深い静寂について、又茫漠として意識の遠くにある海について、あきらかに今沈まうとしてゐる人類の寂しい夕ぐれについて、あの不気味な地平線の色について、誰が僕のとほりに考へるか。(夕ぐれと夜との独白(一九五○年Ⅰ))

こういう西欧の翻訳された文学に影響された比喩を使って書くことは初期ノートの特色ですが、それは若いからだと思います。「今沈もうとしている人類の寂しい夕ぐれ」なんて照れくさい比喩はだんだん吉本は使わなくなります。そういう比喩を自分に許すときに、関東風に言えばちょっとスカした時に、関西風に言えばイキった時に、意識がふわっと上昇するような感覚があります。それはそういう言葉使いをする世界のほうが、自分の身についた言葉使いをする世界より上にあると感じているからだと思います。必要もないのに石原慎太郎みたいに英語を取り交ぜて話す奴がいますが、それも英語圏のほうが日本語圏より上にあると無意識に感じているんだと思います。それが現実の秩序が意識に投影された意識の秩序です。吉本はそういうことに敏感ですから、自分の意識の上昇感覚というものに批判的になっていくとともに、イキった比喩は使わなくなっていったと思います。

では吉本のなかに西欧文学に影響された豊富な比喩や感覚は消え去ったかというとそんなことはないわけです。このあいだテレビで築地市場で「らっしゃい!」とか言っているねじり鉢巻きで角刈りのおっさんにインタビューしていましたが、意外にサルサが好きだとかレゲエが好きだとかジャズが好きだとか似合わないことを言っていました。吉本も築地のおっさんみたいな風体をしていますし、言葉使いも下町風ですが、その胸の中には豊かな西欧文学的な比喩や感覚が内蔵されています。時折吉本の文章のなかでそれを垣間見ることがあります。

そんなところで吉本の分裂病理解の解説に移らせていただきます。

シモーヌ・ヴェイユに対する吉本の文章を取り上げて、具体的な人物の表現を母型論的な思想と結びつけて解説するつもりでやってきました。ヴェイユのドイツ問題の分析と工場体験について解説してきました。ドイツ問題の分析を終えた時に、ヴェイユはおそらく当時の左翼のなかでは最も先鋭的な思想に到達していました。そしてそのことはヴェイユを絶望させ孤独にしました。そこからヴェイユの思想はまったく孤立した個の思想として綴られていきます。こうした経路は吉本の戦後の歩みによく似ています。

しかしこのドイツ問題への結論の出し方に吉本は批判ももっています。それはヴェイユがドイツ問題、ということは世界的な政治問題の縮図という意味をもつ問題ですが、その分析から「管理者と被管理者の永続性」という結論を導いたからです。前に解説したように、左右を問わずどのような国家体制になろうとも、頭脳労働をする管理者の階層と、肉体労働をする被管理者の階層の差別と支配関係は変わらないのではないか、というのがヴェイユの結論でその結論が一切の政治党派や政治活動への絶望を強いたといえます。その結論に対する吉本の批判があるわけですが、それは前回解説しました。

ドイツ問題のあとにヴェイユは「戦争」の概念を分析しています。そしてここでも「管理者と被管理者の永続性」という問題のヴァリエーションであると思いますが、左右を問わずあらゆる「戦争」を否定するという結論に至ります。正義の戦争とか不正義の戦争とかそんなものはない。あらゆる戦争はダメだという結論です。マルクス・エンゲルスレーニンの戦争観もヴェイユにとっては不十分な否定すべき戦争観でした。ヴェイユは戦争とは国家機構がじぶんの大衆を抑圧し殺させる、それが戦争だと徹底的に言っています。吉本はヴェイユ戦争論を最大限に評価しています。現在でも生きている唯一の戦争観だと評価しています。

いずれにせよこうした徹底的な社会分析、政治分析の結論はヴェイユを絶望させ孤立させます。政治的に行動しようにも賛同できる勢力や政治思想がどこにもないし、「管理者と被管理者の永続性」という解決の道の見当たらない問題がヴェイユに立ち塞がっているからです。ここからヴェイユの独自の神学思想への道が始まります。そしてこのことは吉本の戦後の歩みと本質的に分かれることでもありました。吉本には幻想論があります。だから共同幻想の領域でいかに絶望し孤立しても、その解決は新たな包括的な共同幻想の領域を創りあげる道しかないと考えられています。だから戦後、吉本もヴェイユと同様にあらゆる政治党派や勢力に絶望し否定したでしょうが、政治思想は政治思想で乗り越えるしかないという道を歩んだと考えられます。

しかしヴェイユは彼女のそれまでのマルクスに学んだ思想や、工場体験などの体験を抱え込んだまま、個としての「神」の問題にのめりこんでいきます。そこにはヴェイユの資質の問題がおおきく関わります。そして病的であるという意味でも背筋が凍るような本格性を感じさせるものがあります。しかしヴェイユは思想として自らの資質と病理とが追いやる世界に立ち向かっています。資質の病と精神の病気に振り回される人は大勢いるわけですが、西欧の一級品といえるほどの頭脳が自らを振り回す資質と病に向かって思考を続けるというドラマはそうそう視られるものではありません。そういう意味でヴェイユは重要であるし、病理に関心をもつ人々を勇気づけるものがあります。また西欧の思想の頂きを形成する思想家たちが、どこかに病理を抱えているとすると、その西欧思想の核心にある病理性をあぶりだすだけの迫力をもっているともいえると思います。

さてヴェイユの独自の神学の世界をどのように解説していったらいいでしょうか。これは理屈で説明するだけでは伝わらないものです。ヴェイユの言葉を引用して、何かを感じ取ってもらうことからしか始めようがない気がします。その言葉にある凄さというものは、感じない人には感じないものかもしれませんし、そういう人は病理とは遠くにある人ともいえるから結構なことだともいえます。



「神が存在するという考えのなかに充ち溢れるよろこびを見出すならば、われわれ自身は存在していないのだという認識の中に同じ充ち溢れるよろこびを見出すべきである。なぜなら、どちらも同じ考え方なのだから。そしてこの認識は、苦しみと死を媒介としてはじめて感受性にまでひろがっていく。(ヴェイユ重力と恩寵」)」



「社会的な意味でも、植物的な意味でも、自分で自分の根を抜くこと。

地上のどんな場所からも立ちのくこと。(「重力と恩寵」)」



「この創られた世界がもう私に感じられなくなるようになどとはつゆほどものぞんでいない。むしろこの世界が感じられるのは私個人に対してでなくなるようにとのぞんでいるのである。私に対して、この世界はあまりにも高いところにあるその秘密をもらすことができない。私が立ち去れば、創り主と創られたものたちは互いに秘密を打ち明け合うであろう。

私がそこにいないときの風景をあるがままに見ること……

私がどこかにいれば、自分の呼吸と鼓動とで天と地のしじまを穢している。(「重力と恩寵」)」



「完全に執着から抜け出るためには、不幸を味わうだけでは十分でない。慰めのない不幸が必要である。慰めがあってはならない。ことばにあらわせるような慰めがすこしでもあってはならない。そうすれば筆舌に尽くせない慰めが舞い降りてくる。

 (中略)

われわれも自分自身の内部から現世的なものをすっかり取り除かなければならない。
奴隷の本性を帯びること。空間と時間のなかで占めている一点を凝縮すること。つまり無に帰すること。

現世の仮想の王位を脱ぎ捨てること。絶対の孤独。そのとき、人は現世の真理をもつ。(「重力と恩寵」)」



では続きは次回で。