悲しい僕らの国の現実。或る者はアメリカ式の感覚攪拌の音楽によつて踊り、或る者はソヴイエト・ロシヤ式群舞踊によつて踊つてゐる。しかし僕の魂は如何なる形式でも舞踏しなくなつてゐる。僕の関心は正しく悲劇的と呼ぶべきものであらうか、この国ではいつも悲惨な運命を負はされざるを得ないものだ。(中世との共在)

音楽というのは音楽そのものを指していると同時に、比喩としてアメリカのイデオロギーソ連イデオロギーのことを指していると思います。アメリカから民主主義として押し付けられるものも、ソ連から社会主義として押し付けられるものにも僕の魂は踊れないと言っています。こうした拒否する気持ち、否定する気持ちを持つということが悲劇的ということなんでしょう。逆に肯定するということは救われるということになるんでしょう。それでいつか騙されたと悔やむとしても。

否定ということに囚われる者は、この国ではいつも悲惨な運命を負はされざるを得ないという若い吉本の洞察はやがて「悲劇の解読」という著作に結晶します。「悲劇の解読」は太宰治小林秀雄横光利一芥川龍之介宮沢賢治といった吉本が若いころから傾倒してきた文学者の悲劇を描いています。これらの文学者だけでなく多くの日本の知識人はそうなんだろうと思いますが、若いころに日本の現実を嫌悪し否定して、西欧に憧れます。そして西欧の書物や映画を見たり留学したりして西欧の文化に浸っていきます。その結果、行きっぱなしになって黄色い西欧人のようになったつもりになる人たちもいます。あるいは国際人という根無し草みたいな人格になる。しかし否定という悲劇を演じる人たちは、西欧の社会あるいは文化に自分が弾き飛ばされることを感じるわけでしょう。西欧には自分たち東洋の人間がどうしても入れない壁がある、ということを鋭敏に感じるということです。そこから悲劇が始まります。

ちょうどそこに太平洋戦争も始まって、西欧列強を敵とする国家イデオロギーものしかかってきます。日本を否定し西欧に憧れ、西欧からも拒絶された者たちは日本の現実に戻ってくるしかありません。そこでやっぱり黄色い西欧人とか国際人として上から目線で遅れた日本の現実を冷笑するという連中もいます。しかしより深く否定に囚われた鋭敏な人たちはそんなこっぱずかしいことはできないでしょう。それでもっと本格的に再度日本を肯定しようとするのだと思います。嫌悪した日本の現実をもっと掘り下げて、肯定できる日本固有の美意識とか、天皇とか、あるいは日本に土着した宗教とかを肯定しようとします。しかしそれでも肯定しきれない人たちは迷いながら不安を抱えながら自殺したり、いずれにしても死によってその彷徨を終えるわけです。

それが「悲劇」だというのは、たぶん時代的な限界とかその人の資質的な限界というものが、その否定に囚われた彷徨を最後まで辿りきることを遮るからだと私は思います。あるいはとんでもな迷妄を信じることに終わらせるからです。そしてそれは誰にとっても逃れられないものです。吉本も自分も悲劇を逃れられないことを知っています。それでも否定する意識があるならば、それを遥か遠くまで射程をとって考えることをしようとしたと思います。吉本のどこから悲劇が始まるか、それはやっぱりその射程を理解しないとわかりようがないことです。

そんなところで吉本の分裂病理解の解説に移らせていただきます。

「母型論」のなかの「異常論」について長々と解説してきました。「異常論」は精神の異常とされている状態を、「大洋」という乳胎児期のこころに結びつけて考える試みです。「異常論」の最後に「強迫神経症」とされる異常について考察している部分があるので解説を付け加えます。ここでも「強迫神経症」という異常は「大洋」に結びつけて考察されます。

強迫神経症といわれるものは、たとえば外出するとき鍵をかけたかどうかが不安になって何度も確認しに戻るとか、ばい菌が気になって何度も手を洗わないと気が済まないとか、ダンナの浮気を疑ってささいなことを何度も何度も問いだすとかそういう心のなかのこだわりに縛りつけられた状態なんだと思います。

吉本はこの精神病理学的に異常とされて病名がつけられている状態に対して、病気とはみなされていない誰もが大なり小なり抱いている「宿命強迫」というものを取り上げています。「宿命強迫」というのは吉本のあげている例だと、恋愛においていつも同じような顔立ちの異性を恋しているとか、いつも同じような経過をたどって破局にいたるとか、逆に恋愛が成就するとか、同じパターンでいつも離反を繰り返す友情とか、同じパターンで自殺未遂を繰り返す生涯とかを指しています。こういうことはそれが自分の運命のようなものかな思い返すという意味で誰もが少しは思い当たることだと思います。こうした「宿命」あるいは「宿命強迫」と、「強迫神経症」はほとんど同じではなかろうかというのが吉本の考えです。

私にはこの両者が同じようなものだとして、「強迫神経症」の症状が「異常」とみなされる根拠は、ただそれが日常生活に支障をきたすからだというところにしかないように思えます。それに対して「宿命強迫」のほうは、自分の運命だと自分で納得してしまうから、日常生活的が成り立たないというような無意識の症状にならないのだと思います。また強迫神経症とされる鍵のかけ忘れが気になるとか、不潔なものに敏感になるというようなことは誰でも時には経験することでしょう。それが「異常」とされないのは、時が過ぎると「正常」に復帰できるからだと思います。いずれにしても「強迫神経症」とそれ以外の「正常」な状態との境界というのはあやふやなものだといえる気がします。

吉本はこうした境界があいまいな状態を包括的に理解するために、「大洋」の概念に結びつけて考察しています。

「そうだとすると(注:強迫神経症と宿命強迫とが共通の素因があるものだとすると)強迫神経症反復強迫を宿命的なものの認知だとみなす者とのあいだに、どんな相違があるのだろうか。わたしの考え方ではこの相違は「大洋」の波動の表面の世界にはあらわれず、たったひとつ波の下の深層の相違にあるとしかいえないとおもえる。その深層が乱流や渦動や流れの渋滞や混溷としているか、あるいは波動の表面とおなじように平穏で静かなスムーズな流れをたもっているかが、その相違にあたっている。そしてその相違は乳(胎)児に発祥するのではなく、母親(その代理)に発祥するという意味で、もし反復強迫の循環とみえるなら乳(胎)児の生涯において宿命的なものと認知してよりようにおもわれる」(「異常論」より)

吉本の言っていることを、まあ読めばわかりますが付け足しでひらたく言い換えてみます。強迫神経症も宿命強迫もともに「大洋」に発祥している。言葉のない乳胎児期の「大洋」の心には母親との関係しか存在しない。そして母親(あるいはその代理者)の心は、意識も無意識もすべて乳胎児に刷り込まれる。もし母親と乳胎児の交流に問題があれば、その問題もそのまま乳胎児の「大洋」に刷り込まれる。それが病気と告げられようと告げられまいと、強迫的な繰り返しをせざるをえない人の無意識の根源にあるものだ。そしてその発祥の原因が乳胎児自身ではなく母親にあるということが、その人自身にはどうすることもできない「宿命」であることの根源だ。そういうことを言っているとおもいます。

これだけの理解で済ませると、お母さんとの関係に問題があって強迫的になってしまって難儀だね、かわいそうだねというようなことで済んでしまうでしょう。しかしそれじゃ済まないと吉本は考えているとおもいます。吉本は「死の位相学」という著作でそれじゃ済まないという点に触れています。

吉本によれば文学作品で死後の世界ということを正面から主題にしているものは少ない、現在では埴谷雄高の「死霊」くらいだということです。現在の文学では死後の世界の問題は、あからさまには出てこなくて精神異常のような「異常」の問題として出てくると吉本は述べています。異常ということで一番ありふれているのは「既視体験」だが、死後の世界の問題はその「既視体験」を一種の空間的に置き換えたものだといえる。だから死後の世界の問題と精神異常の問題は共通しているということです。死後の世界を迷信といって済ませたり、精神の異常の体験を病気といって済ませてしまうと、何が済まないかというとなぜ精神や病まざるを得ないのか、あるいは逆に精神の病いから視た現実の認識には、より鋭く対象を捉えることができるのがなぜかという問題を逃してしまうからだと吉本は述べています。だからその異常という主題は文学者を深くとらえ、日本でも世界でも現在書かれている文学の半分以上は異常ということにこだわった作品だということです。

精神がさいわいにも「正常」である人は現在に生きることができる。しかし不幸にも「異常」である人にはなにがあるのか。その人たちの異常性は根源としての「大洋」に結びついているために「現在」のただなかに「大洋」を露出させる面があると思います。それは言語でできあがった世界のただなかに言語以前の世界がぬうっと貌を出すようなものです。ではまた次回。