我々が存在から普遍性を抽出することは正当であるが、その普遍性は何ら有用なものではなくて、唯存在の確認といふ意味を持ち得るのみであると思はれたのである。これは言はば、論理に心理性を持たせるための基礎的な確信であつたと言へる。(〈老人と少女のゐる説話〉Ⅵ)

有用なものではない普遍性というのは、言い換えれば「無償」ということだと思います。「有用性」は何かの役に立つこと、「無償性」はなんの役にも立たないことです。「普遍性」というのは世界中の誰でも納得する正しさです。自然を相手にしても社会を相手にしても人間を相手にしても、考えに考え続け、実験や検証を繰り返せば「普遍性」に近づくことができる。誰もが肯定せざるをえない正しさに近づく。それを行うのが論理だと考えると、そうした論理的に抽出された普遍性は、今度は個人にとってなんなんだという問題意識が生じます。たとえばマルクスの思想が一定の科学としての普遍性をもっているとして、それが俺にとってなんなんだ、ということです。「サルトル マルクス並べても 明日の天気は わからねえ ヤクザ映画の看板に 夢は夜ひらく」(三上寛「夢は夜ひらく」)。

論理は普遍性を目指す。科学は普遍性を目指すわけです。科学は吉本が青春を費やした学問で、吉本には科学の精神が根付いています。ではいわゆる科学的真実が100年足らずの人生をよたよた生きる個人にとってなんなんだろうか。そんなことは普通の科学者や科学の学生は考えないでしょうが、吉本には痛切な問いだったと思います。それは吉本の青春が科学だけではなく文学と戦争とともにあったからだと思います。文学が無償性ということを、そして戦争が個人の生き死にということをのっぴきならない切実さで、吉本のもつ科学の普遍性というものに突き付けていたんだと思います。そして科学の普遍性に無償性という意味をもたせてみる。そうするとなにかコトンと腑に落ちるものがある。科学はさまざまな文明の利器を生み出し、有用性を拡大するものだけれども、科学の根源、論理の根源には、なんの役にも立たなくても、誰にもとめることができない衝動がある。それが科学の論理の無償性の衝動だということだと思います。

こんなもってまわったようなめんどくさいことをなんで考えなくてはいけないか。でもここで吉本がこだわった科学の初源の衝動の無償性という概念は、晩年の原発問題まで貫かれた吉本の思想的な確信でした。糸井重里から三好春樹まで、私が多大な影響を受けた優秀な論者が反原発という立場に動いたとき、吉本が非難や嘲笑を浴びながら提起した原子力研究の科学的な無償性の根拠というような論点は、吉本からしか聞くことのできない真実だったと私は考えます。当時真正面から吉本は正しいと公言したのは副島隆彦だけだったんじゃないかと思います。

そんなところで吉本の分裂病理解の解説に移らせていただきます。「大洋期」つまり人間の人間的なこころが生まれる根源としての胎児期、乳児期が、精神の病の根源でもあるということになります。この言葉のない時期を追求することは大変です。それは言葉のない歴史段階の人たちのこころをわかることが難しいのと同じです。

さてここから解説をしていくわけですが、なんか以前に書いたことと同じことをまた書いくことになってもしょうがない気がします。二番煎じだから。だけどやっぱり繰り返しになることは避けられないですね。少しでも新しい観点を付け加えたいと思いますが、うまくいくかどうかわかりません。前回「エロス覚」という概念の解説をしました。言葉なき「大洋」の世界を突き動かす衝動は「食」と「性」とに分けられる。「食」はわかりやすいけれど、「性」はわかりにくい。目に見えないからね。感じるしかないものです。

「食」といっても赤ちゃんがお母さんのおっぱいを吸うことです。目でおっぱいを見ながら、手でおっぱいをつかみながら、口で乳首を含み、口腔に挿し込まれる乳首を感じて乳汁を吸う。吸われた乳汁は喉から胃へ入っていく。そして腸をくぐりぬけて肛門から排せつされる。つまり身体の外壁系の感覚と内臓系の感覚が「食」、おっぱいを飲むということになかに動員されています。それは誰でもわかる。今でも食べるということは毎日くりかえしているから。しかしそれが同時に「性」つまり快美感、気持ちよさ、ウットリする感じをともなっているということは普通考えません。人類はフロイトの登場までみずからの身体が「性」でもあるということを、論理として取り出すことができなかったのだと思います。そこで「性」はただセックスということの周辺でしか認識されないし、今でもそんな感じです。しかし人間の「性」というのはもっと大きなものとして考えなくてはいけないものです。そして「性」というものを考慮に入れなければ、精神の病というものも対象化することができないのだと思います。ごはんを卵かけごはんにしてぐちゃぐちゃにするように、まぐろの刺身を漬けにして漬けまぐろにするように、にんげんの身体も「性」にどっぷり漬かったものとみなすということです。そこで「エロス覚」という吉本が作った概念の意味が生まれます。

人が「エロス覚」という「性」の集約点を身体の各所にもっているということが、精神病理解とどう結びつくか。

吉本は「母型論」のなかの「異常論」で書いています。「たとえば窃視症と露出症は、目の知覚作用に共時的に重なった目の器官にまつわるエロス覚が過剰に不均等に充当されたものとみることができる。またサディズムマゾヒズムは、体壁系に属する皮膚の痛圧感覚が、エロスとして過当な備給をうけたものとみなすことができる。異常は身体の外壁系の感覚だが内臓系についてもいえる。たとえば広義のヒステリー症を思いうかべてみれば、口(腔)や肛門のような鰓腸の上下の開口部にたいして性的な器官の役割を過剰に背負わせる傾向が、ある閾値を超えたばあいにおこると考えることができる。もっとこの言い方をおしすすめれば愛と憎しみの情念や、他者への親和と敵意の感情は、内臓系とくに心臓の高まりから生まれる心の動きに、対象にむかってゆく性の欲動が重なった形とみることができよう」と。

ここで言われていることは、身体の各所、体壁系の目だの耳だの触感だのという感覚と、内臓系の感覚とに「エロス覚」が存在する。それはただそこにあるという意味だけではなく、「エロス覚」の過剰充当というように、ある「エロス覚」に強烈に感覚が集中し、逆にある「エロス覚」には過少にしか感覚が集まらないというような「エロス覚」の不均等が起こりうるということです。そしてその不均等が性的な異常といわれる精神疾患を生み出すということです。

階段の下でスマホかなんかで女性のパンツを写すとか、コートをぱっと開いて女性に性器を見せて喜ぶというような窃視症とか露出症とか言われるものは、目の「エロス覚」が不均等に過剰充当されたものだと吉本は言っています。見るということに「性」の感覚が異様に集まった状態と考えるわけです。他の例についても同様です。にんげんの身体は「大洋」期における「食」と「性」の共時性ということに起源をもつ「エロス覚」に漬けこまれたようなものであって、「エロス覚」の特定の身体の箇所への異常な集中ということが起こりうる。それがさまざまな精神疾患の根源にあるということになります。

これははたして「異常」ということになりうるでしょうか。「エロス覚」の偏りということであれば、おそらくあらゆる人には偏りがあると思います。画家は目に、料理人は舌や胃腸に、また異性を想うあらゆる人は内臓系のとくに心臓の感覚に「エロス覚」を異常に集中させているとみなすことができます。「エロス覚」ということからにんげんを見る。わたしやあなたの内側も「エロス覚」として見る。そして精神疾患とされた人たちの内面も「エロス覚」という観点から見るということは、私たちの常識に衝撃を与えます。私たちはそのように「性」の身体への偏在というように自分や他人を見ないからです。しかしこの観点は面白い。昔、三島由紀夫が人間の行動はすべて性的なものだと言ったことがあります。そんな誰もが言いそうなことでも三島が言ったことで心に残っています。身体が「性」に漬けこまれた漬け丼みたいなものだということを無意識に頑強に拒否することがあれば、きっと深刻な症状があらわれると思います。ではまた次回で。