現在僕の周囲を覆つてゐる形ない暗黒が、若し僕の自由を覆つてゐるものであるとするならば、それは歴史的な現実が、形而上学的乃至は心理学的な形象を以て現はれてゐるものであると考へざるを得ない。僕がそれを脱出することは、現実を変革する実践によつて行はれるであらうが、それは同時に僕の生理を変革することに同型である。(原理の照明)

「形ない暗黒」とか、そういう文学的な表現にとらわれないで考えれば、自分の実生活、家族とか学校とか会社とか地域とかの自分が生きている小さな生活領域に起こっていることを、歴史的現実という普遍的なものに結びつけて吉本は考えているということです。これは吉本の思想の大きな特徴ですが、それはやはり文学からきているものだと思います。知的な連中というのは案外そういうことをやらないものです。どうするかというと書物を読んだり表現したりする観念的な問題と、自分の実生活とは分離してしまうわけです。例えば観念としては日本が西欧に比べて近代化が遅れているというようなことを知的な世界で書いたり語ったりしていても、実生活では近代以前の生活習慣とか人間関係にどっぷり浸かって暮らしていて、そのことの矛盾に苦しむこともしないというような。

そしてそういう奴は年を喰って世間の重さが身に沁みたり、若い表現者の台頭に押しやられたり、時代状況が切迫したりしてくると、手のひらを返したように通俗的な道徳とか世間の重さとか日本の伝統の良さなどを提唱しだすことになります。それは要するに付け焼刃で乗っけていた西欧的な観念や先端的な衣装が崩れて、もともとのねぐらのような世間的な常識や道徳に無批判にひたっていた自分に回帰したとうことです。

またそれまで先鋭的な鋭いことを言っていた知識人が、大きな社会的な動乱のなかで知的な風潮の多数派に呑み込まれていくことがあります。それも同じようなことで、知識人は知識人同士のつながりをもっているわけです。それが知識人的な一種の世間になります。その知識人的な世間が、つまり知的なお仲間がある方向に雪崩れていけば、自分も雪崩れていくんだと私は思います。その知的なお仲間は自分の知的な職業を支える経済的な相互扶助のつながりでもあるわけで、そのなかで孤立することは職業的に干上がることでもあるわけです。文学者の反核署名を集める運動が風靡したときに、吉本が「反核異論」という一冊の本を書いて批判した眼目のひとつはそうしたことに関わっています。つまり町会の寄付金みたいなもので、そこに反論を言ったり参加を拒否したりすることは知的な世界からの孤立であり、執筆の場所が干上がるということを意味しています。表は一見誰も批判できないような大義名分を唱っていながら、実はこの署名に逆らったらお前は干上がるぞという脅迫でもあります。

そうしたことをよくわかっている吉本は知的な世間である文壇とか文学団体に属さず孤立して文筆で生きることを目指していきました。それでも共感しあった幾多の知識人が吉本の表現を受け止められずに去っていきました。別離につぐ別離、孤立につぐ孤立が吉本の人生です。しかしそうしなければ、徹底した孤立を支払わなければ維持できない思想の自立性は、眼に視えない血まみれの苦しみと引き換えに保たれていったといえます。

そんなところで吉本の分裂病理解の解説に移らせていただきます。

シモーヌ・ヴェイユに対する吉本の理解を取り上げて、吉本の母型論的な思想が具体的な対象に向けられるところを知りたいと思いました。前回の解説ではヴェイユが優れた左翼の理論家であることを解説しました。その優秀さはドイツの政治状況の分析を通じて、当時は誰も到達することのできなかったロシア共産党スターリニズムの批判に達してしまったことにあらわれます。

ヴェイユは現実の政治勢力のなかには保守勢力でも左翼勢力でも、真に労働者や民衆が権力をもつという理想を目指しているものはひとつもないという結論に行きついて絶望します。この現実の政治に対する絶望が契機となって、内面の問題、ヴェイユの独自の神学の問題に入っていくと思います。しかしその間に重要なことがあって、それは吉本によればヴェイユの工場体験です。

ヴェイユはソルボンヌを出た大秀才ですが、ひとりの女子工員として工場に働きに行きます。ヴェイユはもともと体の動きは不器用な人であったようですし、頭はさかんに使うけれども体を動かすことは特にしてこなかったインテリですから、工場ではくたくたになります。工場で働くことは多くの人がやっていることですから、特別なことではないですが、ヴェイユのような生粋のインテリ女性が体験するとぼろぼろになるということです。だからインテリはインテリの世界で生涯を過ごすわけです。スポーツをしたりして体を鍛えるインテリはいるでしょうが、肉体労働をして過ごすインテリは少ないわけでしょう。それは知的な世界と肉体労働の世界が分離していくことにつながります。

ヴェイユはあらゆる政治勢力に絶望すると同時に、その絶望の根底のところに知的な世界と肉体労働の世界が分離して、知的な人間が肉体労働をする人間を支配し管理することはどんな政治理念をもってしても変わらないのではないか、という疑問を抱きます。資本主義の社会だけでなく、社会主義の国家でも指導する階層、つまり知的な階層が労働者、民衆、つまり肉体労働をする階層を支配し管理する。その図式は変わらなし、それが変わらない限りは真に労働者、民衆が権力をもつ社会は永遠に到来しないのではないかという疑問です。

そういう疑問もヴェイユの工場行きの動機であったと思います。自分は指導する側の人間として育ってきた。しかし指導される階層である工場労働者などのことは何も体験していない。なにもしらないままに仲間意識をもっていた。しかし本当は違うんじゃないか。自分が無意識に所属していた知的な階層は実はどんな革命が行われても労働者、民衆を指導し支配し管理していく不変の支配者にすぎないのではないか。

こういう考え方は左翼のなかからあらわれる必然をもっています。左翼になる知的な人は労働者階級を支配し搾取している階層だという劣等感をもっていて、それが契機となって左翼になる人が多いからです。太宰治なんかもそうですね。自分の実家が大地主だということにとても恐縮した気持ちをもっています。そして「階級横断」というか、実際に労働者にならなくてはダメだとか、真の労働者との連帯のためには、自分の階級を捨てなければホンモノではない、というような倫理がうまれて、実際に工場や農村に入っていく人たちもいたわけです。

吉本はこうした考え方に批判をもっています。批判の眼目はふたつあると思います。ひとつは知識には知識の課題があって、労働者の生活を体験するかどうかは二の次だということです。知識は限界を超えて知識と想像力を飛翔させていくことが課題であって、工場で働いたかどうかはどうでもいいことだというのが吉本の考えです。では労働者とか民衆と分離したままではないかという問題には、吉本は「大衆の原像」という思想をもって答えるわけです。知識の課題は無限に広く深く知の世界を拡大することであるが、同時に「大衆の原像」を繰り入れていくのが知の課題なんだと言っています。どちらにしても観念の問題、知の問題なので、工場で働いたことがあるかどうかということはどちらでもいいことだというのが吉本の考えだと思います。

もうひとつの眼目は、ヴェイユの疑問である頭脳労働と肉体労働の区別は解消されることがないのではないか、そしてそれが解消しない限り、どんな革命もどんな政府も労働者の解放を実現することがないのではないか、という疑問への批判です。吉本はこの頭脳労働と肉体労働の区別という問題は「国家を開く」ということで解消できるのではないかと考えています。「ほんとうの考え・うその考え」という吉本の本に書いてあることですが、「国家を開く」というのは、国内的にいえば国家・政府に対するリコール権を民衆がもっていることだと吉本は述べています。一般民衆が無記名の直接投票で政府をリコールすることができれば、労働者、民衆が解放されている国家といっていいんじゃないかということです。ヴェイユの考えにはそういう観点はありません。肉体労働と頭脳労働の区別が実際にあったとしても、肉体労働の側から頭脳労働をリコールする権利があればいいんだという考えです。

もうひとつヴェイユの考え方への吉本の批判があります。それはヴェイユの生きた時代は第二次産業である工業が産業の中心を占めていた時代だけれども、現在では第三次産業が中心を占める時代に移行したという認識です。第三次産業は半分が頭脳労働で半分が肉体労働というのが大きな特徴だから、ヴェイユのいう肉体労働と頭脳労働の差別が永久になくならないという問題は、少なくとも先進資本主義国では解消されてしまっていると吉本は述べています。

こうした批判をもちながらも吉本はヴェイユの工場体験に関心を寄せています。それはひとつはヴェイユが工場で働く姿勢の徹底性だと思います。ヴェイユは素性を隠してひとりの女子工員になりきって工場で働きます。もうひとつはヴェイユが工場体験から生み出した考察の重要さです。吉本も工場で働いた経験をもっています。だからヴェイユの考察の鋭さと、そのなかに潜んでいるヴェイユの資質に関心を持ったのだと思います。その考察についてはまた次回に。