があるとみなした(「異常論」)」と吉本が述べているところが重要になります。例外もなく、というところが凄いですね。

このフロイトの洞察が正しいとして、ここには理解が難しい問題があります。乳幼児は身体的に男性であったり女性であったりします。そして乳幼児には他者としてあらわれる圧倒的な存在は母親しかいない。だから精神と性の異常性の根源になるのは、母親と乳幼児の関係の異常性しかありえない。母親と乳幼児の関係は「食」と「性」の共時性ということのなかにある。母親と乳幼児の関係の異常というのは、ひらたくいえば母親のほうにいろいろな鬱屈とか抑圧や屈折があるということになります。子供ができたけど、ダンナとの関係が悪くて十分な愛情を注げないとか、生活が苦しくて子育てどころではないと焦りながらしかたがなくおっぱいを与えているとか、ほんとうは子どもなんかほしくなかったと悔やみながらいやいや育てているとか、そういう母親のがわの問題です。それは母親にとって意識されたものである場合も無意識である場合もあるわけです。このことが男性であったり女性であったりする乳幼児の「同性へのリビドーの固着」を生むということです。

吉本はこの同性愛が根源に形成されるということについて、二通りの筋道を述べています。ひとつは、赤ん坊を愛しきれない母親の意識、無意識は乳幼児、さらに胎児にかならず刷り込まれるということがあります。そのために胎児、乳幼児は母親への過剰なエロス覚の固着をもつように成長する、と吉本は述べています。そして「この乳(胎)児が幼児をへて前思春期にまで達したとき無意識のなかでじぶんを母親と同一視することになり、母親にそうされたかったのにそうされなかった欠如をじぶん自身を性の対象にして充たそうとする(ナルチシズム)か、そうでなければじぶんに似たじぶん以外の同性を対象にして母親に願望したようなエロスを注ごうとすることになる(「異常論」)」ということになります。これは乳幼児の性愛は自体愛(ナルシチズム)であるということが前提になると思います。そして乳幼児には性愛の対象は母か自分しかいない。母親への性愛が「正常」に発達すれば、それは他の人物への愛情として展開し、やがては性器性愛として異性を求めることになるわけでしょう。つまり母から離れることができるのは、母からのふんだんな愛の賜物だということになります。愛されたから旅立てるわけです。しかし十分な愛が注がれなければ、その欠如感をナルシチズムへの固着で充たそうとせざるをえない。自分を対象とした性愛だから、同性愛とみなせるのだと思います。

さらに自分以外の同性に性愛が向かうのは、ナルシチズムの延長になるのだと思えます。自分へのナルシチズムの性愛を広げれば同性への固着にならざるをえない。このために男女の身体の違いを問わずに同性愛の性愛になるという理屈だと思えます。

吉本はもうひとつの同性愛の経路を述べています。「また母親から嫌悪を植えつけられな乳(胎)児は、女性をすべて母親に似たものとして嫌悪と情愛をうけとり、嫌悪を消去するために同性にその愛を転嫁しようとするにちがいない。それは生涯にわたる女性からの逃避に結びつけられるとしても、本人がその理由を知っているかどうかはまったく自身ではわからないといってよい。これもまた倒錯症のべつの型をつくることになる(「異常論」)」。

これは身体的に男性の乳(胎)児についての考察だと思います。男が男を愛するというホモセクシュアルがどうして生じるかの経路を描いているということになります。

あとはまた来週にします。